第27話 カモミールミルク
布団から出た神薙凛香は、パジャマ姿の笑顔で話しかけてきた。
「そういえば、淳弥君が気持ちよく寝られる快眠方法を持ってきてあげたわ」
凛香はコホンと一つ咳払いをして、無理やりいつもの学級委員長の冷静な仮面を被り直した。しかし、ほんのりと赤く染まった頬と、少し乱れた艶やかなストレートロングヘアが、彼女の動揺を物語っている。
凛香は持参した鞄の中から、保温性の高い小さな水筒と、可愛らしいマグカップを取り出した。
「はい、これ。私が調合した特製のホットカモミールミルク。自律神経を整えて、睡眠の質を高める効果があるの」
彼女から渡されたマグカップからは、湯気とともにカモミールの甘く優しい香りが漂ってきた。一口飲むと、ミルクのまろやかな温かさが、徹夜続きで冷え切っていた胃の奥にじんわりと染み渡っていく。
「うまっ……。すごく落ち着く味だ」
「ふふっ、でしょう?さあ、飲み終わったらベッドに横になってちょうだい」
俺が言われるがままにベッドに仰向けになると、凛香は俺のすぐ隣、ベッドの縁に腰を下ろした。彼女のパジャマから漂う、フローラルなシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
「まずは呼吸を整えるわよ。4-7-8呼吸法って知ってるかしら?」
「よん、なな、はち?」
「そう。息を四秒吸って、七秒止め、八秒かけてゆっくりと吐き出すの。私がカウントするから、合わせて」
凛香の透き通るような、それでいて落ち着いた声がプレハブ小屋に響く。
「吸って……一、二、三、四。止めて……一、二、三、四、五、六、七。吐いて……一、二、三、四、五、六、七、八」
彼女の規則正しい声に合わせて呼吸を繰り返すうちに、俺の体から急速に力が抜けていくのがわかった。徹夜で張り詰めていた交感神経が、強制的にリセットされていくような感覚だ。
「……どう?眠れそう?」
「ああ……すごく、眠い」
俺が素直に弱音を吐くと、凛香は満足そうに微笑み、そのまま俺の隣にそっと体を横たえた。つまり、添い寝の体勢だ。
「ちょ、凛香……!?」
「正しい寝方をしているか確認するって言ったでしょう?隣にいないと、首の角度や手の位置がわからないもの」
強引な理論武装は相変わらずだったが、その声はひどく優しかった。
「私の番まで全く寝てなかったんでしょ?淳弥くんは、いつも一人で頑張りすぎよ。今日くらいは、私に全部委ねて休みなさい」
その言葉に、俺の中で張り詰めていた最後の糸がプツンと切れた。
もう、限界だった。これ以上、この心地よい誘惑に抗うことはできない。俺は彼女の優しさに完全に甘えることを選び、この甘い『共犯関係』を結ぶことにしたのだ。
「……ありがとう、凛香」
「素直でよろしい」
俺が目を閉じると、特技の『秒速入眠』が発動するよりも早く、凛香の細く柔らかい手が俺の前髪をそっと撫でるのがわかった。
「おやすみなさい、淳弥くん」
意識が深い闇へと沈んでいく直前、凛香の小さな呟きが耳に届いた。
「……私だけに、こんな無防備な寝顔を見せてくれてうれしいわ」
その声には、完璧な学級委員長の顔の裏に隠された、確かな独占欲と優越感がたっぷりと滲んでいた。
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九月二十七日、土曜日。
プレハブ小屋の小さな窓から、うっすらと青白い朝の光が差し込んでいた。
「……んぁ」
目を覚ました俺は、体が羽のように軽いことに気がついた。
時計を見ると、朝の五時を回ったところだ。凛香の添い寝とカモミールミルクのおかげで、なんと八時間もぐっすりと眠り続けることができたのだ。
隣を見ると、凛香もすでに目を覚まして身支度を整え終えていた。パジャマの上に、少し大きめのコートを羽織っている。
「おはよう、淳弥くん。よく眠れたかしら?」
「おはよう。……めちゃくちゃよく寝た。凛香のおかげだよ」
俺が感謝を伝えると、彼女は少しだけ照れたように視線を逸らし、フンと胸を張った。
「当然よ。私が直々に睡眠の質を管理してあげたんだから。……それじゃあ、私はこれで家へ帰るわね」
「送っていこうか?」
「大丈夫よ。朝の散歩だと思って一人で帰るわ。……その、また、管理しに来てあげてもいいわよ」
そう言い残し、凛香は足早にプレハブ小屋を出ていった。その後ろ姿からは、秘密の時間を共有したという満足げな達成感が漂っていた。
「ふぅ……助かった」
俺はベッドの上に寝転がり、大きく伸びをした。
これで完全に体力は回復した。嘘をつき続けている罪悪感はあるものの、彼女との共犯関係に救われたのは事実だ。
ピコン。
静かなプレハブ小屋に、スマホの通知音が鳴り響いた。
画面を見ると、監視同盟のグループチャット『【厳重監査】鱈志野淳弥・睡眠実態検証委員会』からの通知だった。
『神薙凛香:本日の監視報告。鱈志野淳弥は夜間一睡もすることなく、完璧な覚醒状態を維持していました。昨夜は私の特製ドリンクと指導のもと、彼と一晩を共にし、彼が一切寝なかったことをこの私が保証しますわ』
「……また、このパターンかよ」
俺はスマホを額に当てて、深いため息をついた。
自分だけが俺の弱みを知り、無防備な寝顔を独占したという圧倒的な優越感。それが、完璧主義の学級委員長に、他の女子たちへ向けた最大級のマウント報告を打たせたのだ。
『蜂屋愛莉:えっ!?凛香ちゃん実際に一晩中一緒にいたの!?ズルすぎ!』
『不動瑞希:学級委員長が夜通し男子生徒の部屋に上がり込むなど、言語道断よ!嘘と言って!』
『常盤栞:淳弥……そんなわけないよね……』
『雨宮梢:あらあら。冗談だとは思うけど、もし本当なら、いくら淳弥くんでも先生、本気でお説教しちゃうわよ?(お尻ペンペンのスタンプ)』
案の定、早朝五時だというのにチャットルームは大炎上し、女子たちの激しい追及のメッセージが滝のように流れ始めた。
「……休み明けの学校も、思いやられるな」
俺は苦笑しながらスマホの画面を閉じ、八時間睡眠で完全に冴え渡った頭で、次なる修羅場へ向けての覚悟を決めるのだった。




