第32話 梢先生のお泊まり
九月二十九日、月曜日。
蜂屋愛莉の強烈なお泊まり監視(膝枕と耳かき付き)を乗り越えた俺は、八時間睡眠のおかげで完全な健康体を取り戻していた。
しかし、教室のドアを開けた瞬間、俺は別の意味で絶体絶命の危機に立たされた。
「おい淳弥、お前なんかめちゃくちゃ甘いいい匂いしねえか?」
俺の席の近くに来た渡大輔が、くんくんと鼻を鳴らして騒ぎ立てたのだ。
俺の制服や髪からは、昨晩プレハブ小屋に潜入していた愛莉の香水――あの甘ったるいバニラの香りが微かに、しかし確実に取り憑いていた。
「あ、いや……これは、その、ついさっきそこでソフトクリームを持った小学生とぶつかってだな……」
「朝っぱらからソフトクリーム食べる小学生なんかいるか!?お前、さては休日に女と遊んでたな!」
「遊んでない!気のせいだ!」
男子たちが俺を囲んでワイワイと騒ぎ始める中、ふと視線を感じて顔を上げる。
教室の中央で友人たちと談笑しているカーストトップギャルの愛莉と、ばっちり目が合った。
彼女は周囲にはバレない完璧なポーカーフェイスを装いつつ、俺にだけペロッと舌を出し、悪戯っぽくウインクを送ってきた。
(お前のせいだからな!)と心の中でツッコミを入れつつ、俺は滝のような冷や汗を拭う。
だが、その騒ぎを少し離れた席から見つめる、氷のように冷たく鋭い視線があった。
幼馴染の常盤栞だ。
生真面目で観察眼の鋭い彼女は、俺の不自然な言い訳と、微かに漂うその香りの正体に、明らかな違和感を抱いているようだった。
細縁の眼鏡の奥の瞳が、「後で絶対に問い詰めるから」と静かに語りかけている。
俺は胃の痛みを覚えながら、なんとか大輔たちの追及を誤魔化し通した。
+++
その日の夜。時刻は二十二時を回っていた。
母屋での夕食と入浴を終え、俺は裏庭のプレハブ小屋で戦々恐々としながら今日の監視当番を待っていた。
コンコン、と控えめなノックの音が響く。
「こんばんは、鱈志野くん」
ドアを開けると、そこには保健室の雨宮梢先生が立っていた。
私服姿の彼女は、柔らかいニットのカーディガンを羽織っており、大人の女性らしい落ち着きと色気を漂わせている。
「せ、先生……本当にここまで来るなんて」
「当たり前でしょう。今日の監視当番は私なんだから」
梢先生はそう言って部屋に上がり込むと、持参した鞄から血圧計やパルスオキシメーターなどの見慣れない医療器具を次々と取り出した。
「私はあの子たちと違って逢瀬を楽しみに来たわけじゃないわよ。あなたの健康管理のため、張り込みに来ただけよ」
「健康管理って……俺は先生が当番の時だけは寝られるから、翌朝には元気に……」
「知らないかもしれないけど、寝るのにも体力はいるの。就寝前検診よ」
先生は俺の腕を掴み、有無を言わさず血圧計の腕帯を巻いた。
シュコシュコと空気が入り、数値が表示される。それを見た先生の垂れ目が、スッと細められた。
「……やっぱりね。極限状態のバイタルよ。アドレナリンで誤魔化しているだけ。早速快適に眠れるように私がお手伝いしてあげるわ」
それは、甘い誘惑ではなく、医療・教員側としての強い危機感を含んだ声だった。
俺は何も言い返せず、ベッドの縁に腰を下ろした。
「さあ、横になって。今日は私がしっかりとケアしてあげるから」
先生は俺をベッドに仰向けに寝かせると、特産の星鳴ハーブを使ったアロマオイルを手のひらに馴染ませた。
「これはあくまで、医療的マッサージやハーブ療法の延長よ。変な勘違いはしないこと」
「はい……」
先生の温かく滑らかな手が、俺の首筋から肩にかけての凝りを的確に解きほぐしていく。
リンパドレナージュの心地よい刺激と、ハーブの深い香りが混ざり合い、俺の脳内に蓄積されていた疲労が急速に溶け出していくのがわかった。
「……んっ、そこ、すごく気持ちいいです……」
「そう。無理して強がらなくていいのよ。あなたはいつも、一人で抱え込みすぎるんだから」
先生の声は、どこまでも優しく、俺の心の奥底にある弱さを包み込んでくれるようだった。
「さあ、もう少し楽な姿勢になりましょうか。うつぶせになって」
促されるままベッドへうつぶせになると、背中に柔らかな重みを感じた。梢先生が、俺の腰のあたりにそっとまたがってきたのだ。
「せ、先生……!?」
「動かないで。これからが本番なんだから」
スッとシャツの裾がめくり上げられ、俺の背中が夜の空気に晒される。しかしすぐに、星鳴ハーブのオイルがたっぷりと馴染んだ先生の温かい手のひらが、素肌へと直接密着した。
「んっ……」
オイルの滑りを生かした滑らかな手が、背中から腰にかけてゆっくりと這うように行き来する。凝り固まった筋肉が、その絶妙な力加減によってとろけていくようだ。
先生の指先は背中だけにとどまらず、首筋から敏感な耳たぶへと移動し、優しく揉みほぐしてくる。
「あっ、先生、そこ……」
「ふふっ、耳も結構凝ってるのね。気持ちいい?」




