第23話 星鳴温泉郷の足湯
さらさらと流れる川の音と、足元から伝わる温泉の心地よい熱。
しばらく無言のまま並んでお湯に浸かっていると、不意に雨宮梢先生が、遠くの山際へと沈みかけている夕日を見つめながら口を開いた。
「……先生ね、前の学校で、ちょっと失敗しちゃったことがあって」
「失敗、ですか?」
「ええ。保健室によく来ていた生徒がいたの。いつもニコニコして、冗談ばっかり言って、私の前では元気そうに振る舞っていたわ。でも、本当はクラスで孤立して、すごく無理をしてサインを出していたのに……私はその子の『表面的な明るさ』だけを見て、本当のSOSを見落としてしまったの」
梢先生の横顔に、いつもの大人の余裕はなかった。どこか遠くを、後悔を滲ませた哀しげな目で見つめている。
「だからね、鱈志野くんが昼休みに保健室で倒れそうになった時。みんなの前で必死に虚勢を張って、いじられ役として愛想笑いを浮かべているあなたの『影』を見て……もう二度と、あんな思いはしたくないって、そう思ってしまったのよ」
保健室の先生としてではなく、一人の人間としての、痛みを伴う弱音だった。
学園の聖母と呼ばれ、誰からも頼られる立場の彼女が、俺にだけ見せてくれた柔らかくて脆い部分。
俺は川の水面から視線を上げ、先生の顔を真っ直ぐに見つめた。
「……先生のせいじゃないですよ」
「えっ?」
「俺も、教室じゃずっとヘラヘラ笑って、空気を読んでやり過ごしてました。そうやって無理して笑ってる奴の本当の気持ちなんて、超能力者でもなきゃ見抜けませんって」
「鱈志野くん……」
「それに、先生は俺のSOSには気づいて、こうして助けてくれたじゃないですか。だから、前の学校のことで自分を責めるのは、もうやめにしてください」
俺が少しだけ声を張って励ますと、梢先生は目を丸くして俺を見つめ、やがて、プクッと頬を膨らませて吹き出した。
「ふふっ……あはははっ!なぁにそれ。まるで、私が生徒みたいじゃない」
「あっ、いや、生意気言ってすみません……!」
「ううん。ありがとう、淳弥くん。なんだか、すごく心が軽くなったわ」
夕暮れの足湯で、俺たちは立場が完全に逆転してしまったことに気づき、顔を見合わせて声を出して笑い合った。
ひとしきり笑った後、梢先生はふっと表情を引き締め、真剣な眼差しで俺を見た。
「でもね、淳弥くん。嘘は、いずれ必ずバレるわ」
「……はい」
「くだらない見栄で始まった嘘かもしれないけど、女の子たちの好意を弄んで騙し続けるのは、お互いにとって良くないわ。傷口は、浅い方がいいよ」
大人としての、そして教育者としての的確で厳しいアドバイス。俺は言葉を返しきれず、膝の上でギュッと拳を握りしめて頷いた。
「……そう、ですよね。俺、そろそろみんなにちゃんと本当のことを……」
しかし、俺が反省の言葉を紡ごうとした直後。
梢先生はベンチの上の距離を詰め、俺の耳元へと顔を近づけてきた。
「でもね……私はあなたの『共犯者』として、共にその罪を償う覚悟があるわよ」
甘く、少しハスキーな声。吐息が耳にかかり、スパイシーな香水の匂いが脳を直接揺さぶってくる。
教育者としてのアドバイスから一転、同級生の女子たちとは全く違う、大人の重みと色気を孕んだ強烈なアプローチだった。
「えっ……?せ、先生……っ?」
俺が激しく戸惑い顔を真っ赤にすると、先生は「うふふ」と悪戯っぽく笑って体を離した。
「さあ、夕飯の時間に遅れると、お母様に怒られちゃうわね。帰りましょうか」
先生が立ち上がり、足湯から出た。俺も慌ててお湯から足を抜こうとしたが、タオルを持ってきていないことに気づいた。
制服のハンカチを探ろうとした瞬間、梢先生が俺の前にスッと膝をついた。
「じっとしてて」
彼女は自分の真っ白なハンカチを取り出すと、濡れた俺の足首を細い指で優しく包み込み、丁寧に水滴を拭き取り始めたのだ。
大人の女性に跪かれ、足を拭いてもらうという背徳的なこの状況。指先の滑らかな感触と、見上げれば目が合ってしまう至近距離に、俺の心臓は警鐘を鳴らすほど激しく高鳴っていた。
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十九時。
すっかり日が落ちた頃、先生の車は我が家の裏手、プレハブ小屋の近くに到着した。
「今日は、本当にありがとうございました。足湯、すごく気持ちよかったです」
「どういたしまして。今日はゆっくり休んで、明日の学校も頑張りなさいね。いつも通りに一晩中監視してたってことにしておいてあげるから」
俺がお礼を言って助手席を降りると、先生は優しく微笑んでドアを閉めた。
車がゆっくりと発進し、夜の路地へと遠ざかっていく。
その背中を見送っていた俺は、ふと奇妙なことに気がついた。
走り去る車の真っ赤なブレーキランプが、「チカッ、チカッ、チカッ、チカッ、チカッ」と、五回ほど規則的に点滅したのだ。
「……ん?なんだあれ」
俺は首を傾げた。
(電球が切れかかっているのかな?それとも、電気系統の接触不良か?明日の学校で、先生に修理を勧めてみようかな)
俺は修理代の心配をしながら、夕食の匂いが漂う母屋へと急いで向かった。
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九月二十五日、木曜日。
朝。プレハブ小屋のベッドで目を覚ました俺は、完璧な目覚めに大きく伸びをした。
昨夜も梢先生のおかげで、たっぷりと八時間睡眠をとることができた。足湯で血行が促進されたこともあり、疲労感は完全にゼロだ。
俺はすぐにスマホを手に取り、梢先生の個人チャットへメッセージを送った。
『おはようございます。昨日は本当にありがとうございました。おかげでぐっすり眠れました!車のブレーキランプ、点滅してましたけど故障じゃないですか?気をつけてくださいね』
数分後。
『教えてくれてありがとう。話は変わるけど、次は昔のJ-POPを色々教えてあげる』
先生の事故を未然に防げて安心した。それにしても急な話の転換だった。俺は音楽にうといから助かりはするが、何か意図があるのだろうか。
直後、グループチャット『【厳重監査】鱈志野淳弥・睡眠実態検証委員会』の通知が鳴り響いた。
『雨宮梢:本日の監査報告。鱈志野淳弥くんは夜間一睡もせず、完璧な覚醒状態を維持していました。昨日は郊外まで少し遠出のドライブをし、二人きりで【一晩を共にし】て、大人の秘密を共有し未来予想図を描いたことを報告しますわ』
俺はスマホの画面を見て、頭を抱えた。
保健の先生という立場を利用した、大人の余裕たっぷりの強烈なマウント報告。
『神薙凛香:郊外へドライブ!?先生、いくらなんでも教育者として限度を超えていませんか!?』
『不動瑞希:大人の秘密だと!?鱈志野、昼休みに屋上へ来い!徹底的にその時の状況を吐かせる!!』
『蜂屋愛莉:えー!先生ズルすぎ!車とか完全密室じゃん!淳弥くん、手出されてない!?』
『常盤栞:淳弥……大人の魅力に絆されてないわよね……?嘘をつくなら、絶対に許さないから』
朝から大爆発を起こし、炎上するチャットルーム。栞に至っては、もはや監視の目的すら見失い、純粋な嫉妬のオーラが画面越しに伝わってくるようだ。
「……なんかもう、毎日が修羅場だな」
俺はスマホの通知をオフにし、深くため息をつきながら制服のネクタイを締めた。
嘘の代償は、俺の想像を遥かに超える速度で、彼女たちの感情をドロドロの争奪戦へと巻き込んでいたのだった。




