第18話 夜の星鳴パーク
九月二十二日、月曜日。
私立夢見学園高校の教室には、いつものように朝の穏やかな光が差し込んでいた。
俺は、自分の席に座ってゆっくりと息を吐き出した。視界は隅々までクリアで、体は羽のように軽い。徹夜明けの鉛のような重さも、心臓を鷲掴みにされるような吐き気もない。
(やっぱり、八時間睡眠は最高だ……!)
昨夜、凛香の計らいで十分な睡眠をとれた俺は、完全な健康体を取り戻していた。
ふと視線を感じて顔を上げると、斜め前の席に座る学級委員長、神薙凛香と目が合った。
彼女はいつもの完璧な姿勢を崩さないまま、しかし俺にだけわかるような、秘密を共有している余裕の笑みを向けてきた。
俺も姿勢を正し、遠くから両手を合わせ、感謝を伝えるように一瞬だけ首を下げて返事をする。凛香は満足そうに小さく頷くと、黒板の方へと向き直った。
(これで、当面の命の危機は去ったな)
ほっと胸をなでおろしていると、バンッと激しい音を立てて、渡大輔が俺の机に両手をついた。
「おい淳弥!お前、マジで何者なんだよ……!」
「うおっ、なんだよ急に」
大輔の顔は、いつものからかうようなニヤニヤ笑いではなく、どこか青ざめて引きつっていた。彼の後ろには、いつもの男子グループの面々も神妙な面持ちで立っている。
「いや、さっき神薙たちに見せられたんだよ。お前の……その、『睡眠実態検証記録』ってやつを」
「記録?」
「ああ。エクセルできっちりグラフ化されててさ。夜間の覚醒状態とか、三十分おきのレスポンスタイムの平均値とか、なんかもう、学術論文みたいなガチすぎる資料だったぞ……!」
大輔が震える声で言う。
女子たちは、表向きには『【厳重監査】鱈志野淳弥・睡眠実態検証委員会』という冷徹な組織として動いている。俺が寝ていないという事実を男子たちに証明するために、凛香や瑞希、愛莉が真顔でその記録を提示し続けていたのだ。
「『被監視者は三十分の睡眠で完全な覚醒状態を維持』とか、『呼べば数分で応答する』とか、学級委員長も風紀委員長も、カーストトップの蜂屋まで真顔で言うんだぜ?あいつら、マジで二十四時間体制でお前を監視してるじゃねえか……」
「ま、まあな。俺は言った通りショートスリーパーだから」
「どうせハッタリだろって思ってたけど……お前、マジモンの化け物だったんだな」
大輔たちは「こいつ、本当に人間か……?」とドン引きしたような目を俺に向け、少しだけ距離を取った。
彼らの中から「からかい」の色が消えた瞬間だった。
(よし。これで男子からの余計な詮索は減るはずだ)
俺は心の中でガッツポーズをした。
+++
十七時。放課後。
いつもなら、この時間には限界を迎えていて、家に帰り着くや否やプレハブ小屋のベッドへダイブし、気絶するように眠りに落ちていた。
だが今日の俺は違う。足取りは軽く、全く眠気がない。
裏庭のプレハブ小屋に鞄を置き、夕食までの時間をのんびりとネットサーフィンをして過ごす。
十九時。母、晴江の「ご飯よー!」という声に呼ばれ、俺は元気よく母屋のダイニングへ向かった。
テーブルには、唐揚げと大盛りのサラダが並んでいる。俺は席につくなり、白米をかきこんだ。
「うまっ!今日の唐揚げ最高だな!」
「あら、珍しく食欲があるのね。最近ずっと死にそうな顔して、味もわからなそうに食べてたのに」
母が驚いたように目を丸くする。
「お兄ちゃん、なんか今日キモい」
向かいの席に座る妹の莉央が、唐揚げを箸で突きながらジロリと俺を睨んだ。
「キモいってなんだよ。元気でいいだろ」
「だって、ここ数日ずっと死相が出てたじゃん。ゾンビみたいにフラフラしてたくせに、急に健康そうな顔して唐揚げ食ってるとか、逆の逆にキモい」
「ふっ……死の淵を彷徨ったことで、俺の中の眠れる獅子が完全に目覚めたのさ」
「意味わかんない。中二病?」
莉央の辛辣なツッコミすら、今日の俺には心地よい日常のBGMとして脳内変換されていた。
夕食後、俺は風呂場へ向かった。
湯船に浸かり、温かいお湯に肩まで浸かる。
「ふぁ〜……極楽だ」
以前のように強烈な睡魔に襲われてお湯の中に沈みかけることもなく、俺はゆっくりと一日の疲れを癒やした。
+++
二十時。
身支度を整えた俺は、夜の風が吹き抜ける星鳴ベイエリアにある、星鳴パークへと足を運んだ。
今日の監視当番は、風紀委員長の不動瑞希だ。俺は昨日の凛香の時と同じように、彼女を外へ呼び出していた。
もちろん一か八かを決行するためだ。
待ち合わせ場所のベンチには、すでに彼女の姿があった。
長い黒髪をきっちりと一つに結び、平日の夜だというのに、動きやすいスポーティなパンツスタイルに地味な色のパーカーを羽織っている。風紀委員長らしい、隙のない服装だ。
「こんばんは、不動さん。待たせた?」
「いいえ、僕も今来たところ」
瑞希は立ち上がり、涼しげな顔つきで俺を見た。
「ごめんね。女の子をこんな遅くに呼び出して」
俺が素直に謝罪すると、瑞希はふっと短く息を吐いた。
「大丈夫。僕は合気道をやっているから、そこらの男子より強いという自負はあるの。夜道の一人歩きくらい、どうってことない」
「そっか。不動さん、合気道やってるんだ。有段者とか?」
「ええ。道場ではそれなりに評価されているわ。もし不審者が出ても、腕の骨の一本や二本なら簡単に折れるわよ」
真顔で恐ろしいことを言う瑞希に、俺は少しだけ背筋が寒くなるのを感じた。
だが、同時に彼女のその『強さ』と『厳格さ』の裏にある不器用さを、深夜の通話を通して俺は少しだけ知っている。
(合気道の有段者相手に情けない嘘を自白するなんて、自殺行為にも等しい。だが、昨日の凛香さんで味を占めた俺の『どうにでもなれ精神』が完全にブレーキを壊していた。今日のターゲットは、瑞希だ)
俺は小さく深呼吸をして、瑞希に向き直った。




