第25話 味方記念日
二十時。
淹れたてのコーヒーをマグカップに注ぎ、机に向かっていると、スマホが震えた。
画面には『着信:常盤栞』の文字。
深呼吸をしてから、通話ボタンを押す。
「……もしもし、栞」
『もしもし、淳弥。監視シフト、開始するわね』
電話越しに聞こえる声は、昼間の教室で見せたような寂しげなものではなく、いつもの凛とした図書委員長のものだった。しかし、どこか少しだけ緊張しているようにも聞こえる。
たわいない会話が続く。学校の図書室に新しく入った本の話題になった時、栞がふと口を開いた。
『ねえ、淳弥。『サラダ記念日』って知ってる?』
「俵万智の短歌だろ? 授業でやったよ。『この味がいいねと君が言ったから……』」
『そう、七月六日はサラダ記念日』
栞は電話の向こうで、愛おしそうにそのフレーズを紡いだ。
『何気ない日常の出来事でも、大切な人がくれた言葉ひとつで、その日は特別な記念日になる。……私ね、すごく好きなの。この考え方』
「ふーん、真面目な栞にしては、ロマンチックだな」
俺が冗談めかして言うと、栞は少しだけ沈黙し、やがてヒソヒソとした、内緒話のようなトーンで語り始めた。
『私にも、あるのよ。自分だけの特別な記念日が』
「へえ、いつ?」
『小学生の時。……私、昔から融通が利かなくて、クラスで「学級裁判官」って煙たがられて、孤立したことがあったじゃない?』
俺の脳裏に、当時の記憶が蘇る。正しいことを言っているのに誰にも同調してもらえず、教室の隅で一人唇を噛み締めていた小さな栞の姿。
『あの時、誰も私の味方をしてくれなかった。私が間違ってるのかなって泣きそうになってた時……淳弥だけが、「栞は正しいことを言ってる」って、当たり前みたいに隣に立って庇ってくれた』
「あー……そんなことも、あったな」
『淳弥にとっては忘れるくらい些細なことかもしれない。でも、私にとっては、世界が救われた瞬間だったの。だから……私はあの日を、私だけの『味方記念日』として、ずっと大切にしてる』
電話の向こうの栞の言葉には、嘘偽りのない、俺への絶対的な信頼が込められていた。
『淳弥は嘘をつかない。見栄を張って人を誤魔化したりしない。だから、私もずっと、あなたの味方でいたいって思ってるのよ』
胸の奥を、鋭いナイフでえぐられたような痛みが走った。
(……言えるわけがない)
喉まで出かかっていた「嘘なんだ」という告白の言葉を、俺は苦いコーヒーと一緒に胃の奥底へと飲み込んだ。
こんなにも純粋に俺を信じてくれている彼女を、俺のくだらない都合で嘘の上塗りをしてさらに裏切ることなんて、できるはずがなかった。
+++
日付が変わった、九月二十六日、金曜日の深夜。
通話が始まって数時間が経過した頃、栞の声が少しずつ小さく、弱々しくなってきた。
『……ふぁ……』
「栞、眠いのか? 無理しなくていいぞ。今日はもう寝ろよ」
俺が気遣うと、栞は鼻をすするような音を立てた。
『ううん……起きてる。……実はね、ここ最近、自分の監視当番じゃない日も、全然眠れてないの』
「えっ? なんで?」
『なんでって……』
電話の向こうで、栞がシーツをギュッと握りしめるような衣擦れの音がした。
『淳弥が……夜中に、他の女の子たちと楽しく話してるのかなって、想像しちゃうからだよ……』
それは、図書委員長としての建前も、監視という名目もすべて脱ぎ捨てた、一人の女の子としての素直な嫉妬の告白だった。
『先生とドライブに行ったり、蜂屋さんを迎えに行ったり……。私の知らないところで、淳弥が遠くに行っちゃうみたいで……すごく、嫌なの……』
かすかに震えるその声に、俺は自分がどれほど彼女を不安にさせていたかを思い知らされた。
「ごめん、栞……」
俺はスマホを強く握りしめ、できる限り優しく、彼女を安心させるように語りかけた。
「俺はどこにも行かないよ。……俺はお前が心配だ。無理して監視なんてしなくていい。俺のことは気にしないで、いつでも寝てくれ」
『じゅんや……っ』
その優しい言葉に張り詰めていた糸が切れたのか、電話の向こうから「ひっ、ぐずっ……」と、栞が泣きじゃくる声が聞こえてきた。
俺は何も言わず、ただ相槌を打ちながら、彼女が落ち着くまで寄り添い続けた。
やがて、泣き疲れたのか、栞の泣き声は次第に静かな寝息へと変わっていった。
「……栞? 寝たか?」
返事はない。規則正しい、スースーという寝息だけがスピーカーから聞こえてくる。
プレハブ小屋に静寂が戻った。
俺はふと、背後にあるふかふかのベッドに目をやった。
監視役の栞が寝落ちしたのだ。俺も今ここで寝てしまえば、今日も徹夜を回避して、たっぷりと睡眠をとることができる。明日も元気な体で登校できる。
ベッドの誘惑は強烈だった。
しかし、俺は動かなかった。
(ここで俺が寝たら……栞が大切にしている『味方記念日』を、そして『嘘をつかない淳弥』を、完全に裏切ることになる)
俺が起きていなければ、彼女の監視は『失敗』になってしまう。真面目な彼女が、どれほど自分を責めるか。
「……仕方ねえな」
俺は苦笑し、手元に残っていたブラックコーヒーを一気に飲み干した。
これは、俺なりの誠意だ。他のヒロインには「君だけに」と嘘をついて甘えて睡眠を確保したが、栞に対してだけは、彼女が寝ている間も絶対に嘘をつかない。
俺は通話を繋いだまま、スマホから聞こえる栞の寝息をBGMに、文字通り命がけの徹夜を敢行した。
+++
朝の六時。
『……はっ!?』
電話の向こうで、栞が弾かれたように起き上がる音がした。
『うそっ、私、寝てた……!? 朝の六時!?』
監視員としての致命的な大失敗。当番なのに寝てしまった栞が激しく取り乱し、パニックになっているのが手にとるようにわかる。
俺は限界を迎えてフラフラの頭を振り起こし、努めて明るい声でスマホに語りかけた。
「おはよう、栞。よく寝れたか?」
『じゅ、淳弥!? ごめんなさい、私、当番なのに……! 淳弥はずっと起きてたの!?』
「ああ、バッチリ覚醒してるぜ。なんせ俺はショートスリーパーだからな」
『どうしよう、私、監視の役目を……っ』
泣きそうになっている栞に、俺は優しく声をかけた。
「気にするな。……このこと、俺とお前だけの秘密にして、黙っててあげるからさ」
『淳弥……』
自分の失態を一切責めず、それどころか秘密を共有して守ってくれた俺の言葉に、栞は言葉を詰まらせた。
『……ありがとう。淳弥』
その声には、昨夜までの不安や嫉妬は消え、俺に対してますます深くはまっていく、揺るぎない愛情だけが滲んでいた。
数分後、グループチャットに通知が入った。
『常盤栞:本日の監視報告。淳弥と一晩を共にし、淳弥は寝なかったことを確認しました』
自分が寝落ちしたという事実は伏せ、あくまで冷静な図書委員長としての報告。
そのいじらしい隠蔽工作を見届けた俺は、「よくやった」と独り言を呟き、極限の眠気に耐えながら、重い体を引きずって制服への着替えを始めた。




