第3話 栞と深夜電話
学校から帰宅して時刻は二十時。夕食と風呂を済ませた俺は、自室である庭のプレハブ小屋で、絶望の淵に立たされていた。
目の前には、祖父が念入りに断熱材を仕込んでくれた快適な空間と、ふかふかのベッドがある。
普段なら、この時間にはとっくにパジャマに着替え、至福の『秒速入眠』へとダイブする準備を整えているはずだった。俺にとってこのベッドは、一日の疲れを癒やしてくれる最高の楽園だ。
だが、今の俺にとって、それは強烈な誘惑を放つ拷問器具でしかなかった。
(横になったら終わりだ……。俺の体質なら、三秒で意識が飛ぶ)
俺はベッドに背を向け、あえて硬いフローリングの床に胡座をかいた。
すべては、今日の昼間に俺が放った「毎日三十分しか寝ていない」という、くだらない見栄と大嘘のせいだ。
その結果、学園の要人である女子四人による、二十四時間シフト制の監視同盟『【厳重監査】鱈志野淳弥・睡眠実態検証委員会』が発足してしまったのだ。
『ピコン』
静まり返ったプレハブ小屋に、スマートフォンの無機質な通知音が響いた。
画面を見ると、記念すべき第一回目の監視当番である幼馴染、常盤栞からのメッセージだった。
『監視シフトに入りました。ルールの確認だけど、これから朝の六時まで、私からランダムなタイミングでメッセージやスタンプを送るわ』
『それに対して、五分以内に返事をすること。返信がない場合は、寝落ちしたとみなして睡眠実態検証委員会への報告と、翌日クラスでの告発を実行するわ』
(告発って、俺は犯罪者かよ。確かに嘘はついてはいるが……)
俺は震える指でフリック入力した。
『了解。ショートスリーパーの証明よろしく』
『こちらも了解。じゃあ、まずは第一問。今の気分をスタンプで表現して』
俺はすかさず、サングラスをかけた狸の余裕顔スタンプを送信した。
『……ふふっ。よくわからないけど、生存は確認したわ』
それからの一時間は、地獄のような緊張感だった。
十五分、あるいは二十分という不規則な間隔で、栞からスタンプやメッセージが飛んでくる。そのたびに俺は即座に反応し、起きている証拠の返信を送り続けた。
少しでも気を抜いてベッドに手をつこうものなら、容赦なく追撃の通知が鳴る。
(だめだ、座っているだけでも眠気が……!)
俺はたまらず立ち上がり、狭いプレハブ小屋の中をウロウロと歩き回り始めた。歩きながらスマホを握りしめ、次の連絡を待つ。
眠気を散らすために顔を叩き、冷たいお茶を胃に流し込んだ。
+++
日付が変わる頃。深夜零時を回ったあたりで、チャットの通知音ではなく、着信を知らせるバイブレーションが手の中で震えた。
画面には『栞』の文字。通話の着信だ。
俺は慌てて通話ボタンをタップし、スマホを耳に当てた。
「もしもし、栞?」
『……もしもし、淳弥?』
スピーカーから聞こえてきたのは、普段の学校で聞くような、凛とした図書委員長の声ではなかった。
まるで息を潜めるような、柔らかく、それでいて少し掠れたヒソヒソ声だった。
「どうかしたのか?急に電話なんて」
『チャットだけじゃ、本当に起きてるかどうかわからなくなってきたから……。それに、文字を打つ指が疲れちゃって』
なるほど、布団の中に潜り込んで電話をしているらしい。
想像すると、なんだか妙にドキッとした。
栞の家と俺の家は昔からの付き合いで、親同士も仲が良い。だからこそ、夜中にこうして内緒話をするようなシチュエーションには、強烈な非日常感があった。
『そっちこそ、ちゃんと起きてる?無理してない?』
「起きてるよ。ショートスリーパーだからな。今は部屋を歩き回りながら話してる」
『そう。……なんだか、変な感じね』
栞が電話の向こうで、小さく笑う気配がした。
『夜中に淳弥と電話で話すなんて、いつ以来かしら。小学生の時、明日の持ち物がわからなくて電話した時以来かも』
「あー、あの時な。栞が珍しく時間割のプリントを無くして、半泣きで電話してきたやつ」
『ちょっと!半泣きなんてしてなかったわよ。話を勝手に盛らないでよ……』
普段は規則に厳しく、隙を見せない栞が、昔の失敗談を誤魔化そうとしてむくれる。その人間くさい素顔が、深夜という時間帯のせいか、ひどく新鮮に感じられた。
それから俺たちは、監視という名目を半ば忘れかけながら、学校での出来事や昔話に花を咲かせた。
『そういえば、図書室に入った新しいミステリー小説、淳弥も好きそうな話だったわ。今度貸してあげようか?』
「本当か?読む読む。最近、本読んでるとすぐ眠く……じゃなくて、集中できるんだよな」
危ない、うっかり本音が出そうになった。
俺が誤魔化すように笑うと、電話の向こうで栞がふうっと小さく息を吐く音が聞こえた。
そして、少しだけトーンの落ちた声で、彼女は問いかけてきた。
『ねえ、淳弥。明日からの当番……神薙さんや不動さんたちとも、こんな風に夜中ずっと話すの?』
突然の質問に、俺は立ち止まった。
「え?いや、どうだろう。今回は栞が電話かけてきたからこうなってるけど、他の人たちはチャットだけかもしれないし……」
『ふーん……。そうよね。みんなと淳弥はほぼ接点ないし、わざわざ夜中に通話なんてしないわよね』
栞の声には、明らかな安堵の色と、ほんの少しの棘が混じっていた。
もしかして、他の女子たちと俺が夜中に話すことを気にしているのだろうか。
『……別に、神薙さんたちが嫌いなわけじゃないのよ。ただ、あんなにすごい人たちが、なんで淳弥の監視なんて手伝うって言い出したのか、不思議で……』
「俺も不思議だよ。何か弱みでも握られてるのかってレベルでな」
『……淳弥は、誰と話すのが一番楽しみ?』
ヒソヒソ声のまま、真っ直ぐにぶつけられた問い。
図書委員長としての建前を脱ぎ捨てた、ただの幼馴染としての独占欲が見え隠れするその言葉に、俺は動揺してうまく答えを返せなかった。
「そ、それは……栞は昔から知ってるから、気楽だけどさ……」
『そう。……なら、いいわ』
栞は少しだけ満足そうに呟いた。
『さて、油断させておいて寝落ちしてないかのテストよ。今の気分を言葉で表して』
「……もっと栞と話していたい」
『えっ?』
「いや、なんでもない!夜は長いからさ、暇つぶしにな!」
俺は必死に取り繕いながら、背後にあるベッドの存在をすっかり忘れていた。




