第36話 修学旅行
十月一日、水曜日。
ついに、二十四時間二年生全員の視線が交錯する『修学旅行』という名の地獄が幕を開けた。
羽田空港のロビーに集合した俺たち二年B組は、重度の風邪で倒れた担任に代わり、急遽代理引率となった養護教諭の雨宮梢先生の指示で、沖縄行きの飛行機へと乗り込んだ。
「ふぁ……」
機内の座席に深く腰を沈め、俺は誰にも聞こえないような深いため息をついた。
昨夜は、幼馴染である常盤栞の監視シフトだった。彼女の『淳弥は嘘をつかない』という純粋な信頼を裏切らないため、俺は自らの太ももをつねり上げながら命がけの徹夜を完遂した。
現在の俺の睡眠ゲージは、文字通りゼロだ。
(飛行機に乗っている数時間……ここでみんなからバレないように寝て、体力を回復させるしかない!)
離陸のシートベルトサインが消えるや否や、俺は特技の『秒速入眠』を発動させようと目を閉じた。
しかし、運命は俺に味方しなかった。
「おい淳弥師匠!ついに修学旅行だな!」
隣の席から、信者のような熱を帯びた声が鼓膜を揺らした。元「寝てない自慢」の筆頭であり、俺の徹夜明けのパフォーマンスを見て以来、勝手に弟子入りを志願してきた渡大輔だ。
「……おう、そうだな」
「師匠、この前の『副交感神経を優位にする』って話、マジでタメになったぜ!でもよ、修学旅行みたいに環境が変わった場所で、三十分の睡眠を極限まで深めるにはどうすればいいんだ?気圧の変化とか、関係あるのか?」
「えっと、それはだな……」
渡の質問攻めは、離陸から上空に達しても全く止まる気配がなかった。
目を閉じれば一秒で意識が飛ぶ限界状態の中、俺は「ショートスリーパーの達人」という設定を守るため、必死に虚勢を張って彼の質問に答え続けなければならなかった。
「なるほど!アイマスクで視覚情報を完全に遮断するのか!深いぜ師匠!」
(お願いだから、一分でいいから黙ってくれ……!)
血の涙を流すような思いで相槌を打ち続け、那覇空港に到着する頃には、俺の脳細胞は完全にショート寸前になっていた。
+++
那覇空港からバスに乗り、首里城周辺を見学した後、午後は国際通りでの班別行動となった。
十月の沖縄は、まだ本土の真夏のように日差しが強い。極度の睡眠不足と猛暑のダブルパンチで、俺の足取りはゾンビのようにフラフラだった。
渡たちは「沖縄そば食いに行こうぜ!」と走っていってしまい、俺は一人、土産物屋が立ち並ぶ通りを歩いていた。
「とりあえず、莉央に何か買っておかないと、またうるさいからな……」
妹へのお土産を探して、シーサーの置物や色鮮やかな琉球ガラスが並ぶ店先を覗き込んでいた、その時だった。
「淳弥くん、妹さんへのお土産を探しているの?」
ふと、隣から透き通るような声がした。振り返ると、学級委員長の神薙凛香が立っていた。
「凛香さん……うん、まあ」
「だったら、この紅芋タルトなんてどうかしら。……ほら、先日『夜に』私が淹れてあげた、あのカモミールミルクにもよく合うような、優しい甘さだと思うわ」
凛香は完璧な委員長の笑顔を崩さず、しかし言葉の端々に『秘密の添い寝』を強烈に匂わせてきた。
俺が冷や汗を流していると、逆の隣から厳しい声が飛んできた。
「委員長、鱈志野君の妹さんは中学生でしょう?それなら、こっちの星砂のキーホルダーの方が喜ばれるはずよ」
いつの間にか、風紀委員長の不動瑞希が腕を組んで立っていた。
「それに鱈志野君、君のショートスリーパーは本物だが、飛行機で乗り物酔いはしていないかい?僕が直々に選んであげる。……この前のように、僕の『膝の上』で目を閉じて体を任せてくれたようにしておけばいいのよ」
瑞希もまた、涼しげな顔の裏で『膝枕』のマウントを確実にとりにきている。
「えー、二人ともセンスおっさんくさくない!?中学生の女の子なら、絶対このシーサーのパックとか、コスメ系だって!」
さらに、カーストトップギャルの蜂屋愛莉までが、紅芋ソフトクリームを片手に合流してきた。
「淳弥くん、アタシが選んであげる!……アタシ、『耳元』での繊細な作業とか、すっごく得意でしょ?」
愛莉は俺の肩に軽く寄りかかりながら、あの『耳かき』の夜を匂わせてウインクをしてきた。
(だ、誰か助けてくれ……!)
三人の監視員たちは、俺が『自分との時間以外は全く寝ていない』と勘違いしている。そのため、「限界状態の淳弥を私が支える」という裏大義名分のもと、俺の隣をキープしようと激しい陣取り合戦を繰り広げ始めてしまった。
「鱈志野くん、少しふらついているわ。私の肩に掴まって」
「何を言うか。安全管理は風紀委員の僕の役目だ。ほら、腕を貸しなさい」
「もー、二人とも淳弥くん引っ張らないでよ!アタシが手引いてあげるから!」
俺は強烈な睡魔で意識が朦朧とする中、三人の誰の機嫌も損ねないよう、引きつった笑顔で必死に相槌を打ち、中立を保つ立ち回りを強いられた。
ただでさえ疲労困憊の脳が、少しでもバランスを崩したら修羅場になってしまうかの熱量によってさらに急速に焼き切れていくのを感じた。




