第26話 凛香のお泊まり
前夜の栞の監視シフトで、俺は命がけの徹夜を敢行した。栞が寝落ちしている間も、彼女の「嘘をつかない淳弥」という信頼を裏切らないため、ひたすら睡魔と戦い抜いたのだ。
その代償は重かった。
昼休みになる頃には、俺の体力は完全にレッドゾーンに突入し、視界の端はチカチカと点滅していた。
「……もう、限界だ……」
ふらつく足取りで駆け込んだ先は、旧校舎にある保健室だった。
「あら、鱈志野くん。また無茶して……」
白衣を着崩した雨宮梢先生が、俺のボロボロの顔を見て呆れたようにため息をつく。
「すみません、少しだけ……ここで寝かせてください……」
「仕方ないわね。こっちにいらっしゃい」
先生は優しく俺の手を引き、保健室の一番奥にあるベッドへと誘導してくれた。シャワッとカーテンが引かれ、完全に周囲の視界から遮断された『絶対安全圏』が完成する。
「ここは私がしっかり見張っててあげるから。他の女の子が来ても追い返してあげるわ。ゆっくりおやすみなさい」
「ありがとうございます……」
ほのかに漂うアロマの香りに包まれながら、俺は特技の『秒速入眠』を発動させ、泥のような深い眠りへと落ちていった。
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放課後。保健室での仮眠のおかげでなんとか息を吹き返した俺を、学級委員長の神薙凛香が廊下の隅へと呼び出した。
「鱈志野くん。今日の監視役は私なんだけど、プランを発表するわ」
凛香は腕を組み、いつもより少し早口でまくしたてた。その切れ長の瞳には、明らかな焦りの色が浮かんでいる。
「プランって、何を……?」
「ええ。私が直接、あなたの部屋で監視させてもらうわ。つまり、お泊まりよ」
「お泊まり!?」
俺は素っ頓狂な声を上げた。
今まで散々書き込みされてきた「淳弥と一晩を共にし、淳弥は寝なかった」というグループチャットでの報告。「もしや本当に一緒に夜を越したのでは?」という誤解が膨らみ、それが強い対抗心を抱いていた完璧主義で負けず嫌いな彼女の心に火をつけてしまったらしい。「自分だけが遅れをとっているのでは?」という疑心暗鬼が、彼女を大胆な行動に走らせているのだろうか。
「いや、いくらなんでもそれはマズいって!家族にバレたら大問題になるし……!」
俺は必死に抵抗した。家族の目も怖いが、何より学園のアイドル的存在である彼女が隣にいたら、緊張して一睡もできる気がしない。それが本心だった。
しかし、凛香は一歩も引かなかった。
「大丈夫よ。鱈志野くんが正しい寝方をしているか、私が直接確認するだけだから。首の角度や手の位置が悪いと、快適な睡眠を得ることが出来ずに体を壊しますからね」
「いや、正しい寝方ってなんだよ!かなり無理のある理論武装だぞそれ!」
「とにかく、決定事項よ。二十時に行くから、待っていなさい」
俺の反論を聞く耳を持たず、凛香はそれだけ言い捨てて、足早に帰っていった。その後ろ姿の耳の先が、少しだけ赤く染まっていたのを見逃さなかった。
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十七時に帰宅し、十九時の『夕食は全員集合』という母の鉄の掟をこなして風呂に入り、俺は裏庭のプレハブ小屋で二十時を迎えた。
本当に来るのだろうか。
半信半疑で机に向かっていると、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
ドアを開けると、そこには本当に凛香が立っていた。
「こんばんは、鱈志野くん」
「神薙さん……!本当に来たのか!?」
「ええ。当然でしょう」
彼女はフンと胸を張ったが、その格好を見て俺は目を疑った。
なんと、パジャマの上に少し大きめのコートを羽織っただけという、あまりにも無防備でアンバランスな服装だったのだ。
「な、なんだその格好は」
「し、仕方ないじゃない!深夜の外出なんて慣れてないし、夜中に抜け出す服なんてわからないんだから……。でも、私のベッドの中にはクッションを入れて、寝ているように偽装工作は完璧にしてきたわ!」
名門一家の優等生が、人生で初めてであろう『不良行為』に興奮し、ドキドキしてポンコツになっている。そのギャップが妙に可愛らしくて、俺は思わず吹き出しそうになった。
「わかった、とりあえず中に入って……」
彼女を部屋に招き入れた直後だった。
ザクッ、ザクッ、と母屋の方から庭の砂利を踏む足音が近づいてきた。
「お兄ちゃーん!この前に借りてた充電器、返しに来たー!」
妹の莉央の声だ。
「やばい!莉央だ!」
「えっ!?う、嘘でしょ!?」
凛香はパニックになり、その場でオロオロと彷徨い始めた。俺はとっさに彼女の腕を掴み、ベッドの上に引き倒して掛け布団を頭からバサッと被せた。
「絶対に声を出すなよ!」
直後、ガチャリとドアが開いた。
「はい、充電器。……って、なんかお兄ちゃん焦ってない?」
莉央が怪訝そうな顔で俺と、少し不自然に膨らんだベッドを交互に見る。
「焦ってない!ちょうど今、筋トレの腕立て伏せをしてたから息が上がってるだけだ!」
「ふーん。まあいいや。じゃあね、おやすみ」
充電器を入り口に置き、莉央はあっさりと母屋へ戻っていった。足音が完全に遠ざかったのを確認し、俺は安堵の息を吐き出した。
「……もう大丈夫だ、神薙さん」
布団をめくると、コートの前が少しはだけてパジャマ姿になった凛香が、顔を真っ赤にして涙目でこちらを見上げていた。至近距離で漂う甘い香りに、俺の心臓は別の意味で激しく跳ねた。
「ご、ごめん。とっさに隠すにはこれしかなくて」
俺が慌てて謝ると、彼女は小さく首を横に振った。
「い、いいのよ。バレなかったんだから。……それより」
凛香は潤んだ上目遣いで俺をじっと見つめ、少しだけ唇を尖らせた。
「神薙さん、じゃなくて……。二人だけの時は、この前みたいに下の名前で呼んでほしいな」
消え入りそうな、けれど確かな要求。
普段の完璧な学級委員長の姿からは想像もつかないいじらしいおねだりに、俺の顔まで一気に熱くなった。
「あ、ああ……わかったよ、凛香」
俺が照れ隠しに頭を掻きながらそう呼ぶと、凛香はぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに微笑んだ。




