第17話 展望デッキでの密着
「ありがとう、凛香さん」
俺は心の底から安堵の息を吐き出した。
この数日間、常に誰かの監視の目に怯えていた極限状態の心と体が、彼女の言葉で一気に緩む。
その反動だった。ふっと視界が揺れ、足の力が抜けた。
「あっ……」
「鱈志野くん!」
よろけた俺の体を、凛香がとっさに抱きとめてくれた。
彼女の細い腕が俺の背中に回り、顔が彼女の肩口に押し付けられる形になる。ふわりと、フローラルな香水のような甘い香りが鼻をくすぐった。
「大丈夫!?ごめんなさい、私、無理させて……」
「ごめん、急に気が抜けちゃって……」
慌てて体を離そうとしたが、彼女の柔らかい感触がはっきりと伝わってきて、俺は顔に熱が集まるのを感じた。凛香もハッとしたように頬を染め、少しだけ視線を泳がせる。
「おい大輔、あっちの展望デッキ行ってみようぜ」
「おっ、休日のベイエリアはカップルだらけだからな。誰か知ってる奴いないか探そうぜー」
不意に、階段の方から聞き慣れた騒がしい声が響いてきた。渡たち男子グループだ。
俺は全身から嫌な汗が噴き出すのを感じた。
(やばい、よりによって大輔たちかよ!ここで見つかったら……)
だが、俺以上に慌てたのは凛香だった。
「鱈志野くん、こっちよ!」
彼女は俺の手首を強く引くと、展望デッキの端にある、大きな柱と植え込みの間の狭い死角へと俺を押し込んだ。
「ちょ、凛香さん?」
「しーっ……声を出さないで」
彼女は俺に身を寄せるようにして、息を潜めた。
「凛香さん、なんで隠れるんだ?別に悪いことしているわけじゃ……」
俺が小声で尋ねると、凛香は焦ったように首を振った。
「そうじゃないわ。今、ここで私たちが二人きりでいるところを渡くんたちに見られたら……ただでさえ鱈志野くんは噂の中心なのに、私と変な関係だっていう無駄な憶測まで飛んでしまうわ」
「無駄な憶測って……付き合ってるとか?」
「そ、そうよ!そんな噂が出たら、あなたに迷惑かかるでしょ……っ」
凛香は言いながら、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染めていった。
ここで見つかれば俺の嘘がバレるからではなく、俺がこれ以上クラスで面倒な噂に巻き込まれないようにという、彼女なりの気遣いだったのだ。
しかし、そのせいで俺たちは、文字通り身動きが取れないほど密着してしまっていた。
俺の背中は壁に張り付き、目の前には凛香の顔がある。彼女が息を吐くたびに、甘い香りが俺を包み込む。
(近すぎる……っ)
俯いた凛香のまつ毛が震え、彼女の胸の鼓動が、服越しにトクントクンと伝わってくるような気がした。
学校で見る、常に堂々として隙のない「完璧な学級委員長」の姿はそこにはない。そこにあるのは、異性を強く意識して、戸惑いと照れに顔を赤くする、年相応の一人の女の子の顔だった。
「あーあ、誰もいねーじゃん」
「つまんね。下のカフェでジュースでも買って帰ろうぜ」
渡たちの足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる。
「……行った、みたいだね」
俺が絞り出すように言うと、凛香は弾かれたように体を離した。
「そ、そうね!……ごめんなさい、変なところに押し込んじゃって」
「いや、助かったよ。気を使わせてごめん。ってか俺、凛香さんと噂になっても、迷惑じゃないよ」
「えっ……バカ言わないで、そ、それも嘘よね。そんなことより今日はゆっくり寝るのよ、鱈志野くん。じゃあね」
夕方の風の中、凛香は逃げるように背を向けると、足早に展望デッキを去っていった。その後ろ姿は、やっぱり耳まで赤かった。
+++
夜。家に帰り着いた俺は、夕食と風呂をマッハで済ませ、プレハブ小屋のベッドにダイブした。
「あぁ……最高だ……」
今日は誰の監視に怯えることもない。嘘をついているという罪悪感はあるものの、共犯者が増えたという謎の安心感が、俺の心を深く落ち着かせていた。
目を閉じる。ワン、ツー、スリー。
俺は一瞬で、甘く深い闇へと落ちていった。
+++
九月二十二日、月曜日。
朝の光がプレハブ小屋に差し込む。俺はアラームが鳴る前に、スッキリと目を開けた。
「……めちゃくちゃよく寝た!」
まるまる八時間、質の高い睡眠を貪った体は、羽のように軽かった。頭痛も吐き気もなく、視界の隅々までクリアだ。
俺はベッドの上で大きく伸びをすると、スマホを手にとった。
まずは、真実を知っている保健室の雨宮梢先生への根回しだ。
『おはようございます。色々考えましたが、もう少しだけショートスリーパーの設定を続けさせてください。先生にはご迷惑をおかけします』
すぐに既読がつき、呆れたようなウサギのスタンプと共に返信が来た。
『おはよう。また無茶するのね。体調管理はしっかりしなさいよ。無理だと思ったらすぐ言いなさい』
心配してくれつつも了承してくれる大人の余裕と優しさに、俺は自然と口角が上がる。
次に、凛香の個人チャットを開く。
『おはよう。昨日は本当にありがとう。おかげでぐっすり寝られたよ。凛香さんには頭が上がらないよ』
感謝のメッセージを送ると、少し間をおいて返信があった。
『おはよう。……昨日のことは、私とあなただけの秘密よ。今日も頑張りなさい』
ふう、と息を吐き出した直後。
グループチャット『【厳重監査】鱈志野淳弥・睡眠実態検証委員会』の通知が鳴り響いた。
『神薙凛香:本日の監視報告。被験者・鱈志野淳弥は、夜間一睡もすることなく覚醒状態を維持していました。昨日は彼からの呼び出しで星鳴ベイエリアの展望デッキにて【丸一日】を共に過ごし、彼が一切の睡眠行動をとらなかったことを、この私が保証しますわ』
俺は画面を見て、思わずスマホを取り落としそうになった。
「ま、またマウント合戦かよ……!」
昨日の栞の『丸一日デート報告』に対抗するように、凛香もわざわざ【丸一日】という言葉を強調し、さらに「自分から呼び出された」という事実を投下している。完璧な学級委員長の、優雅で強烈なマウントだ。
案の定、チャットルームは即座に火の海と化した。
『常盤栞:呼び出し……?淳弥、昨日は疲れてるから家で休むって言ってたのに?』
『不動瑞希:委員長、あなたまで私的な越権行為ですか!展望デッキで何をしていたか、詳しく報告しなさい!』
『蜂屋愛莉:えー!凛香ちゃんまで抜け駆け!?ってか淳弥くん、アタシの時もデート誘ってよね!?』
『雨宮梢:あらあら、若い子は行動力があって元気ねぇ』
次々と飛び交う追及の嵐。
俺は冷や汗を拭いながらも、なぜか心の中には余裕があった。
十分な睡眠をとり、体調が完全に戻り始めた俺の脳は、この修羅場すら「なんとかなる」と冷静に処理し始めていた。
「よし……今日も、有意義な一日を過ごすか」
俺は制服に袖を通し、足取りも軽く母屋へと向かった。
嘘の泥沼は確実に深くなっている。だが、今はただ、この完全復活した体と冴え渡る頭で、彼女たちとの危険なゲームを生き抜いてやろう。そう思えるだけの活力が、俺の全身に満ち溢れていた。




