第33話 モーニングコーヒー
耳元で囁かれる艶やかな声と、甘い吐息。
さらにその手は、俺の腕から手のひら、指先の一本一本までを丁寧に滑り、再び背中を下って腰から足先へと至る。全身をくまなく這う大人の女性の柔らかな感触と、オイルの熱、ハーブの香りが、俺の理性を激しく揺さぶった。
マッサージを受けながら、俺は抗いがたい睡魔に襲われていく。
意識がぼんやりとする中、無防備に先生の腕にすがりつくようにして、体を預けてしまった。
「……あっ」
先生の指先が、一瞬だけピタリと止まる。
薄れゆく意識の中で、俺は先生の顔を見上げた。
そこには、いつもの余裕たっぷりの保健の先生の顔ではなく、激しい葛藤に揺れ動く一人の女性の顔があった。
前任校で生徒のSOSを見落とした後悔。だからこそ、俺の無理を誰よりも気にかけてくれていた。
だが、その純粋な教員としての使命感と母性本能は、今、俺がすがりついたことで、教師として越えてはならない一線との間で激しく軋みを上げているようだった。
「……だめよ。こんなに無防備に甘えられたら、先生でいられなくなっちゃうじゃない……」
俺が深い眠りの底に落ちる直前。
大人の余裕を崩した梢先生の、切実で熱を帯びた葛藤の言葉が、微かに耳に届いた。
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九月三十日、火曜日。
朝の五時。小鳥のさえずりと共に、俺はゆっくりと目を開けた。
「……あぁ、めちゃくちゃよく寝た……」
八時間たっぷりと睡眠をとった体は、羽のように軽く、視界は隅々までクリアだ。
ふと、プレハブ小屋の中に、深く香ばしい匂いが漂っていることに気がついた。
体を起こすと、机の方でコトリと陶器の鳴る音がした。
「おはよう、淳弥くん。よく眠れた?」
そこには、梢先生が座っていた。
彼女は、俺がいつも使っているドリップ器具と星鳴ブレンドの豆を使って、慣れた手つきでコーヒーを淹れて飲んでいた。
部屋には静かで、どこか張り詰めたような、しかし心地よい緊張感が漂っている。
「先生……ずっと起きててくれたんですか?」
「ええ。あなたの寝顔を観察するのも、立派な健康管理の一環だからね」
先生は小さく微笑むと、淹れたてのコーヒーが注がれたマグカップを二つ、机に並べた。
「勝手にコーヒーセットを使わせてもらったわ。あなたの分のモーニングコーヒーも淹れておいたから、一緒にどう?」
「ありがとうございます。いただきます」
俺はベッドから抜け出し、先生の向かいの椅子に座った。
差し出されたマグカップを両手で包み込み、一口飲む。深煎りの豆の苦味が、寝起きの頭をスッキリと冴えさせてくれる。
窓の外からは、夜明けの青白い光が差し込み、湯気を立てる二つのカップを照らしていた。
「……美味しいです。俺が淹れるより、ずっと」
「ふふっ、おだてても何も出ないわよ」
静かなコーヒータイム。
昨夜の、あの大人の余裕を失いかけた先生の姿と、俺がすがりついてしまった記憶が蘇り、俺は少しだけ気恥ずかしくなって視線を落とした。
「あの……先生。昨日は、本当にありがとうございました」
「マッサージのこと?」
「はい。おかげで助かりましたし……先生の気遣い、すごく嬉しかったです」
俺が真っ直ぐに目を見て感謝を伝えると、先生はカップを持ったまま、ピタリと動きを止めた。
少しの沈黙の後、先生はふっと息を吐き、垂れ目を細めて俺を見つめ返した。
その顔は、生徒の健康を気遣う「保健の先生」のものではなく、純粋な好意を向ける「一人の女性」としての、艶やかで危うい色気を帯びていた。
「……そんな風に素直に感謝されたら、ますます甘やかしたくなっちゃうわ。淳弥くんは、本当に悪い子ね」
至近距離で紡がれる大人の魅力に、俺の心臓がドクンと大きく跳ねる。
だが、その艶やかな時間は一瞬だった。
先生はコホンと一つ咳払いをしてマグカップを置くと、スッと立ち上がった。
「さて、と。私はこれで家へ帰るわね。親御さんが起きてくる時間だし」
「あ、はい……」
「今日の学校も、無理しないようにね。生徒の健康を守るのは、私の仕事だもの」
見事に「保健の先生」の顔に戻った彼女は、俺の頭をポンと優しく撫でると、プレハブ小屋を後にした。
俺は残されたコーヒーの香りと、彼女が残していった静かな余韻を、一人で噛み締めていた。
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朝の六時。
俺が学校へ行く準備をしていると、スマホがけたたましく通知音を鳴らした。
画面を見ると、『【厳重監査】鱈志野淳弥・睡眠実態検証委員会』のグループチャットだった。
『雨宮梢:本日の監査報告。淳弥くんと一晩を共にし、淳弥くんは寝なかったことを報告します』
俺はスマホの画面を凝視し、盛大に頭を抱えた。
『神薙凛香:先生!?まさかとは思いますが鱈志野くんの部屋に泊まり込んだんですか!?教育者としてどうなんですか!』
『不動瑞希:保健の先生が男子生徒の部屋で一晩……!風紀の乱れも極まれりだ!鱈志野、昼休みに屋上へ来い!』
『蜂屋愛莉:えー!先生ズルすぎ!淳弥くん、絶対骨抜きにされてるじゃん!』
『常盤栞:淳弥……また私にだまって……?』
早朝から大炎上し、女子たちの激しい追及のメッセージが滝のように流れ続けるチャットルーム。
もはや誰も俺が寝ているかどうかなど気にしていない。ただの嫉妬とマウントの応酬だ。
そして、今夜の監視当番は、最も純粋に俺を信じ、最も疎外感を蓄積させている栞だ。
「……今日の夜は、命がけになるな」
俺は泥沼化していく彼女たちの争奪戦を前に、深く、深くため息をつきながら、学校へ向かうため重い足取りで制服のネクタイを締めた。




