第8話 瑞希の詰将棋
二十時。
予定通りであれば、今日の監視当番である不動瑞希から確認のメッセージが来るはずだった。俺は珈琲ショップのマスターからもらった器具でコーヒーを淹れ、強烈なカフェインを胃に流し込んで臨戦態勢を整えていた。
しかし、机に置いたスマホは「ピコン」という通知音ではなく、ブブブと着信のバイブレーションを長く響かせた。画面には『不動瑞希』の文字。
俺は慌てて通話ボタンをタップした。
「も、もしもし?不動さん?」
『ああ、僕だ。メッセージで都度やり取りするより、こうして通話状態にしておいた方が簡単でしょう?これより監視を始めるわ』
唐突な電話に驚きつつも、俺は「それは、まあ……そうだけど」と戸惑いながら同意した。すると瑞希は『では』とだけ言い、それきり口を閉ざしてしまった。
お互いに何を話すわけでもなく、ただ通話状態のまま静かに時間が過ぎていく。
無音というわけではなかった。スピーカーの先からは、瑞希の静かな呼吸音が聞こえてくる。時折、コップに飲み物を注ぐ音や、それを飲む微かな喉の音までが鼓膜を揺らした。
普段は厳格で近寄りがたい風紀委員長の、無防備な生活音。まるで彼女がすぐ横の布団にいて、同じ空間を共有しているかのような錯覚を覚え、俺は無駄にドキドキしてしまう。
俺は睡魔と妙な緊張を誤魔化すために、苦いコーヒーをすすり、キーボードを叩いてネットサーフィンをしながら必死に「寝てないアピール」を続けた。
+++
その静寂を唐突に破ったのは、庭を歩くサンダルの足音だった。
「お兄ちゃーん!スマホの予備の充電器貸して!私の壊れちゃったー」
プレハブ小屋のドアがドンドンと乱暴に叩かれ、妹の莉央の声が響いた。
(げっ、莉央!?)
俺は慌ててスマホの送話口を手で覆い、小声で囁いた。
「不動さん!妹が来たから、少し息を潜めててくれ!」
『えっ……わ、わかった』
俺はスマホを急いで布団の中に隠し、ドアを開けた。
「ほら、これ使え。早く持ってけ」
「サンキュ。てか、なんか焦ってない?よそよそしいっていうか……」
「気のせいだ。勉強に集中してただけだよ」
女子特有の勘を働かせて訝しむ莉央を適当にあしらい、すぐにドアを閉めて鍵をかける。ふうと息を吐き出しながら、布団からスマホを引っ張り出した。
「不動さん、ごめん。もう大丈夫だ」
『……ああ。なんだか、妙な緊張感があったわね』
電話越しの瑞希の声は、少しだけ上ずっていた。物理的な距離は離れているのに、まるで同じ布団の中に隠れて密着し、一緒に息を殺していたかのようなスリル。背徳感にも似た共有体験が、俺たちの間に不思議な連帯感を生んでいた。
+++
九月十八日、木曜日。
日付が変わった深夜。電話の先から、「パチン、パチン」と、硬質な小さな音が規則的に聞こえてきていることに気がついた。
気になった俺は、静かに口を開く。
「不動さん、話しかけてもいい?」
『もちろん構わないわ。今この通話には、僕と君しかいないからね』
「今、何してるの?さっきから鳴ってるその音は?」
俺が尋ねると、瑞希は少し嬉しそうな声色に変わった。
『詰将棋を解いているの。この音は、盤面に駒を置く音だよ』
そこから瑞希は、詰将棋の楽しさや奥深さについて熱っぽく語り始めた。
『将棋は、ルールが厳格に決まっているからこそ楽しいんだ。その限られたルールの中で、どれだけ自由で飛び抜けた発想を発揮できるか。それが醍醐味なんだよ』
「自由な発想か……。俺なんてクラスじゃ、ただ言われた雑用をこなすだけの『歩兵』みたいなもんだからな。飛び抜けた活躍なんて無縁だよ」
俺が自虐的に笑うと、電話の向こうで駒を置く音がピタリと止まった。
『……「歩のない将棋は負け将棋」という格言を知らないの?』
「えっ?」
『どんな駒にも、必ず重要な役割がある。君のそういう目立たない働きを、ちゃんと見ている人間はいる……ということよ』
瑞希の言葉は、酷く真摯で、少しだけ照れくさそうだった。
かつて孤立しかけた彼女を俺が陰ながらフォローした過去を、彼女はずっと覚えていてくれているようだった。
「ありがとう。……ところで、不動さんはどうして監視員を名乗り出たんだ?暇なわけじゃないだろ?」
俺が気恥ずかしさを誤魔化すように尋ねた。
『夜は遅くまで将棋をしているから、そ、そのついでよ』
そして、ふと思い出したようにトーンを落として聞いてきた。
『そういえば……君と常盤さんはどういう関係なの?』
「栞?ただの幼馴染だよ。昔からの腐れ縁ってだけ」
俺がそう答えると、瑞希はそっけなく短い言葉を返した。
『……そう』
そのたった二文字にどんな感情が込められていたのか。睡眠不足で鈍った俺の頭では、到底理解することはできなかった。
+++
朝六時。
過酷な二日目の徹夜を終え、朝日がプレハブ小屋に差し込む頃、俺のスマホにグループチャットの通知が鳴った。
『不動瑞希:本日の監視報告。被験者・鱈志野淳弥は、夜間一睡もすることなく覚醒状態を維持していた。昨夜は通話にて一夜を共にしたことを報告する』
(だから、その『一夜を共にした』って言い方!昨日の凛香に続いて、絶対に誤解を招くだろ!)
俺の心の中の叫びを代弁するかのように、グループチャットがけたたましく鳴り始めた。
『神薙凛香:不動さん、あなた昨日『風紀の乱れだ』と言っていませんでしたか?(優雅に微笑むスタンプ)』
『蜂屋愛莉:瑞希ちゃんも一夜を共に!?風紀委員長がそれ言っちゃうの!?(爆笑して転げ回る猫のスタンプ)』
『不動瑞希:ご、誤解だ!これは健全な至極真っ当な監査であって、決して私的な感情はない!(威厳を放つ犬のスタンプ)』
『常盤栞:淳弥……不動さんとも……。(無表情で包丁を研ぐウサギのスタンプ)』
(瑞希さん、言い訳すればするほど自爆してるぞ!それに栞、昨日よりスタンプが物騒になってるんだけど!?)
画面の向こうの瑞希がどんな顔をして言い訳を打っているのか。
徐々に熱を帯び始める女子たちのやり取りを見つめながら、俺はズシリと重い頭を抱え、三日目の地獄へ向けて深いため息をついた。




