第40話 助言
その日の夜。
ホテルの一角に設けられた『公式観察エリア』という名の貸切会議室で、俺の監視シフトが始まった。
二十二時から一時までの最初の当番は、引率責任者である養護教諭の雨宮梢先生だ。
「さあ、淳弥くん。こっちにいらっしゃい」
先生は会議室のソファを叩き、俺を隣に座らせた。白衣ではなく、ホテルの部屋着でラフな服装だ。
「失礼するわよ」
先生の手が俺の首筋から肩に触れ、ゆっくりとリンパドレナージュの施術が始まる。大人の女性の滑らかな指先と、ほのかに漂う甘い香りに、日中の疲れがじんわりと溶け出していく。
「あぁ……先生、気持ちいいです」
「そう。昨日も寝てないんでしょ?無理して強がっていた分、ここでしっかり休みなさい」
先生の指の動きは心地よかったが、その声のトーンはいつもより少しだけ真剣だった。
「……先生、どうかしましたか?」
俺が尋ねると、先生は俺の肩を揉みほぐしながら、静かに口を開いた。
「今日の昼間、あなたたちの様子を見ていたわ。……あなた、栞さんにだけひどく壁を作っていたわね」
図星を突かれ、俺の体がビクッと硬直した。
「……あいつは、俺が絶対に嘘をつかないって信じ切ってるんです。だから、先生の前みたいに『実は徹夜は嘘なんだ』って甘えるわけにはいかなくて」
「そうやって、彼女の理想を守るために強がっているのね。でもね、淳弥くん」
先生の手が止まり、俺の頬にそっと触れた。
「意地を張りすぎて、一番大切なものを傷つけていたと後で気づいても、もう手遅れになっていることがあることを覚えておいて」
その言葉は、大人の女性としての、そして生徒を見守る教師としての深い重みを持っていた。
「女の子はね、自分にだけ完璧でいてほしいわけじゃないの。弱さを見せて、頼ってほしい時だってあるのよ。今のあなたの態度は、かえって彼女を遠ざけて、孤独にしているだけじゃないかしら」
「俺が、栞を……」
昼間のバーベキューでの、栞の寂しそうな瞳が脳裏に蘇る。
俺が彼女の理想を守ろうと必死になればなるほど、結果的に彼女を疎外感という名の孤独に追い込んでいる。
梢先生の的確な助言に、俺は反論できず、ただギュッと唇を噛み締めることしかできなかった。
「さあ、少し目を閉じなさい。次の彼女の番が来るまで、私がしっかり休ませてあげるから」
「何でもお見通しなんですね。……頼れるのは、先生だけです」
先生の優しい声に促され、俺は重い瞼を閉じた。しかし、胸の奥に広がる罪悪感は、どんなマッサージでも解きほぐすことはできなかった。
+++
時刻は深夜一時。
引率責任者である雨宮梢先生のシフトが終わり、会議室のドアが控えめにノックされた。
「淳弥、交代に来たよ」
静かにドアを開けて入ってきたのは、幼馴染の常盤栞だった。ホテルの備え付けの部屋着の上にカーディガンを羽織った彼女は、両手に湯気を立てる紙コップを大事そうに持っている。
「おう、起きてるぞ。当番お疲れ」
俺は、ソファに座り直して努めて明るい声を出した。先ほどの梢先生のシフトで少し休ませてもらったとはいえ、俺の体は眠りを欲している。まぶたが鉛のように重かった。
「はい、これ。温かい緑茶淹れてきたわ。ずっと起きてて、喉も乾くでしょうから」
「サンキュ。気が利くな」
栞は俺の向かいのソファにちょこんと座り、ふうと息を吐いた。緑茶の優しい香りが鼻をくすぐり、張り詰めていた神経が少しだけ解れる。
しかし、それが罠だった。温かい飲み物が胃に落ちたことで、身体が「もう休んでもいい」と勘違いし、強烈な睡魔が一気に押し寄せてきたのだ。
(やばい……意識が……)
視界がぐらりと揺れる。俺は慌てて机の下で、自らの太ももを力いっぱい抓った。鋭い痛みが脳を貫き、無理やりに意識を覚醒させる。
「淳弥、本当に大丈夫?なんか、顔色が……」
「全然大丈夫だ!言っただろ、ショートスリーパーだからな。逆に今くらいが一番頭が冴えてるんだよ」
俺は痛みを堪えながら、引きつった笑顔で強がった。
「……そう」
栞は紙コップの縁を指でなぞりながら、少しだけ俯いた。
「ねえ、淳弥。今日の昼間、みんなに囲まれて大変そうだったわね」
「あー……まあ、みんな心配性っていうか。ありがたいんだけどな」
「……私には、そうは見えなかったわ」
栞の声は、ひどく静かだった。細縁の眼鏡の奥の瞳が、俺を真っ直ぐに見据えている。
「神薙さんも、不動さんも、蜂屋さんも……みんな、淳弥とすごく自然に話してた。私にはわからない話題で笑い合って、淳弥も、彼女たちにはなんだか少し、肩の力が抜けているみたいだった」
俺の心臓がドクンと跳ねた。
俺は彼女たちに「実は徹夜は嘘なんだ」と白状し、共犯関係を結んでいる。だからこそ、彼女たちの前では無意識のうちに素の自分、情けない弱音を吐ける自分を出してしまっていたのだろう。
「で、でも、栞だって昔からの付き合いだし……俺はいつも通りだぞ?」
必死に誤魔化そうとするが、言葉が上滑りしていくのが自分でもわかった。
「……淳弥、最近遠くにいっちゃったみたい」
栞がポツリとこぼしたその言葉は、静かな会議室に重く響いた。
「昔は、もっといろんなこと話してくれたのに。今は、私が『休んで』って言っても、絶対に『大丈夫』って言うだけ。……私、淳弥に何も頼られてないみたいで、すごく寂しい」
彼女の不器用で真っ直ぐな本音が、俺の胸を鋭く抉った。
(違うんだ、栞……)
俺が壁を作っているのは、お前を遠ざけたいからじゃない。お前が信じている「嘘をつかない淳弥」という理想を壊すのが怖くて、情けない本当の自分を見せられないだけなんだ。
しかし、その言葉を口に出すことはできなかった。言えば、これまでついてきた嘘のすべてが崩れ去ってしまう。
「……そんなことないさ。俺は、ずっとここにいるよ」
俺は痛む太ももをさらに強く抓りながら、中身のない言葉を返すことしかできなかった。
+++
午前四時。
永遠とも思える命がけの三時間が終わり、ドアがノックされた。
「時間よ、常盤さん。ここからは私が引き継ぐわ」
現れたのは、学級委員長の神薙凛香だった。
「……ええ、わかったわ。淳弥、無理しないでね」
栞は少しだけ名残惜しそうに俺を見てから、静かに会議室を出て行った。
ドアが閉まり、足音が遠ざかったのを確認すると、俺の身体から一気に力が抜けた。
「……終わった……」
「よく頑張ったわね、鱈志野くん」
凛香はふうとため息をつくと、俺の隣に座り、自分の太ももをポンと叩いた。
「昨日の私の当番以外は、一睡もできなかったんでしょう?限界の顔をしているわ。ほら、ここからは私の番よ。安心して寝なさい」
「……ありがとう、凛香。助かる……」
俺は遠慮する気力もなく、彼女の柔らかい膝に頭を預けた。フローラルな香りに包まれ、特技の『秒速入眠』が発動する。俺の意識は一瞬にして深い眠りの底へと落ちていくその瞬間、ふと出入り口を見た。
ドアがわずかに開いていた。
俺は、栞が閉め忘れたのだろう、「おっちょこちょいだなぁ」と、そんなことを思いながら、闇に引きづられるように深い眠りに落ちていった。




