第6話 凛香とピアノ
二十時過ぎ。俺はマスターにもらった手挽きのミルに『星鳴ブレンド』の豆を入れ、ゴリゴリとハンドルを回し始めた。
プレハブ小屋に、深く香ばしい匂いが充満していく。細口のポットからゆっくりとお湯を注ぐと、ぷくぷくと豆が膨らみ、濃厚な液体がサーバーへと落ちていった。
初めて自分で淹れたコーヒーをマグカップに注ぎ、一口飲む。
「……にっが。でも、めちゃくちゃ目が覚めるな」
強烈な苦味とカフェインが、霞んでいた頭を強制的にクリアにしていく。これでなんとか、今日の地獄のシフトを乗り切れそうだ。
『ピコン』
二十二時ちょうど。凛香から、スケジュール通りの点呼を知らせるスタンプが届いた。
俺はすぐにコアラが逆立ちをしているスタンプを送り、ついでに気になっていたことをメッセージで尋ねてみた。
『神薙さんって、なんで監視員に立候補してくれたの?俺たち、普段はあんまり話さないのに』
少しの間をおいて、凛香からの返信が画面に表示された。
『勘違いしないで。私は夜、遅くまで勉強しているから、そのついでに鱈志野くんのショートスリーパー生態記録を取ろうと思っただけよ。学級委員長としての、あくまで学術的な興味からね』
(なるほど。優等生の様々な事柄への興味は尽きないのだな)
凛香のそっけない建前を、俺は完全に真に受けて納得した。
彼女のような完璧主義の学級委員長が、ただのクラスのいじられ役である俺に、それ以外の感情を抱いていることはなかった。
俺は『勉強頑張って』というスタンプを返し、その後も三十分おきに無機質な生存確認のやり取りをするだけで、静かに時間が過ぎていった。
+++
九月十七日、水曜日の明け方。
窓の外がうっすらと白み始め、夜と朝の境界線が曖昧になる頃。
不意に、スマホの画面に『着信:神薙凛香』の文字が浮かび上がった。
「……もしもし?」
『あ、鱈志野くん?』
電話に出ると、凛香の透き通るような声が耳に届いた。
そして彼女の背後から、微かにだが、優雅で美しいクラシックピアノの旋律が聞こえてきた。オーディオの音ではなく、今まさに誰かが鍵盤を叩いているような、生きた音だ。
「神薙さん、ピアノ弾いてたの?」
『えっ?あ、うん。ちょっと勉強の気分転換にね。少しだけ指を動かしていたのよ』
彼女は少し照れたように誤魔化した。
全国大会レベルの腕前を持つという彼女のピアノをこんな時間に聴けるなんて、なんだかひどく贅沢な秘密を共有している気分になる。
『その……勉強がすごくはかどったから、そのお礼を言いたくて。監視させてくれて、ありがとう』
「いや、俺の方こそ、ショートスリーパーの証明に手助けしてくれてありがとう」
俺が素直に感謝を伝えると、電話の向こうで沈黙が降りた。
「そろそろ、時間だね。切るよ?」
『あ、あの……』
「どうした?」
『……ううん、なんでもないわ』
凛香が名残惜しそうに言葉を濁した。
『なんでもない』。その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、以前床屋で読んだ男性雑誌の恋愛特集のページが閃いた。
『女子が言う「なんでもない」は、絶対に何かあるサイン!』
普段なら空気を読んでスルーするところだが、カフェインで妙に強気になっていた俺は、そのまま食い下がった。
「なんでもなくないだろ。気になるから言ってくれよ」
『…………あのね』
凛香は観念したように、ぽつりと言葉を紡いだ。
『私、同級生の男の子と電話で話をしたことなんて、今まで一度もなくて……』
「えっ、そうなのか?」
『だから、昨日……鱈志野くんが常盤さんとどんな話をしたのかなって、少しだけ気になったの』
完璧な学級委員長の、あまりにも不器用で可愛らしい本音だった。
まさか俺と栞の通話内容を気にしているとは思いもせず、俺はあっけらかんと答えた。
「ああ、そんなこと?マジでどうでもいい話ばっかだったよ」
『どうでもいい話?』
「購買のパンが最近おいしくなったとか、星鳴ベイエリアの夜景が綺麗だって噂になってる、とかさ」
『……そ、そうなんだ』
電話越しでもわかるくらい、凛香の声からふっと緊張が抜け、安堵の響きが混じった。
『それならいいの。ごめんなさい、変なこと聞いて。……じゃあね、鱈志野くん』
「おう、また学校でな」
通話が切れる。
俺はスマホを見つめながら、不思議そうに首を傾げた。
男と電話したことないから、話題が気になっただけか。神薙さんも意外と普通の女子高生なんだな。
彼女の内面に興味がないわけではないが、それよりも大波のように定期的に押し寄せる眠気に抗うのに必死になった。
『ピコン』
直後、グループチャットに通知が入った。
『神薙凛香:本日の監視報告。被験者・鱈志野淳弥は、夜間一睡もすることなく覚醒状態を維持していました。昨夜は通話にて一夜を共にしたことを報告します』
(言い方!一夜を共にしたって言い方、なんか誤解を招かないか!?それに明け方ちょっと話しただけなのに、なぜかずっと話していたみたいになってる!)
俺が画面に向かってツッコミを入れていると、他の監視員たちから立て続けに反応が返ってきた。
『蜂屋愛莉:ヒューヒュー!委員長やるじゃん!(ニヤニヤしている猫のスタンプ)』
『不動瑞希:風紀の乱れだ!通話ログを提出しなさい!(机をバンバン叩く犬のスタンプ)』
『常盤栞:……。(ジト目でこちらを睨みつけるウサギのスタンプ)』
『神薙凛香:あくまで生態記録の一環ですわ。(優雅にお茶をすするスタンプ)』
(生態記録ならもっと正確に書いてくれ!凛香さん、完全に楽しんでるだろ!)
画面の中で繰り広げられる、スタンプとメッセージの応酬。
俺の意志とは無関係に盛り上がる監視同盟のチャットを見つめながら、俺は迫り来る三夜目の地獄へ向けて、深い絶望のため息をついた。




