第28話 瑞希のお泊まり
九月二十七日、土曜日。
凛香添い寝の極楽修羅場を乗り越えた俺は、彼女が帰った後に二度寝をしてしまい、昼前に気持ちよく目を覚ました。
スマホを見ると、風紀委員長の不動瑞希からメッセージが届いていた。
彼女は今日、合気道の大会があるため、日中は監視のための面会ができないことになっている。
だが、トーク履歴を見ると、朝の八時からきっちり一時間ごとに連絡が入っていた。
『八時。会場に到着した』
『九時。開会式が終了。これよりアップに入る』
まるで行軍記録のような堅苦しい文章だ。
しかし、その中に一つだけ、異質なメッセージが混ざっていた。
『十時。いよいよ第一試合だ』
その言葉のすぐ下に、なぜかウサギが涙目で震えている、やけに可愛らしいスタンプが送られてきていたのだ。
『間違えた。今のスタンプは忘れてほしい』
数秒後に慌てたような訂正のメッセージが来ているのを見て、俺は思わず吹き出した。
『頑張れよ。もしかして、緊張してるのか?』
からかうように返信すると、少し間を置いてから、ぽつりと弱音のようなメッセージが届いた。
『……少しだけ。君がいつも夜に言ってくれるような、適当な相槌がないからかもしれない』
対面していないからこそ見せる、厳格な風紀委員長の素顔。俺は『終わったらゆっくり話聞くから、いつも通りやってこい』と励ましのスタンプを送った。
十七時。
『全試合が終了した。どうしても、君に直接会って伝えたいことがある。今日の二十時、部屋に行ってもいいだろうか?』
試合の結果は書かれていなかったが、その文面からはどこか弾んだような熱が伝わってきた。
俺は『了解。待ってる』と返信し、夜の約束を交わした。
+++
二十時ちょうど。
俺のプレハブ小屋のドアが、規則正しく三回ノックされた。
「こんばんは、鱈志野くん」
扉を開けると、そこには秋らしい落ち着いた紺色のワンピースに身を包んだ瑞希が立っていた。学校での隙のない制服姿とは違い、年相応の女の子らしい柔らかさがある。
「いらっしゃい瑞希さん。試合、お疲れ様」
「ええ。それで、君に伝えたいことなんだけど……」
瑞希が少し頬を染め、口を開きかけたその時だった。
コンコンッ。
不意に、プレハブのドアが再びノックされた。
「淳弥、いる?」
聞き慣れた、幼馴染の常盤栞の声だった。
「げっ、栞!?」
俺は心臓が飛び跳ねるのを感じた。
栞は鱈志野家の家族公認であるため、母屋の玄関を堂々と通り抜け、夜でも自然に裏庭のプレハブへ突撃できるという、他の監視員から見れば脅威の『特権』を持っている。
「なんで常盤さんが……!」
瑞希も顔を青ざめさせた。風紀委員長が夜に男子の部屋に上がり込んでいるなどと知られれば、それこそグループチャットの炎上どころの騒ぎではない。
「と、とりあえず隠れて!」
俺は咄嗟に瑞希の肩を押し、部屋の隅にあるクローゼットの中へと彼女を押し込んだ。
+++
「淳弥?開けるわよ」
ガチャリとドアが開き、栞が部屋に入ってきた。
「お、おう。どうしたんだよ急に」
俺が不自然に引きつった笑顔を向けると、栞は小脇に抱えていた数冊の文芸書を机の上に置いた。
「夜、長い時間起きてて暇だろうから。この前の休日に古本屋で買った本、貸してあげる。淳弥が好きそうなミステリーよ」
「あ、ああ。サンキュ。助かるよ」
「ふふっ。コーヒー淹れる時のお供にでもしてね」
幼馴染特有の、気負いのない親しげな会話。
栞は俺の部屋をぐるりと見渡し、「ちゃんと片付いてるわね」と満足そうに頷いた。
その頃、クローゼットの中の瑞希は、暗闇の中で必死に息を殺しているはずだ。
周囲を囲むのは、俺の制服や私服。狭い空間で微かに漂う俺の匂いに包まれながら、扉の向こうから聞こえてくる俺と栞の会話を、瑞希はただ黙って聞いているしかないだろう。
『夜、長い時間起きてて暇だろうから』
『コーヒー淹れる時の……』
それは、彼女の知らない、昼間の俺と栞が共有している時間と親密さを如実に表している。きっと今頃、瑞希の胸の奥には、チクリとした嫉妬と焦りが渦巻いているに違いない。
「それじゃ、私は戻るわね。また後でチャットするから」
栞は長居することなく、ひらひらと手を振って本を渡し終えると家へと帰っていった。
足音が完全に消えたのを確認し、俺はクローゼットの扉を開けた。
「……もう大丈夫だぞ、瑞希さん」
「……ぷはっ」
瑞希は小さく息を吐き出しながら、暗がりから姿を現した。その顔は、酸素不足のせいか、それとも別の理由か、ほんのりと赤く染まっている。
バレなかった安堵と、密室に女の子を隠したというスリルで、俺の心臓も未だにバクバクと音を立てていた。
瑞希は少し乱れた服の裾を整えながら、じっと俺の目を見つめた。
「……ねえ、鱈志野くん」
「な、なんだ?」
「栞さんは……よく、こうして君の部屋に来るの?」
その声には、普段の冷静さを欠いた、隠しきれない嫉妬心がはっきりと滲んでいた。
「えっ?」
俺はたじろいだ。ここで「結構来る」などと言えば、彼女の対抗心に油を注ぐことになる。
「い、いや、めったにないよ!あれかな、うちの妹の莉央と仲いいから、ついでにこっちに寄っただけかも……」
俺は滝のような冷や汗を流しながら、見え透いた嘘をついた。
瑞希は疑わしげに目を細めたが、やがて小さくため息をつき、「そう……」とだけ呟いた。




