第30話 愛莉のお泊まり
九月二十八日、日曜日。
朝の五時に瑞希が家へ帰り、俺はプレハブ小屋のベッドで休日の午前をのんびりと過ごしていた。
今日の監視当番は、カーストトップギャルにして読者モデルの蜂屋愛莉だ。
八時を過ぎた頃から、俺のスマホには彼女からのメッセージが定期的に届き始めた。
『おっはよー!今、撮影スタジオに着いたとこ!』
『メイク完了!今日のテーマは秋の大人っぽいデートコーデらしいよー!』
メッセージと共に、時折写真が送られてくる。
そこには、普段の学校で見せる明るく派手なギャル姿とは全く違う、洗練されたメイクとシックな服装でポーズを決める愛莉が写っていた。プロのヘアメイクとカメラマンの手によって引き出されたその姿は、同級生とは思えないほど大人びていて、息を呑むほど綺麗だった。
「すげえ……改めてプロのモデルさんみたいだ」
『えへへ、でしょー!淳弥くんの監視もしっかりやりつつ、撮影も頑張っちゃうからね!』
そんなやり取りをしながら、時間は過ぎていった。
愛莉の撮影は夕方までかかると聞いていたので、今日の監視は完全にチャットベースになるだろうと俺はタカをくくっていた。
十五時。
コンコン、とプレハブ小屋のドアが軽く叩かれた。
「ん?莉央か?」
俺が油断しきったままドアを開けると、そこには、数時間前にスマホの画面越しに見ていた、あの『大人っぽい秋コーデ』に身を包んだ愛莉本人が立っていた。
「来っちった。テヘッ♡」
「あ……っ!?愛莉!?」
俺は腰を抜かしそうになった。
「えっ、撮影は?夕方までって言ってたじゃないか!」
「アタシの出番、巻いて早く終わったの!だから、そのまま淳弥くんの監視に来てあげたってわけ!ほら、入れて入れてー!」
愛莉は俺の制止をすり抜け、ずかずかとプレハブ小屋へと上がり込んだ。
「お邪魔しまーす!うわ、男の子の部屋って感じ!意外と綺麗にしてんじゃん」
ついさっきまで写真で見ていたモデルが、いい匂いを漂わせながら俺の狭い部屋に実在している。その強烈なギャップと存在感に、俺は激しく戸惑った。
「と、とりあえず適当に座ってくれ。コーヒーくらいしか出せないけど」
「ありがと!あ、砂糖とミルク多めでよろしくー」
そこから、愛莉との密室トークが始まった。
彼女の持ち前のコミュニケーション能力と明るいノリのおかげで、俺の緊張もすぐに解けた。撮影の裏話や、クラスの噂話。話題は尽きることなく、笑い声がプレハブ小屋に響き渡る。
雑談で盛り上がっていると、あっという間に時間は過ぎていった。
時計の針は十九時を指そうとしている。
「あー、もうこんな時間か。愛莉、そろそろ帰ったほうが……」
「ん?帰らないよ?」
「え?」
愛莉は悪びれもせず、ニコッと笑った。
「親には『バイトが長引くから、そのまま女先輩の家に泊まる』って嘘言ってきたから!つまり、今日はお泊まり監視ってこと!」
「お、お泊まり!?いやいや、いくらなんでもそれは……!」
俺がパニックになりかけたその時、プレハブ小屋の外から、世界で一番恐ろしい声が響いた。
「淳弥ー!いつまで部屋にいるの!夕飯よ、早く来なさい!」
母、晴江の声だ。『夕飯は全員集合』という我が家の鉄の掟が発動した瞬間だった。
「や、やばい!母さんが呼びに来た!愛莉、ここから一歩も動かないでくれ!絶対に音を立てるなよ!」
「えっ、あ、うん、わかった!」
俺は愛莉をプレハブに残したまま、慌てて母屋へと向かおうとしてドアを開けた。
しかし、そこでさらなる絶望的な光景を目にする。
「なんだ、なんだ?庭の茂みでガサッと音がしたぞ。トクリュウか、タヌキか……?」
元大工の祖父・勘三郎が、なぜか木刀と懐中電灯を構え、プレハブの周りをうろつき始めていたのだ。
「じ、じいちゃん!?何やってるの!」
「おお、淳弥か。いやな、さっきからこの小屋の周りで怪しい気配がするんだよ。念のため、小屋の下とか中も調べた方が……」
「だ、大丈夫!気のせいだから!ほら、夕飯冷めちゃうし、早く行こう!」
俺は祖父の背中を必死に押し、なんとかプレハブから遠ざけようとした。
その時、俺のズボンのポケットでスマホが激しく振動し始めた。愛莉からのメッセージだ。
『やばい!窓の外に木刀持ったおじいちゃんがいる!見つかる!』
俺は祖父の目を盗み、高速でフリック入力する。
『ベッドの下に隠れろ!絶対に息を止めて、足を引っ込めろ!』
祖父が懐中電灯の光をプレハブの窓に向けた瞬間、俺のスマホに『ベッドの下に潜った!埃っぽい!死ぬ!』という愛莉からの悲鳴スタンプが届く。
間一髪で回避したものの、愛莉とスリリングな秘密を共有した俺の寿命は確実に三年は縮んだ。
どうにか祖父を母屋へ押し込み、俺もダイニングテーブルの席についた。
目の前には美味しそうなカレーが並んでいるが、プレハブに愛莉を隠しているという極度の緊張で、味が全くわからない。
しかし、そんなハラハラはここでは終わらなかった。
「……ねえ、お兄ちゃん」
向かいの席に座る妹の莉央が、スン、スンと鼻を鳴らし、ジロリと俺を睨んだ。
「お兄ちゃんから、めちゃくちゃ高いバニラの香水の匂いがするんだけど。……女、連れ込んでない?」
「ぶふぉっ!?」
俺は飲んでいた水を盛大に吹き出した。愛莉の匂いだ。
「香水!?ば、バカ言え!これは……えっと、今日買った新しい海外製のエナジードリンクをこぼしたんだよ!甘ったるい匂いがするやつ!」
「エナドリ?本当に〜?なんか怪しい」
莉央が身を乗り出し、俺の服の匂いを嗅ごうとしてくる。さらに、食卓の奥では母の晴江が「淳弥、あんた変なことしてないでしょうね?」と疑いの目を光らせ始めた。
ブブブブブッ!
その絶体絶命の状況で、俺のスマホが再び狂ったように振動し始めた。プレハブのベッドの下に身を潜めた愛莉からのスタンプ爆撃だ。
『埃やばい!くしゃみ出そう!』
『早く戻ってきて!』
『早く戻ってこないとバラすよ!』
涙目の猫が暴れているスタンプが、画面を怒涛の勢いで埋め尽くしていく。
「お兄ちゃん、さっきからスマホ鳴りすぎじゃない?誰から?女?」
莉央が俺のスマホの画面を覗き込もうと、手を伸ばしてきた。
「だ、誰でもない!大輔たちがゲームの誘いをしてきてるだけだ!」
俺は空中で莉央の手をバシッと払い除け、スマホを胸の奥底に死守した。カレーを食べる右の手首を不自然に曲げたまま、左手でスマホを隠し通すというアクロバティックな食事。
「もう!ご飯の時くらいスマホ見ないの!」
母の怒声が飛ぶ中、食事とスマホ対応の板挟みになった俺は味のしないカレーを丸飲みで胃に流し込んだ。
「ごちそうさま!トイレ!」
叫んで食卓を逃げ出した俺は、プレハブのベッドの下に隠れているカーストトップギャルを早く救出しなければと、夜の庭へと駆け出した。




