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8/12

張文遠様、距離感を確認いたします

閻婆惜でございます。

本日は、距離感について確認いたします。

近づきすぎれば噂になります。

避けすぎても、また噂になります。

褒め言葉も、受け取り方を間違えますと、次の距離が近くなります。

何もないからこそ、形を整える。

線を引くのは、相手を拒むためではございません。

誤解を生まないためでございます。

張文遠様を、避けすぎない。

昨日、私はそう書いた。

ただし、二人きりにはならない。

それも書いた。

書いた時は、正しいと思った。

今も正しいと思っている。

だが、正しいことと、実行しやすいことは別である。

私は机の上の紙を見下ろしていた。

婆惜側対応。

一、病み上がりを理由にしすぎない。

二、役所関係者の前で話しすぎない。

三、宋江様を庇いすぎない。

四、張文遠様を避けすぎない。

五、ただし二人きりにはならない。

六、悪女ではないが、疑われない努力はする。

特に四と五が面倒だった。

避けすぎない。

二人きりにはならない。

並べると簡単に見える。

実際にやろうとすると、かなり面倒である。

近づけば噂になる。

遠ざけすぎても噂になる。

笑えば誤解される。

冷たくすれば、何かあったと思われる。

世の中には、距離を取るだけでも難しい相手がいる。

張文遠様は、たぶんその部類だった。

「婆惜」

宋江様が、横から紙を覗き込んだ。

「張文遠とは、会わぬ方がよいのではないか」

「そう単純ではありません」

「なぜだ」

「避けすぎると、逆に目立ちます」

宋江様は眉を寄せた。

「会えば疑われ、避けても疑われるのか」

「はい」

「では、どうすればよい」

「誤解の少ない距離を取ります」

「距離」

「はい。距離感は、近さではなく誤解の少なさで決めます」

宋江様は、しばらく黙った。

最近、この方の沈黙にも種類があると分かってきた。

困っている沈黙。

考えている沈黙。

顔に出さないよう努力している沈黙。

そして、今のように、本当に意味が分からない沈黙。

「婆惜」

「はい」

「そなたの言う距離感は、難しい」

「私もそう思います」

「自分で言うのか」

「はい」

私は紙に新しい項目を書いた。

距離感管理。

宋江様が少し嫌そうな顔をした。

「また管理か」

「はい」

「人間関係まで管理するのか」

「管理しない人間関係ほど、炎上します」

「炎上する前提なのだな」

「炎上しやすいものが多すぎますので」

宋江様は、何か言おうとしてやめた。

よい判断である。

私は筆を取った。

一、挨拶はする。

二、長話はしない。

三、用件を確認する。

四、宋江様不在時は応対しない。

五、褒め言葉は受け取りすぎない。

六、笑って流さない。

宋江様が、五と六を見た。

「褒め言葉まで危ないのか」

「危ないです」

「褒められるのは、悪いことではなかろう」

「悪いことではありません。ただ、場所と相手と距離によります」

「難しいな」

「はい」

私は、少しだけ筆を止めた。

現代の会社でも同じだった。

容姿を褒める。

若いねと言う。

きれいだねと言う。

気が利くねと言う。

軽い冗談のつもりで、相手の逃げ道を塞ぐ。

本人は褒めたつもり。

周囲も笑って流す。

受け取らなければ、こちらが硬いことになる。

あれは厄介だった。

怒るほどではない形をしている。

けれど、流すと次が近くなる。

近くなった距離は、戻す時に余計な力がいる。

「宋江様」

「うむ」

「笑って流すと、次回の距離が近くなります」

宋江様は、少しだけ顔を上げた。

「そういうものか」

「そういうものです」

「ならば、最初から笑わぬ方がよいのか」

「相手によります」

「また難しい」

「はい。難しいから、先に決めます」

ちょうどその時だった。

外から声がした。

「宋押司はおいでですか」

私は宋江様を見た。

宋江様も私を見た。

声には聞き覚えがあった。

張文遠様である。

来た――

本当に来た。

できれば、もう少し後にしてほしかった。

こちらはまだ距離感管理を書き始めたばかりである。

「婆惜」

宋江様が小声で言った。

「どうする」

「宋江様がご在宅ですので、応対します」

「わしがいればよいのか」

「最低条件です」

「最低」

「はい。最善ではありません」

「では、最善は」

「来ないことです」

宋江様は少しだけ口元を動かした。

笑いかけた。

私は見た。

「今は外に近いです」

「分かっておる」

宋江様はすぐに表情を戻した。

少しずつ学習している。

よい傾向である。

宋江様が戸を開けた。

張文遠様は、昨日と同じように礼をした。

身なりは整っている。

口元には軽い笑み。

目は、部屋の中をさりげなく見ている。

人懐こい。

だが、人懐こさだけではない。

「宋押司。昨日は失礼いたしました」

「いや、こちらこそ」

宋江様が答える。

張文遠様の視線が、私へ流れた。

「奥方も、お加減はいかがですか」

来た――

具合の話。

病み上がり。

昨日からの続き。

私は軽く頭を下げた。

「お気遣いありがとうございます。今は日常のことから少しずつ戻しております」

病み上がりとは言わない。

倒れたとも言わない。

まだ万全とも言わない。

ほどほどである。

宋江様が、横で少しだけ感心した顔をした。

その顔も外では控えていただきたい。

張文遠様は、笑みを深くした。

「それは何よりです。奥方が起きておられると、家の中も明るくなりましょう」

褒め言葉、家、奥方、明るい。

一見、何も問題はない。

だが、少し近い。

私は、表情を動かさずに答えた。

「ありがとうございます。ただ、そのお言葉は本日のご用件に関係ございますか」

張文遠様の笑みが、一瞬だけ止まった。

宋江様も止まった。

止まらないでほしい。

こちらが目立つ。

「これは失礼。ご挨拶のつもりでした」

「承知いたしました。では、ご挨拶として受け取ります」

私は軽く頭を下げた。

受け取りはする。

ただし、そこまでである。

張文遠様は、少しだけ目を細めた。

「奥方は、病み上がりでもお変わりなく」

来た――

二つ目。

私は内心で、確認事項の五を押さえた。

褒め言葉は受け取りすぎない。

「私の容姿についてのご感想は、用件には含まれないものとして処理いたします」

今度こそ、張文遠様は黙った。

宋江様が横で息を止めた気配がした。

私は続けた。

「本日は、宋江様へご用件でしょうか」

張文遠様は、すぐに笑みを戻した。

切り替えが早い。

危険度を一段上げる。

「ええ。役所の件で、少し」

少し。

また少しである。

この世界の少しは、だいたい少しではない。

「公の件でしたら、役所でお願いいたします」

私はそう言いかけて、止めた。

毎回それでは、避けすぎる。 今回は宋江様がいる。

張文遠様も、表向きは役所の用件と言っている。

完全に切ると、不自然になる。

「内容を先に伺ってもよろしいでしょうか」

張文遠様は、こちらを見た。

「奥方もお聞きに?」

「この家に関わることでしたら」

「役所のことですよ」

「では、宋江様が役所でお聞きすべきですね」

「いや、そこまで大げさな話では」

出た――

大げさではない。

私は静かに息を吸った。

「大げさかどうかは、内容を伺ってから判断いたします」

宋江様が、ほんの少しこちらを見た。

覚えている顔だった。

よろしい。

ただし、外では不可である。

張文遠様は苦笑した。

「奥方は、手厳しい」

「手厳しいのではありません。線を引いております」

部屋の空気が、少し変わった。

宋江様が黙る。

張文遠様も黙る。

私は続けた。

「張文遠様。昨日も申し上げましたが、宋江様の不在時に私が応対することは控えます」

「それは、私が信用ならないと?」

「信用の問題ではございません」

「では」

「誤解の問題です」

張文遠様は、口を閉じた。

私は、できるだけ穏やかに言った。

「宋江様のお知り合いである殿方が、宋江様の不在時にこの家へいらっしゃる。そこに私が一人で応対する。事実がどうであれ、噂には十分です」

宋江様の顔が少し強張った。

分かっていただきたい。

今これは、宋江様にも言っている。

「私は、張文遠様を拒んでいるのではありません。誤解が生まれる形を避けたいだけです」

張文遠様は少し笑った。

「そこまで気になさるとは」

「気にします」

「何もないなら、堂々としていればよいのでは」

また来た――

よくある言葉である。

何もないなら堂々としていればいい。

隠すことがないなら平気なはず。

気にする方が怪しい。

現実は違う。

何もなくても、形が悪ければ疑われる。

そして噂は、事実より速く駆け抜ける。

「何もないからこそ、形を整えます」

私は答えた。

「後から説明するより、最初から誤解を作らない方がよろしいかと存じます」

張文遠様の笑みが、今度は少し薄くなった。

「奥方は、本当に変わられましたね」

その言葉は、軽く聞こえた。 だが、探っている。

昨日までの閻婆惜を知っている。

今の私が違うことも見ている。

その違いを、口に出してきた。

私は少しだけ首を傾けた。

「そう見えますか」

「ええ。以前より、ずいぶん……」

張文遠様はそこで言葉を切った。

賢い――

言い切らない。

こちらに拾わせようとしている。

あえて私は拾わなかった。

「日常に戻るにあたり、いろいろと整理しているところでございます」

病み上がりとは言わない。

だが、それに近いところで止める。

宋江様が横で、少しだけ顔を動かした。

また顔に出た。

あとで書くこと決定。

張文遠様は、宋江様へ視線を移した。

「宋押司も、奥方に助けられておいでのようだ」

宋江様が何か言いかけた。

私は先に言った。

「夫婦ですので、家の中のことは相談いたします」

宋江様が黙った。

よし――

張文遠様は、今度こそ少し困ったように笑った。

「なるほど。では、今日のところは失礼しましょう」

「ご用件はよろしいのですか」

私が尋ねると、張文遠様は一瞬、目を細めた。

「大したことではありませんので」

出た――

また出た。

私は静かに微笑まないまま言った。

「では、次回は大したことかどうか確認できる形でお願いいたします」

宋江様が、横で肩を震わせかけた。

論外である。

不可。

張文遠様は礼をして、戸口へ向かった。

去り際、私の方を振り返る。

「奥方」

「はい」

「お身体、お大事に」

「ありがとうございます」

「宋押司も、奥方をあまり困らせませぬよう」

軽い冗談の形をしている。

だが、宋江様の顔を見るための言葉でもある。

私は宋江様を見る前に言った。

「それはこちらで管理いたします」

張文遠様は、少しだけ笑った。

今度の笑いは、先ほどより慎重だった。

「失礼いたします」

戸が閉まった。

足音が遠ざかる。

私は、完全に聞こえなくなるまで黙っていた。

宋江様も黙っていた。

やがて、宋江様が息を吐いた。

「婆惜」

「はい」

「わしは、何度顔に出た」

「三回です」

「三回」

「少なく見積もって、三回です」

宋江様は顔を覆った。

「張文遠にも分かっただろうか」

「おそらく」

「やはりか」

「はい」

「顔だけで章が一つ作れそうだと言ったが」

「作りたくありません」

「わしもだ」

同じ会話だった。

だが、今は笑うところではない。

私は紙を引き寄せた。

距離感管理。

張文遠様対応。

一、宋江様不在時は応対しない。

二、容姿への言及は、用件ではない。

三、褒め言葉は挨拶として処理し、そこで止める。

四、何もないからこそ、形を整える。

五、張文遠様は、言い切らずに相手へ拾わせる。

六、宋江様は横で顔に出さない。

宋江様が覗き込んだ。

「六は、やはり書くのか」

「重要です」

「わしの顔ばかり増えていく」

「実際に増えています」

「顔は一つだ」

「問題は表情の数です」

宋江様は言葉を失った。

私は筆を置いた。

「宋江様」

「なんだ」

「張文遠様は、悪人とは限りません」

「そうだな」

「ですが、距離の詰め方が軽い方です」

「それは分かる」

「軽い距離をそのまま受け取ると、こちらの評判が重くなります」

宋江様は少し考えた。

「今日のそなたは、かなり遠ざけたように見えたが」

「遠ざけました」

「避けすぎないのではなかったか」

「拒絶ではなく、線引きです」

「違うのか」

「違います」

私は紙を指で押さえた。

「拒絶は相手を外へ押し出します。線引きは、ここから先は入れないと示します」

宋江様は黙った。

今日の沈黙は考えている沈黙だった。

「そなたは、張文遠を嫌っているのか」

私は少し考えた。

嫌っている。

そう言えば簡単だ。

だが、正確ではない。

張文遠様のような人は、会社にもいた。

悪人ではない。

会話はうまい。

空気も読む。

ただ、相手の線を一歩だけ越える。

一歩だけだから、こちらが怒ると大げさに見える。

そこで流すと、次はもう一歩来る。

嫌いというより、扱いを間違えると危ない。

「嫌っているかどうかで判断すると、間違えます」

私は言った。

「危ないのは、好き嫌いではなく、距離の詰め方です」

宋江様は、少しだけ目を伏せた。

「そなたは、こういう目に遭ったことがあるのか」

私は答えなかった。

現代の会社。

会議室。

役員の軽い冗談。

会食の席。

容姿への言及。

笑って流した後に近くなる距離。

思い出すほどのことではない。

そう言われれば、それまでの話ばかりだ。

だが、思い出すほどのことではないものが、積もると疲れる。

「宋江様」

「うむ」

「その質問も、今は確認事項に含めません」

宋江様は私を見た。

「そうか」

「はい」

「すまぬ」

「謝罪は受け取ります」

「その後に何か続くのだろう」

「今回は続きません」

宋江様は少し驚いた顔をした。

私は紙に視線を落とした。

続けようと思えば、いくらでも続けられる。

だが、今はそこまでしなくていい。

宋江様は、聞きすぎたと分かった。

なら、それで十分である。

管理にも加減がいる。

私は最後に、確認事項の下へ一文を書いた。

距離感は、誤解の少なさで決める。

少し考えて、横に添える。

褒め言葉も、置き場所を間違えると危険物。

宋江様がそれを見た。

「婆惜」

「はい」

「また危険物が増えたな」

「増えています」

「この家は危険物ばかりだ」

「否定できません」

宋江様は、家の中なので少し笑った。

私はそれを止めなかった。

悪女になる暇がない。

今度は、褒め言葉の置き場所まで管理することになった。

この世界で一番面倒なのは、刀でも書状でもない。

人が、何気なく踏み越えてくる線なのかもしれない。

本件、閻婆惜よりご報告いたします。

本日の確認事項は、以下の通りでございます。

近づきすぎない。

避けすぎない。

褒め言葉は、用件とは分ける。

何もないからこそ、形を整える。

以上でございます。

線を引くことは、相手を嫌うことではございません。

ただ、踏み越えられてから戻すのは大変です。

なお、宋江様の表情管理も、引き続き必要でございます。

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