第20話 バスケ対決
九月二十四日、水曜日。
私立夢見学園高校の教室に入ると、いつものように穏やかな朝の空気が流れていた。
自分の席に鞄を置こうとした俺に、すっと近づいてくる影があった。
「おはよう、鱈志野君」
「あ、おはよう不動さん」
「……ちょっと、シャツの第二ボタンが開いているわよ。だらしないわね」
言うなり、瑞希は距離を詰め、俺の首元に手を伸ばしてきた。
細く白い指先が俺のシャツのボタンをつまみ、手慣れた様子で穴に通していく。その距離の近さに、彼女のシャンプーの清潔な香りが微かに漂ってきた。
「あ、いや、自分でやるよ……」
「いいから。風紀委員長として、このくらいは当然の指導よ」
そう言いながらも、瑞希の口元は微かに緩んでおり、完全に「世話を焼く女房気取り」の空気を漂わせている。昨夜、俺が彼女にだけ「限界だ」と弱音を吐いて甘えたことが、彼女の不器用な独占欲と庇護欲を大いに満たしたらしい。
俺は照れくさそうに頭を掻き、「ありがとう」と礼を言った。
しかし、その和やかな空気は、背中を突き刺すような二つの鋭い視線によって一瞬で凍りついた。
振り返ると、斜め後ろの席から幼馴染の栞が、そして教卓の前から学級委員長の凛香が、それぞれ氷のように冷たいジト目でこちらを睨みつけていたのだ。
『風紀委員長が自ら風紀を乱すような真似をして、どういうつもりかしら?』
『淳弥……私にはそんな隙を見せないのに』
言葉には出さないが、彼女たちの目からはそんなバチバチとした牽制の火花が飛び散っている。グループチャットでのマウント合戦が、ついに現実の教室にも持ち込まれてしまったらしい。
俺は冷や汗を流しながら、そっと瑞希から距離を取った。
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昼休み。
「おい淳弥!今日こそお前の化けの皮を剥がしてやるからな!」
渡大輔が、鼻息を荒くして俺の机にやってきた。
彼の目の下には、以前の俺が作っていたような見事などす黒いクマが刻み込まれている。
「大輔、お前また寝てないのか?」
「おうよ!昨日も深夜までゲームのランクマ回してて、三時間しか寝てねえ!だから、お前よりは起きてる時間が長いはずなんだよ!」
意味不明な対抗心を燃やした渡は、休み時間のスマホゲーム対戦から始まり、昼休みのグラウンドでのバスケの1on1まで、俺に次々と勝負を仕掛けてきた。
だが、結果は火を見るよりも明らかだった。
監視員たち(梢先生、凛香、瑞希)の計らいによって、ここ数日たっぷり八時間睡眠を確保し、完全復活を果たした俺の肉体と脳は、キレキレのパフォーマンスを発揮したのだ。
ゲームでは圧倒的な反応速度で渡のキャラを瞬殺し、バスケの1on1でも、睡眠不足で足がもつれる渡を軽々とかわしてシュートを決めまくった。
「はぁっ、はぁっ……ぜぇっ……!」
グラウンドに大の字に倒れ込んだ渡は、肩で息をしながら、信じられないという目で俺を見上げた。
「お前……マジでどうやって起きてるんだよ……!三十分しか寝てないのに、なんでそんなに平然としてるんだ……!」
「だから言ったろ。ショートスリーパーで、質の高い睡眠をとってるからって」
涼しい顔で汗を拭う俺を見て、周りを囲んでいた男子たちもどよめいた。
「おい、淳弥マジで化け物じゃん……」
「徹夜明けの渡をボコボコにしたぞ……」
これまで俺を「ハッタリだ」といじっていた男子グループの目から、完全にからかいの色が消え去った。代わりに彼らの瞳に宿ったのは、常人を超越した不眠の達人に対する『リスペクト』だ。
どうやら俺のクラスでの立ち位置は、便利な雑用係から『一目置かれる猛者』へと完全に引き上がってしまったらしい。
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放課後。十七時。
家に帰ってきた俺は、今日の監視当番である蜂屋愛莉へ連絡を入れるべく、スマホを耳に当てた。
しかし、コール音が虚しく鳴り続けるだけで、彼女は電話に出ない。
「忙しいのかな……」
しばらくすると、メッセージの通知音が鳴った。
『ごめん淳弥くん!今バイトの休憩中!二十時に終わるから、それからでいい?』
読者モデルの仕事だけでなく、ダイナーでのアルバイトまでこなす愛莉。本当に休む暇もなく動き回っているらしい。
『了解。二十時に、店まで迎えに行くよ』
俺がそう返信すると、すぐに『えっ!マジで!?やったー!』というテンションの高いスタンプが返ってきた。
十九時。俺は母屋で普通に夕食を済ませ、ゆっくりと風呂に浸かって身支度を整えた。
二十時少し前。
秋の涼しい夜風が吹く中、俺は星鳴商店街の外れにある24時間営業の深夜ダイナー『MIDNIGHTLOUNGE』の前に立っていた。
ここは愛莉のバイト先だ。ネオンサインがレトロな雰囲気を醸し出す店の入り口を見つめながら、俺は壁に寄りかかって彼女を待った。
やがて、店のスタッフ通用口のドアが開き、「お疲れ様でしたー!」という明るい声とともに愛莉が出てきた。
制服ではなく、トレンドを押さえた私服姿。バイト上がりで少し疲れた表情をしていたが、店の前に立っている俺の姿を見つけた瞬間、彼女の目は大きく見開かれた。
「じゅ、淳弥くん……!本当に待っててくれたの!?」
「おう。二十時に終わるって言ってたからさ」
俺が手を上げると、愛莉の顔からカーストトップのギャルらしい計算された表情がスッと抜け落ちた。
代わりに浮かんだのは、待っていてくれたサプライズへの驚きと嬉しさが入り混じった、無防備で自然な満面の笑顔だった。
「……なんか、男の子にバイト先まで迎えに来てもらうのって、初めてかも」
愛莉は少しだけ頬を染め、小走りで俺の隣へと駆け寄ってきた。




