第11話 梢先生の甘い誘惑
九月十九日、金曜日。
昼休み。俺は焦点の定まらない目で旧校舎の廊下を彷徨っていた。
三夜連続の徹夜明けである昨日に引き続き、これで四夜連続の徹夜。いや、もはや何日目なのかすら脳が正しく認識できていない。
「……寝る場所……」
誰も来ない空き教室か、体育館の裏か。数分でもいいから気絶できる場所を探してヨロヨロと歩いていた時、ふと白衣姿の人物に腕を掴まれた。
「ちょっと鱈志野くん、あなたすごい顔色よ。保健室にいらっしゃい」
養護教諭の雨宮梢先生(二十五歳)だった。
ゆるやかなウェーブのかかったブラウンのセミロングヘアを無造作にクリップで留めて、白衣の下は柔らかいブラウスを着崩しており、大人の色気と親しみやすい温かさを併せ持っている。生徒から、絶大な人気の先生だ。
抵抗する気力もなく腕を引かれ、日当たりの良い保健室へと連行される。奥のベッドに座らされると、シャワッとカーテンが引かれ、完全に周囲から仕切られた『絶対安全圏』が作られた。
ほのかに漂うアロマの香りが、俺の限界を迎えた脳を強制的にシャットダウンさせようとしてくる。
「先生、俺は大丈夫です。ショートスリーパーなんで……」
虚勢を張る俺の言葉を遮るように、梢先生はすっと俺の手首を握り、脈を測り始めた。
その白く滑らかな指先が肌に触れ、ドキリとする。
「……脈が速いし、体温も乱れてる。……ショートスリーパーねぇ。体のサインは嘘をついていないんだけど?」
眠たげな垂れ目を少し細め、先生は至近距離から俺の顔を覗き込んできた。白衣の下のブラウスから覗く胸元の谷間と、大人の女性特有の甘い匂いに、俺はタジタジになって視線を逸らす。
「と、とにかく、俺は平気ですから……」
「そう。でも、先生としては見過ごせないわ」
梢先生は小さく息を吐くと、スマホを取り出した。
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数分後、保健室に呼び出されたのは、栞、凛香、瑞希、愛莉の四人の監視員たちだった。
「先生、私たちに何かお話でしょうか?」
代表して凛香が尋ねると、梢先生は大人としての威厳を漂わせて四人を見回した。
「あなたたち、鱈志野くんの睡眠実態を検証するグループを作っているそうね。でも、メッセージと通話だけとはいえ、子どもたちだけで夜を過ごさせるなんて、監視の目的もやり方も、先生には少し怪しく見えるの」
「それは……」
「だから、『子どもたちだけに任せておけない』『鱈志野くんの健康状態をチェックする』という名目で、先生もそのグループの『監査役』として参加させてもらうわ」
学園の聖母とも呼ばれる保健の先生からの正論に、彼女たちも逆らうことはできなかった。
「というわけで、早速だけど今日の監視当番は先生がやるわ」
梢先生のその宣言に、四人の間にピリッとした空気が走った。
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グループチャットに先生が参加し、四人が保健室を後にする中、今日当番の予定だった栞が、明らかに落ち込んだ様子でうつむいていた。
「栞、どうかしたか?」
廊下で声を掛けると、彼女はハッとして顔を上げたが、すぐに目を逸らした。
「……なんでもないわ」
言葉とは裏腹に、その横顔には隠しきれない寂しさが滲んでいた。
ふと、彼女の手元にある開かれたままの手帳に目が留まった。今日の日付の欄に、細かく几帳面な字でメモが書き込まれている。
『淳弥と電話で話すことリスト』
『かわいいスタンプを使う』
生真面目な図書委員長の彼女らしからぬ、いじらしいメモ。
栞は、俺との深夜の当番をこんなにも楽しみに、そして入念に準備してくれていたらしい。俺のくだらない見栄のせいで巻き込んだというのに。
強烈な罪悪感が胸を締め付けたが、みんなの手前、俺はこれ以上追及するのをやめた。
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十七時。
帰宅した俺は、秒速でプレハブ小屋のベッドに倒れ込み、泥のような眠りについた。
十九時。母の怒声によって夕食に駆り出され、咀嚼もそこそこに風呂に入る。湯船で寝かけながらも、なんとか気合いで生還を果たした。
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二十時。
プレハブ小屋の机でコーヒーを淹れていると、スマホが振動した。
早速、梢先生からの着信だった。
「もしもし、先生?」
『こんばんは、鱈志野くん。……今日で何日目?』
電話に出るなり、梢先生の落ち着いた、少しハスキーな声が耳をくすぐる。
「……五日目です」
『そう。そろそろ、限界じゃない?』
優しく気遣うような響き。でも、ここで折れるわけにはいかない。
「大丈夫です。先生が相手でも、俺は絶対に起きてますから」
『ふふっ、強がりね。……眠らなくていいから、先生の言う通りにしてくれる?』
「えっ?」
『スマホをスピーカーにして、目を閉じて。そのまま、首の横の太い筋を、指で優しく押してみて。先生も今、同じようにやっているから』
言われるがままに目を閉じ、自分の首元をマッサージする。
『そう、そのまま……んっ……少しずつ下に、鎖骨のくぼみに向かって……はぁっ……』
「せ、先生……?」
『……あぁっ……ここを流すと、すごく……気持ちいいのよ……んんっ……』
電話の向こうから、マッサージの心地よさに思わず漏れ出たような、甘く艶っぽい吐息と喘ぎ声が聞こえてきた。
耳元で直接囁かれているような、あまりにも生々しい大人の色気。
その破壊力に、限界を迎えてウトウトしかけていた俺の意識は一気に現実へと引き戻された。
「えっ!?せ、先生!?だ、大丈夫ですか!?」
バチッと目を見開き、跳ね起きそうになる。極度の疲労状態にある脳が、突然の刺激に完全にパニックを起こしていた。
しかし、俺の動揺をよそに、梢先生はクスリと吐息を漏らして笑い、さらに甘く、とろけるような声で囁きかけてきた。
『ふふっ……驚かせちゃったかしら。でも、本当に気持ちいいの。淳弥くんも、今、私と同じところを押しているんでしょう……?』
「あ、はい……でも、その、先生の声が……」
『しーっ……。体の力、抜いて。……そう、ベッドに深く背中を沈めて……。目を閉じたまま、私の声だけに集中して……』
宥めるような、そして抗いがたい引力を持った声。
マッサージで血流が良くなったせいか、それとも五日目の徹夜という絶対的な限界を迎えた肉体のせいか。一度は驚きで覚醒したはずの意識が、先生の言葉に同調するように急速に重力を増し、泥のような睡魔が足元から這い上がってくる。
『毎日毎日、一人で無理して……本当に頑張ったわね。……えらい、えらい。もう、強がらなくていいのよ』
「先生……でも、俺はまだ、起き……て……」
『ううん、もう眠っていいのよ。先生が許してあげるから。……いい子ね、このまま私の声と一緒に、深いところまで落ちていらっしゃい……』
俺を絶対に寝かしつけようとする、必死で、それでいてひどく優しい言葉の雨。
まるで甘い麻酔のように繰り返されるその囁きに抗うだけの気力は、もう俺には残されていなかった。
心身を溶かすような大人の色気と優しさ。自分の指先から伝わる温かさと、スピーカーから響く先生の吐息が混ざり合い、俺の意識は抗う間もなく、深く甘い闇へと溶けていってしまった。




