第39話 マリン体験
十月二日、木曜日。修学旅行二日目。
昨晩の公式観察エリアでの監視員たちの膝枕リレーにより、俺の体力はギリギリのところで底を打たずに済んでいた。完全回復とはいかないまでも、青い海と空が広がる沖縄を満喫するくらいの気力は残っている。
美ら海水族館の見学を終え、俺たち二年B組は恩納村のビーチでマリン体験の時間を迎えていた。
太陽が照りつける白い砂浜。だが、そこは俺にとって別の意味で過酷な戦場だった。
「はいはーい!バナナボート、アタシが淳弥くんの隣ね!」
カーストトップギャルの蜂屋愛莉が、トレンドを押さえた派手な水着姿で俺の右腕に抱きついてきた。豊かな胸の感触が腕に伝わり、俺は思わずたじろぐ。
「待ちなさい、蜂屋さん。バナナボートはバランスを崩しやすい危険な乗り物よ。安全管理のため、有段者である僕が鱈志野君の隣にいるべきだ」
左腕を掴んできたのは、露出の少ないスポーティな水着に身を包んだ風紀委員長の不動瑞希だ。涼しげな顔の裏で、僕の隣は譲らないという強い意志が火花を散らしている。
「ちょっと二人とも、はしたないわよ!……鱈志野君、バナナボートは辞めてシュノーケリングに行きましょ。クラス員の思い出作りは学級委員長の務めなんだから」
神薙凛香までが、フリルがあしらわれた可愛らしい水着姿で俺の正面に立ち塞がった。
彼女たちは皆、俺の『本当は毎日八時間寝ないとダメな人間』という秘密を自分だけが共有しているという、共犯者としての優越感を持っている。そのため、「自分が淳弥を支えなければ」という大義名分のもと、陣取り合戦は白熱する一方だった。
「あー、わかった!順番に隣に乗るから、引っ張らないでくれ!」
周囲の男子たちからの嫉妬と殺意の視線を浴びながら、俺は引きつった笑顔でなんとかその場を収めるしかなかった。
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夕方になり、俺たちはホテルの中庭でバーベキューの夕食を迎えた。
肉の焼ける香ばしい匂いが漂う中、俺の皿には次から次へと食べ物が放り込まれていく。
「淳弥くん、このお肉焼けたよ!はい、あーんしてあげる♡」
愛莉がトングで掴んだ肉を俺の口元に運んでくる。
「蜂屋さんにばかり任せておけないわ。鱈志野くん、野菜もしっかり摂りなさい。ほら、口を開けて」
凛香が焼き野菜を差し出し、瑞希に至っては「鱈志野くん、汗をかいているわよ」とタオルで俺の額を拭き始める始末だ。
周囲の目を気にしながらも、彼女たちの好意と世話焼きを無下にはできず、俺はただ曖昧に笑って受け入れるしかなかった。
だが、その騒がしいテーブルから少し離れた席で、一人静かにこちらを見つめている瞳があった。
幼馴染の常盤栞だ。
生真面目な図書委員長である彼女は、俺たちに混ざろうとはせず、少し寂しそうな表情を浮かべていた。俺が愛莉の差し出した肉を食べた瞬間、栞はスッと立ち上がり、俺の隣へと歩み寄ってきた。
「……淳弥」
「お、おう。栞、どうした?」
俺が少し身構えると、栞は周囲の女の子たちをちらりと見た後、俺の顔を心配そうに覗き込んだ。
「少し、顔色が悪いみたいだけど……疲れてない?無理してないで、少し休んだら?」
彼女の気遣いは、俺の体を心底案じてのものだ。修学旅行の出発前、俺は彼女の監視シフトで命がけの徹夜を完遂した。栞だけは、俺が本当にずっと起きていると信じている。
他の監視員には「限界なんだ」と弱音を吐いて甘えられた。だが、俺が『嘘をつかない人間』だと純粋に信じている栞にだけは、情けない嘘を自白することも、甘えることもできない。
「大丈夫だよ、栞。俺はショートスリーパーだからな。これくらい全然疲れないさ」
俺は無理に口角を上げ、絶対に頼ろうとしない態度で強がった。
「……そう。淳弥がそう言うなら、いいけど」
栞はポツリと呟き、視線を落とした。
俺と他監視員たちとの間にある、自分だけが知らない親密な空気。それに加えて、自分にだけは強がって壁を作り、決して頼ろうとしない俺の態度。
栞の細縁の眼鏡の奥には、確かな『違和感』と、深い『疎外感』が蓄積していくのが見て取れた。俺は胸が締め付けられる思いだったが、彼女の理想を壊すのが怖くて、何も言えなかった。




