第31話 膝枕と耳かき
命からがら母屋の『夕食トラップ』を抜け出し、俺は全速力で裏庭のプレハブ小屋へと戻った。
急いでドアの鍵を閉め、ベッドの脇に膝をつく。
「愛莉!もう大丈夫だ、出てきてくれ!」
布団をめくり上げると、ベッドの下の暗がりから、ゴホゴホと咳き込みながら愛莉が這い出してきた。せっかくの大人っぽい秋コーデの服が、うっすらと埃を被ってしまっている。
「もーっ!マジで死ぬかと思ったんだけど!おじいちゃん、本当に木刀持って窓から覗き込んでくるし!」
「ごめん、本当にごめん!じいちゃん、昔から夜の庭の物音に敏感でさ……」
俺が平謝りしながら彼女の服についた埃を払おうとすると、愛莉は不意に「ぷっ」と吹き出した。
「あははっ!でも、なんかスパイ映画の潜入ミッションみたいで、超スリルあったかも!淳弥くんからの『息止めろ!』って指令、マジで焦ったし!」
怒るどころか、この非常事態をアトラクションのように楽しんで笑い飛ばしてくれる。カーストトップギャルの明るさと懐の深さに、俺は心底救われた思いだった。
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その後、他愛のない話をしているうちに、時刻は深夜に差し掛かっていた。
「……さて、と。それじゃあアタシの脱獄監視、本格的に始めちゃおっかな」
愛莉は自分のスマホを操作し、ベッドの枕元に置いた。
スピーカーからは、パチパチと薪が爆ぜる焚き火の音と、ザザーッと寄せては返す波の音が静かに流れ始める。
「なんだこれ。環境音?」
「そう。ホワイトノイズって言って、脳の疲労を取ってリラックスさせる効果があるんだって。アタシも撮影の前日とか、考え事して眠れない時によく聞いてるの」
愛莉はベッドの上に足を伸ばして座ると、自分の太ももをポンポンと叩いた。
「ほら、淳弥くん。こっち来て、頭コロンってして」
「えっ!?い、いや、愛莉、いくらなんでもそれは……」
「いいからいいから!ほーら、早く!」
愛莉に強引に腕を引かれ、俺は抗う間もなく彼女の膝の上に頭を預けることになった。
瑞希の時とは違う、少しタイトなスカート越しに伝わる柔らかな感触。そして、莉央が嗅ぎつけたあの甘いバニラの香水が、間近から俺を包み込む。
「じゃあ、いくよー」
愛莉の手には、いつの間にか竹製の耳かきが握られていた。
彼女の綺麗に整えられたネイルアートの指先が視界の端に映る。派手な見た目とは裏腹に、俺の耳に触れるその手つきは、驚くほど繊細で優しかった。
「……っ」
「痛くない?大丈夫?」
「ああ……すごく、気持ちいい。愛莉、上手いんだな」
「でしょー?アタシ、結構こういう細かいこと得意なんだよね」
サリ、サリ、という心地よい音。
スピーカーから流れる焚き火のホワイトノイズと重なって、極上の癒やし空間が形成されていく。徹夜の演技で蓄積していた脳の疲労が、急速に溶け出していくのがわかった。
その時、不意に耳元で「ふーっ」と甘い息を吹きかけられた。
「うひゃっ!?」
「あははっ!淳弥くん、ビクッてした!ウケるー!」
「お、驚かすなよ!」
俺が顔を真っ赤にして抗議すると、愛莉はいたずらっぽく笑いながら、至近距離で俺の顔を覗き込んできた。
「ねえ、淳弥くん。本当に毎日寝てないの〜?」
「あ、ああ。愛莉の番が毎日楽しみでな……」
俺が必死に虚勢を張ると、愛莉はクスッと笑った後、ふっと声のトーンを落とした。
ギャル特有の軽さが抜け落ちた、どこまでも優しく、包み込むような声。
「……そっか、アタシの前では無理しないで。いつでも、寝ていいからね」
カーストトップの彼女が、俺にだけ見せてくれた飾らない本音。
自分を等身大の女の子として見てくれる俺に対する、不器用で、だけど最高に温かい気配りだった。
「……ありがとう、愛莉」
「……どういたしまして」
愛莉の指先が、今度は俺の頭皮を優しく揉みほぐすヘッドマッサージへと変わる。
「んっ……」
温かい手のひらの感触と、バニラの甘い香り。
もう、強がる必要はなかった。俺は彼女の優しさに完全に身を委ね、抗いがたい睡魔の底へと、静かに、深く落ちていく。
その心地よい闇の入り口で。
「……おやすみ、淳弥くん。アタシの匂い、しっかり身体に染み込ませてね。……もう、他の女のところに行けないくらい、たっぷりと」
甘く独占欲に満ちた囁きが、耳をくすぐった気がした。
もう、強がる必要はなかった。俺は彼女の優しさに完全に身を委ね、抗いがたい睡魔の底へと、静かに、深く落ちていった。
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九月二十九日、月曜日。
朝の五時。
「んぁ……」
目を開けると、プレハブ小屋の窓から青白い朝の光が差し込んでいた。
起き上がると、完璧な八時間睡眠を経た体は、信じられないほど軽く、頭の隅々まで澄み渡っている。
傍らを見ると、愛莉が帰り支度を整えているところだった。
「おっはよー、淳弥くん。すっごくぐっすり寝てたね」
「おはよう……。愛莉のおかげだよ。ありがとう」
俺が感謝を伝えると、彼女は嬉しそうに目を細め、人差し指を唇に当ててウインクをした。
「どういたしまして!それじゃ、みんなが起きる前に帰るね。昨日のこと、アタシらだけの秘密だかんね♡」
愛莉はひらひらと手を振りながら、足早にプレハブ小屋を出ていった。
俺はベッドの上で大きく伸びをし、手元のスマホを手に取った。
数分後。
ピコン、と『【厳重監査】鱈志野淳弥・睡眠実態検証委員会』のグループチャットに通知が入る。
『蜂屋愛莉:おっはよー!本日の監視報告!淳弥くんは夜間一睡もせず、完全覚醒してました!昨夜はアタシが淳弥くんのお部屋に潜入して、膝枕と耳かきで【一晩を共にし】て、秘密の濃密タイムを過ごしたことを報告しまーす♡淳弥くん、アタシの匂いにドキドキしてたっしょ!』
「……やっぱり、こうなるか!」
俺はスマホの画面を睨みつけながら、盛大に頭を抱えた。
学級委員長、風紀委員長に続き、カーストトップギャルまでもが、他の監視員たちを確実に煽りにいく最凶のマウント報告を投下したのだ。
『神薙凛香:部屋に潜入!?蜂屋さん、あなたまさか昼も夜もずっと一緒にいたの!?』
『不動瑞希:膝枕に耳かきだと!?風紀の乱れも甚だしい!鱈志野、君って男は!』
『常盤栞:淳弥……また違う女の子を部屋に……』
『雨宮梢:あらあら、淳弥くんのお部屋、大人気ねぇ』
早朝五時過ぎだというのに、瞬く間に大爆発を起こし、滝のようにメッセージが流れ続けるチャットルーム。
俺は完全に泥沼化した彼女たちのマウント合戦を前に、「……今日の学校も、命がたりるかな」と呟きながら、八時間睡眠で元気いっぱいの体を引きずって、制服への着替えを始めるのだった。




