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第5話 焙煎珈琲店

 九月十六日、火曜日。

 私立夢見学園高校へと続くいつもの坂道が、今日ばかりはとてつもなく険しい山道に感じられた。

 一睡もしていない俺の体は鉛のように重く、視界はかすかに揺れている。


「……だめだ、このままじゃ確実に授業中に意識が飛ぶ」


 死に物狂いで学校へ向かう途中、俺は通学路にあるコンビニへ転がり込んだ。

 カフェインが大量に入ったエナジードリンクを三本と、強烈な清涼感のある目薬を買い物カゴに放り込む。レジの店員が俺の顔を見てギョッとしていたが、気にしてはいられない。


 教室に辿り着いた俺は、何事もないかのように自分の席についた。

 見栄を張って『ショートスリーパー』だと豪語してしまった以上、学校で寝落ちするわけにはいかない。もし居眠りでもしようものなら、昨日広まった噂がすべて嘘だったとバレてしまう。


「やあ淳弥《じゅんや》、おはよう!今日も絶好調だな、ショートスリーパー殿!」


 朝のホームルーム前、渡《わたり》大輔《だいすけ》がニヤニヤしながら肩を組んできた。


「ああ、おはよう。変なあだ名はやめてくれ」

「わりぃわりぃ、しかし三十分の睡眠でよくそんな涼しい顔できるよな。バケモンか!俺なんか昨夜もゲームで三時間しか寝てなくて、超眠いってのに」

「三時間は寝すぎだろ。睡眠の質が悪いんだろうな」


 強がりで虚勢を張りながら、俺は内心で血の涙を流していた。

(代わってくれ!その三時間の睡眠時間、今すぐ俺に譲ってくれ!)


 授業中も地獄だった。

 暖かな日差しが差し込む教室は、まるで巨大な睡眠導入装置だ。目を開けているだけで精一杯で、黒板の文字がミミズのようにうねって見える。

 こっそり机の下で太ももをつねり、休み時間のたびにトイレの個室に駆け込んでは、充血した目に限界まで目薬を注し続けた。


 ふと、教室の斜め前方に座る幼馴染の常盤《ときわ》栞《しおり》と目が合った。


「……ふぁ」


 栞が小さくあくびを噛み殺している。

 彼女も昨夜、俺の監視のために夜通し起きていた。眠たいのも無理もない。だが、俺と目が合った瞬間、栞は細縁の眼鏡の奥の瞳を和らげ、ふふっと小さく微笑んだ。


(淳弥と過ごした秘密の一夜)


 そんな声が聞こえてきそうな、優越感に浸るような表情だった。

 普段は生真面目で厳しい図書委員長が、自分とだけ『共に一夜を明けた秘密』を共有していることに、密かな喜びを感じているようだった。


 俺は引きつった笑顔を返すしかなかった。

(ごめん栞、俺のつまらいプライドに巻き込ませてしまったことを許してくれ……!)


 +++


 なんとか一日の授業を乗り切った俺は、放課後、ふらつく足取りで星鳴《ほしなき》商店街へと向かった。

 レトロな街並みの中にひっそりと佇む、個人経営の焙煎珈琲店。店内に足を踏み入れると、ローストされた豆の深い香りが鼻をくすぐった。


「いらっしゃい。……なんだか、ひどく疲れた顔をしてるね、学生さん」


 カウンターの奥で豆を選別していた白髪のマスターが、俺を見て目を丸くした。


「すみません……。とにかく目が覚める、一番カフェインの強いコーヒー豆をください」


 切実な俺の注文に、マスターは一瞬ポカンとした後、豪快に笑い声を上げた。


「ははは!高校生が徹夜してまでやりたいことがあるなんて、青春だねぇ!テスト勉強かい?それともゲームかな?」

「……まあ、そんなところです」


 まさか『美少女たちに監視され、強制的に徹夜させられている』とは言えず、俺は曖昧に誤魔化した。


「よしきた。それじゃあ、うちの特製『星鳴《ほしなき》ブレンド』の深煎りにしてあげよう。ガツンと目が覚めるぜ」

「ありがとうございます。……でも俺、家にコーヒーを淹れる道具がなくて。インスタントみたいにお湯を入れるだけで飲めるやつは……」

「それはもったいない、せっかくの焙煎豆を台無しにする気かい!」


 マスターは呆れたように首を振ると、店の奥から古びた段ボール箱を引っ張り出してきた。


「ほら、これを持っていきな」

「えっ、これは……?」

「俺が昔使ってた、中古のドリップ器具一式だ。ドリッパーにサーバー、細口のポットも入ってる。店に余ってたから、おまけでやるよ。徹夜するなら、自分で丁寧に淹れる時間も良い気分転換になるからな」

「そ、そんな、悪いですよ!」

「いいってことよ。青春を突っ走る若者への投資だ」


 ありがたくも重い段ボール箱とコーヒー豆を抱え、俺は店を後にした。


 +++


 十七時過ぎ。家に帰り着くや否や、俺はプレハブ小屋のベッドにダイブした。

 一瞬で意識がブラックアウトする。特技の『秒速入眠』が発動し、俺は泥のように深い眠りへと落ちていった。


「……んぁ……」


 どれくらい眠っただろうか。永遠とも思える安らぎの時間は、激しいノックの音によって無残に引き裂かれた。


「淳弥!夕食の時間よ!早く来なさい!」


 十九時。母、晴江《はるえ》の怒声だった。

 鱈志野《たらしの》家の絶対ルール『夕食は全員集合』から逃れることはできない。


「……はい、今行くよ……」


 たった二時間の睡眠では焼け石に水だ。俺はゾンビのように母屋へ向かい、味が全くわからないまま夕食を胃に流し込んだ。

 その後に入った風呂でも、危うく湯船に沈んで溺れかけ、むせ返りながらなんとか生還した。


 時刻はもうすぐ二十時。

 プレハブ小屋に戻った俺は、マスターからもらったドリップ器具一式を机に並べ、戦いの準備を始めていた。

 今日の監視当番は、学級委員長の神薙《かんなぎ》凛香《りんか》だ。


『ピコン』


 スマホが鳴った。凛香からのチャットだ。


『監視シフトに入りました。公平かつ厳密な記録のため、これより三十分ごとに点呼と意識清明度テストを実施します。遅れは一切認めません』


 送られてきたあまりにもガチガチすぎるスケジュール表を見て、俺は絶望で頭を抱えた。


「嘘だろ……。栞の時より厳しいじゃないか……」


 完璧主義の学級委員長による、容赦のない深夜監視。

 俺は震える手でお湯を沸かしながら、今夜もまた長く過酷な夜になることを覚悟していた。

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