第29話 アイマスク
少しの沈黙の後、彼女はコホンと一つ咳払いをして、本来の目的を思い出したように居住まいを正した。
「……話を戻すわ。今日、君に直接会って伝えたかったことなんだけど」
瑞希は少し照れくさそうに視線を彷徨わせた後、意を決したように真っ直ぐに俺を見た。
「今日の合気道の大会……優勝したわ」
「おっ、マジか!すげえじゃん、瑞希さん!おめでとう!」
俺が手放しで喜ぶと、彼女はふっと表情を和らげた。
「ありがとう」
「でも、どうしてわざわざ、家族や他の友人よりも先に……俺に報告したかったんだ?」
俺の素朴な疑問に、瑞希は結んだ髪の毛先を指でいじりながら、伏し目がちに答えた。
「……深夜の、君との通話の時間が……楽しかったからよ。君がいつも起きていて、他愛のない話を聞いてくれると思うと、つらい練習も最後まで頑張れた。だから、この結果は一番に君に伝えたかったの」
厳格な風紀委員長の、あまりにも素直で真っ直ぐな本音。俺は照れくさくて、頭を掻いた。
「そっか。俺はただの話し相手だけだけど……少しでも力になれたなら良かったよ」
「ええ。だから今日は、僕が君の力になる番よ」
瑞希はそう言うと、持参していた鞄の中から、見慣れない和柄の布袋を取り出した。
「僕の番になるまでずっと徹夜で辛かっただろうから、これから明日の朝まで、僕が直々に君の睡眠を管理してあげる」
「……え?明日の朝までって、瑞希さん、家はどうするんだよ?」
俺が驚いて尋ねると、彼女は少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「親には『合宿が明日まで延長になった』と伝えてあるわ。つまり、今日は帰らなくていいの」
風紀委員長が、親に嘘をついて男子の部屋に外泊する。その事実の重さに俺が固まっていると、彼女は構わずポンポンと自分の太ももを叩いた。
「さあ、ここへ頭を乗せなさい」
「ひ、膝枕!?」
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「これも君の監視員としての正当な任務よ。遠慮はいらないわ」
真っ赤な顔で強がる瑞希に逆らうこともできず、俺は恐る恐る彼女の膝に頭を預けた。
私服のワンピース越しに伝わる柔らかな感触と温もり。
「……じゃあ、これをつけるわね」
瑞希が俺の目元に被せたのは、ほんのりと温かい『百草の温灸アイマスク』だった。
「うおっ、なんかすごくいい匂いがする……」
「特産の星鳴ハーブを使ったアイマスクよ。目元の緊張を解して、深いリラックス効果があるの。そのまま動かないで」
アイマスクによって視界が完全に奪われ、世界が真っ暗になる。
すると、視覚以外の感覚が鋭く研ぎ澄まされていくのがわかった。目元から伝わるじんわりとした熱。鼻をくすぐる和漢ハーブの香りと、試合後にシャワーを浴びたのだろうか、瑞希から漂う清楚なシャンプーの匂い。そして、後頭部を包み込む彼女の膝の柔らかさ。
「……んっ」
瑞希のひんやりとした指先が、俺の首の後ろやこめかみにあるツボを、的確な力加減で押し始めた。
「痛くないかしら?これは安眠のツボよ」
「いや……めちゃくちゃ気持ちいい。さすが有段者、指の力が絶妙だな……」
「ふふっ、武道の心得がこんなところで役に立つとはね」
視界が塞がれているせいか、不思議と普段言えないような恥ずかしい言葉が自然と口をついて出た。
「……瑞希さんの膝、すごく落ち着く。なんだか、ずっとこうしていたい気分だ」
俺が素直に呟くと、頭上から瑞希が小さく息を呑む気配がした。指先の動きが、ほんの少しだけ止まる。
「……鱈志野くんは、ずるいわね」
「えっ?」
「そうやって、無防備に甘えてきて……。僕だって、風紀委員長の前に、一人の女の子なんだからね」
普段の彼女からは想像もつかない、熱を帯びた大胆な声。
「こんな状態の君なら……僕が今、何をしても抵抗できないでしょう?」
顔に近づいてくる気配。瑞希の甘い吐息が、俺の頬を微かに撫でた。
「み、瑞希さ……」
「……冗談よ。安心して眠りなさい」
直後、ポンと優しく頭を撫でられ、俺はホッと息を吐いた。
暗闇の中で高鳴る心臓の音は、アイマスク越しの熱と相まって、どうにも収まりそうになかったが、温灸の心地よい熱と、瑞希の完璧なツボ押しの技術は、俺の体を抗いがたい睡魔へと誘っていく。
「……ありがとう、瑞希」
「……おやすみなさい、淳弥くん」
俺の意識が、彼女の柔らかな膝の上でふわりと心地よい闇の中へ溶けていくその直前。
「……ずっと、このまま時が止まればいいのに。君を、僕だけのものにしたい…………他の女の子にこんな顔を見せたら、重過失の風紀違反で逮捕するからね」
微かに震える熱っぽい呟きが、耳の奥をくすぐった気がした。
俺の意識は、彼女の柔らかな膝の上で、ふわりと心地よい闇の中へ溶けていった。
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九月二十八日、日曜日。
朝の五時。
「……んん」
目を開けると、プレハブ小屋の窓からは薄明るい朝日が差し込んでいた。
ベッドの上に寝かされていた俺は体を起こす。
時計を見ると、ちょうど八時間が経過していた。完璧な目覚めだ。
傍らを見ると、瑞希が帰り支度を整えているところだった。
「おはよう、鱈志野くん。よく眠れた?」
「おはよう。……ああ、最高だった。瑞希さん、ずっと起きててくれたのか?」
「ええ。君の無防備な寝顔を、一晩中しっかりと堪能……じゃなかった、監視させてもらったわ」
瑞希は少しだけ得意げに微笑むと、「親御さんが起きる前に帰るわね」と言って、プレハブ小屋を後にした。
その背中には、昨日の試合での疲れなど微塵も感じさせない、充実感が漂っていた。
俺は大きく伸びをして、手元のスマホを手に取った。
ピコン。
画面が光り、『【厳重監査】鱈志野淳弥・睡眠実態検証委員会』のグループチャットに通知が入る。
『不動瑞希:本日の監視報告。被験者・鱈志野淳弥は夜間一睡もすることなく、完全な覚醒状態を維持していた。昨夜は彼と【一晩を共にし】て、私の特製ケアと膝枕で濃密な時間を過ごしたが、淳弥は決して寝なかったことを報告する』
「……また燃料投下しちまってるよ!」
俺はベッドの上で盛大にツッコミを入れた。
合気道大会の優勝という名誉よりも、俺と秘密の一夜を過ごしたことを誇示したいらしい。厳格な風紀委員長による、他の監視員たちを確実に煽りにいく強烈なマウント報告だ。
『神薙凛香:膝枕!?不動さん、あなた風紀委員長としての自覚はあるの!?』
『蜂屋愛莉:ヤバすぎ!瑞希ちゃん、17歳で男子の家に外泊とか親にどうやって説得したのよ!?』
『常盤栞:淳弥……だって昨日は、誰も……』
『雨宮梢:あらあら、若い子たちは本当に積極的ねぇ』
早朝から大爆発するチャットルーム。
俺は滝のような汗を流しながら、この泥沼化していく彼女たちの争奪戦をどう生き抜くか、八時間睡眠で冴え渡った頭を抱えて悩み続けた。




