第9話 サバイバル仮眠
九月十八日、木曜日。
三夜連続となる徹夜明けの朝、俺の体はついに明確な悲鳴を上げ始めていた。
頭の奥には鈍い痛みが張り付き、視界は常に薄い膜がかかったようにぼやけている。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえ、立っているだけで地面が揺れているような錯覚に陥った。
「……だめだ、そろそろ死ぬ……」
登校中の坂道で、俺は何度もうわ言のように呟いた。人間の限界を超えつつある。睡眠不足がここまでダイレクトに生命の危機を感じさせるとは思わなかった。
教室に辿り着き、自分の席に座るなり、渡大輔たち男子グループが面白半分に群がってきた。
「おい淳弥!お前、今朝の不動のグループチャット見たぞ!『一夜を共にした』ってどういうことだよ!」
「お前、まさか風紀委員長と夜に怪しいことしてんじゃねえだろうな!テレフォン説教プレイとか?」
大輔たちがニヤニヤと下世話な笑いを浮かべて肩を揺さぶってくる。
普段なら適当に言い返して笑いを取るところだが、今の俺には彼らの声すら騒音にしか聞こえない。
「……ただの……健康状態の報告だよ……。ショートスリーパーの俺には無用だがな……」
「出たよショートスリーパー!でもお前、今日マジで顔色ヤバいぞ。目の下のクマ、マジックで塗ったみたいになってるって」
「放っておいてくれ……これはあれだ、別件の、そうクマじゃなくて、ちょっとヤンチャして相手のパンチをもらっただけだ」
虚ろな目で宙を見つめながら答えると、大輔たちは「こいつマジでヤバいかも」と顔を見合わせ、少しだけ距離を取ってきた。
チャイムが鳴り、一時間目の授業が始まる。
ここからが本当の地獄だった。
教師の単調な声が子守唄に聞こえ、黒板の文字がゲシュタルト崩壊を起こす。気を抜けば一瞬で意識が飛びそうになるのを、机の下で自分の太ももをつねり上げ、強烈なミントタブレットを噛み砕くことでなんとか耐え凌いだ。
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そして訪れた、休み時間。
大輔たちがいじりに来る前に、俺は素早く席を立ち、教室から逃亡した。
(寝る……絶対に寝る……!一分でも、一秒でもいいから……!)
俺の特技は『秒速入眠』だ。数分の仮眠さえ取れれば、脳の疲労を一時的にリセットできる。
しかし、教室で堂々と机に突っ伏して寝るわけにはいかない。「三十分しか寝ていない」という嘘がバレてしまうからだ。
俺は学校中の死角を探し回った。
まずは旧校舎の男子トイレ。一番奥の個室に入り、便座に腰を下ろして鍵をかける。
「ふぅ……」
壁に寄りかかり、目を閉じる。ワン、ツー、スリー。
一瞬で深い眠りに落ちた。
「——おい、誰かいるのか?授業始まるぞ!」
「ビクッ!?」
数分後、ドアをノックする音で強制的に覚醒させられる。
「す、すいません、腹痛くて……!」
誤魔化しながらトイレを飛び出し、次なる安息の地を求めて彷徨う。
さらに次の休み時間は、体育館の裏にある体育倉庫に潜り込んだ。
跳び箱とセーフティマットの間にできた薄暗い隙間に体をねじ込み、埃っぽい空気の中で目を閉じる。
誰かの足音が近づいてくるたびにビクビクしながら、三分だけ意識を手放す。
まるで敵陣に取り残された傭兵のような決死のサバイバル仮眠。
少し寝ては移動し、隠れては寝る。その繰り返しで、俺はなんとか一日の授業をやり過ごすことに成功した。
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十七時。
這うようにして家に帰り着いた俺は、母屋には目もくれず、裏庭のプレハブ小屋へ直行した。
ドアを閉めた直後、重力に逆らうことを諦め、制服のままベッドに倒れ込む。
「あぁ……神様……」
ふかふかのマットレスが、傷ついた兵士を優しく包み込んでくれる。
視界が暗転するのに、一秒もかからなかった。
泥のような、深く、甘美な眠り。
このまま永遠に目覚めたくない。誰も俺を邪魔しないでくれ——たのむ。
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「淳弥!!いつまで寝てるの!!夕食よ!!」
世界が、粉々に砕け散った。
「……はぁっ!?」
プレハブ小屋のドアが乱暴に開け放たれ、母、晴江の怒声が容赦なく鼓膜を貫いた。
「もう十九時よ!ご飯冷めちゃうでしょ、早く来なさい!」
「ま、待って、母さん……俺、今日こそ本当に無理……」
「何が無理なものですか!家族揃ってご飯を食べるのがうちのルールだって言ってるでしょ!ほら、起きた起きた!」
有無を言わさぬ母《司令官》の圧力。
たった二時間の睡眠では、蓄積された疲労の十分の一も回復していない。むしろ、中途半端に深い眠りから引きずり起こされたせいで、頭痛と吐き気が倍増していた。
俺はゾンビのように立ち上がり、フラフラと母屋へ向かった。
ダイニングテーブルにつき、目の前に出されたハンバーグを見つめるが、食欲など微塵も湧かない。
「お兄ちゃん、今日また死にそうな顔してるよ。てか制服シワシワだし」
「……男には、シワを刻んででも守らなきゃならないものがあるんだ……」
「うわ、キモっ。中二病こじらせた?」
妹の莉央の辛辣な言葉も、今の俺には遠い国の出来事のように聞こえた。
味もわからないまま機械的に夕食を胃に詰め込み、逃げるように風呂場へと向かう。
湯船に浸かり、温かいお湯に体が包まれた瞬間、強烈な睡魔が俺を襲った。
(あ……気持ちいい……)
意識が急速に遠のき、体がずるずるとお湯の中に沈んでいく。
「ゴボッ!ゲホッ、ゴホォッ!!」
鼻からお湯を吸い込み、強烈な痛みとむせ返りで強制的に意識が引き戻された。
「あぶねえ……!マジで死ぬところだった……!ってかこの流れも何度目だっけ」
命の危機を感じた俺は、慌てて風呂から上がり、急いで体を拭いてプレハブ小屋へと戻った。
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時刻は十九時五十分。
今日、監視の当番に入っているのは、カーストトップギャルであり読者モデルでもある、蜂屋愛莉だった。
正直なところ、俺は彼女を一番警戒していた。
幼馴染の栞、学級委員長の凛香、風紀委員長の瑞希とは、一応委員会や昔からの付き合いで会話の糸口がある。
だが、愛莉とは住む世界が違いすぎる。同じクラスにいても、彼女は常に華やかなグループの中心にいて、俺のような地味な雑用係とは接点が皆無なのだ。
(いきなり夜中にチャットしろって言われても、何を話せばいいんだ……?)
スタンプを送るだけならまだしも、何か気の利いた返信をしなければ「つまんない」と一蹴されて、すぐに知らない友達に電話されるかもしれない。
机の上のスマホを睨みつけながら、冷や汗を流していると。
二十時ちょうど。
チャットの通知音ではなく、いきなり着信を知らせるポップな着信音がプレハブ小屋に鳴り響いた。
「えっ!?また、いきなり電話!?」
俺は慌てふためきながら、震える指で『通話』ボタンをタップした。




