第14話 マイボトルコーヒー
夕方になり、俺たちは鱈志野家へと帰ってきた。
裏庭のプレハブ小屋へ直行しようとした時、母屋の勝手口からドタバタと足音が聞こえてきた。
「あーっ!栞ちゃんだ!」
現れたのは、中学二年生になる妹の莉央だった。
莉央にとって栞は、幼い頃から一緒に遊んでくれていた、気の置けないお姉ちゃんのような存在だ。俺に対しては毒舌で冷たい莉央も、栞には昔から懐いている。
「栞ちゃん、久しぶりー!最近全然うちに来てくれないから寂しかったんだよ」
「ふふっ、ごめんね莉央ちゃん。私も委員会の仕事が少し忙しくて」
莉央は栞の腕にギュッと抱きつき、俺の方をジロリと睨んだ。
「ねえねえ栞ちゃん、お兄ちゃんなんかと遊ばないで、母屋で私とお話ししようよー。お兄ちゃん最近、夜中に一人で笑ってたりしてマジでキモいんだから」
俺の深夜の痛い行動を暴露しながら、莉央が嫉妬を込めて栞を引っ張ろうとする。
どう言い訳するかと俺が焦っていると、栞は困ったように微笑みながら、莉央の頭を優しく撫でた。
「ごめんね莉央ちゃん。今日は、学校の勉強でどうしても淳弥に聞きたいことがあるの。だから、また今度ゆっくりお話ししようね」
気を使ってくれたのか、深夜の睡眠実態検証委員会の件を家族に知られまいと、栞はとっさに「勉強」という建前を使って誤魔化した。
莉央は「えー、お兄ちゃんに勉強聞くの?栞ちゃんの方が絶対頭いいのに」と不満げに口を尖らせたが、「わかった、絶対また今度ね!」と手を振って母屋へと戻っていった。
ふう、と息を吐きながらプレハブ小屋のドアを開ける。
「悪いな、莉央のやつ。お前のこと本当に好きだからさ」
「ううん、私も莉央ちゃんとお話ししたかったし」
部屋に入り、俺は買ってきたばかりの星鳴ブレンドの豆を手挽きのミルに入れた。ゴリゴリとハンドルを回す音が静かなプレハブ小屋に響き、次第に深く香ばしい香りが部屋を満たしていく。
細口のポットからゆっくりとお湯を注ぐと、ぷくぷくと豆が膨らみ、豊かなアロマが立ち上った。
「はい、お待たせ」
俺がマグカップを差し出すと、栞は両手で受け取り、ふーふーと冷ましてから一口飲んだ。
「……あ、美味しい。すごくいい香り」
栞の顔がほころぶのを見て、俺も自分の分のコーヒーをすすった。
落ち着いた空気の中、俺はずっと気になっていたことを切り出した。
「なあ、栞。昨日の昼休みのことなんだけどさ」
「えっ?」
「保健室で、梢先生が俺の監視同盟に参加するって言った時……お前、何か言いたそうだったよな。帰り際も、すごく落ち込んでたし」
俺の言葉に、栞はピタリと動きを止めた。
マグカップの縁を指でなぞりながら、彼女の視線が下を向く。しばらくの沈黙の後、栞は耳まで真っ赤にして、ぽつりぽつりと不器用な本音をこぼした。
「……だって、私……あのシフトの当番、すごく楽しみにしてたから」
「栞……」
「もちろん、先生が監査役として入るのは正しいことだし、反論なんてできないわ。でも……淳弥の監視の順番が、先生のせいで一日ずれてしまって……それが、ちょっと寂しかったの。全部言わせないでよ」
普段は規律を重んじる図書委員長の、あまりにも素直で女の子らしい独占欲。
俺のためにそこまで心を痛めてくれていたのかと思うと、胸の奥がキュッと締め付けられた。
「……ごめんな」
「えっ?」
「俺も、昨日の夜はお前と話せなくて少し残念だった。でも、その分……今日一日、こうして栞と一緒にいられて、楽しかったよ」
俺が照れ隠しに頭を掻きながらフォローすると、栞はパッと顔を上げ、大きな瞳を潤ませた。
「……うんっ。私も、今日はすごく楽しかった」
夕日がプレハブ小屋の窓をオレンジ色に染める頃、栞が帰る時間になった。
俺はふと思いつき、新しく淹れたコーヒーを「持って帰れよ」と差し出した。
ただ、紙コップのような適当な容器がなかったため、俺がいつも学校に持っていく保温用のマイボトル(もちろん綺麗に洗ってある)に入れて渡すことにした。
「ごめん、これしか入れ物がなくてさ」
「これって……淳弥がいつも使ってるやつ、よね……?」
ボトルを受け取った栞は、間接キスだという事実に気づいたのか、顔から火が出そうなほど真っ赤になってフリーズした。
しかし、すぐにそれを愛おしそうに両手でギュッと抱え込み、上目遣いで俺を見た。
「……ありがとう。コーヒー、ゆっくり飲むね。また後で、夜に電話するから」
「はいはい。監視業務ご苦労様です」
夕日を背に帰っていく栞の背中を見送りながら、俺は今日一日の平和で穏やかな時間を久々にしみじみと味わっていた。
+++
二十時。
プレハブ小屋の机に向かっていた俺のスマホが鳴った。画面を見ると、栞からのメッセージだった。
『今、お風呂から上がったところ。今日もキッチリ監視しちゃうからね』
一緒に送られてきたのは、猫が敬礼している可愛らしいスタンプだ。昼間の手帳のメモにあった『かわいいスタンプを使う』というミッションを忠実に実行しているのだろう。
俺も『了解。こっちはバッチリ起きてるぞ』と返し、それから数時間、俺たちは他愛のないメッセージやスタンプのやり取りを続けた。
昨夜たっぷりと十時間睡眠をとったおかげで、今日の俺はカフェインに頼らなくても全く眠気を感じていなかった。余裕しゃくしゃくで深夜の被監視者をこなしていく。
+++
九月二十一日、日曜日。
日付が回った、深夜零時過ぎ。
メッセージのやり取りが途切れたかと思うと、唐突にスマホが着信を知らせる振動を始めた。栞からの電話だ。
「もしもし、栞?」
『……もしもし、淳弥』
スピーカーから聞こえてきた声は、いつもの凛とした図書委員長のものとは少し違っていた。どこか熱っぽく、そして妙に強気な響きを帯びている。
「どうかしたのか? 急に電話なんて」
『ううん……。今ね、淳弥が淹れてくれたコーヒー、飲んでるの』
夕方、俺が持たせたマイボトル。どうやら彼女は、あのコーヒーを深夜のこの時間まで大事にとっておいたらしい。
「そっか。冷めてないか? それ、結構濃く淹れたから、夜中に飲むと目が冴えちゃうかもしれないぞ」
『うん、冴えてる。すごく……ドキドキして、冴えすぎなくらい』
どうやら、普段カフェインを取り慣れていない栞の精神が、俺の淹れた深煎りコーヒーのせいで完全に覚醒してしまっているようだ。
電話の向こうから、コク、と喉を鳴らしてコーヒーを飲み込む音が聞こえた。マイボトルに直接口をつけている光景を想像してしまい、俺の方が無駄に動揺してしまう。




