そういえば、は危険な前置き
閻婆惜でございます。
本日は、報告の時期について確認いたします。
「そういえば」
「大したことではない」
「言うほどでもない」
この三つは、非常に危険な前置きでございます。
軽いと思ったことほど、後から重くなります。
そして、悪気のない報告漏れほど、こちらでは防ぎにくいものです。
どうか皆様も、火がつく前にお知らせくださいませ。
宋江様の役所対応は、七十二点だった。
低いように聞こえるかもしれない。
だが、死亡リスクを考えれば、七十二点はかなり高い。
少なくとも、帰ってきた。
捕まっていない。
晁蓋様の美談も、顔に少し出ただけで済んだ。
少し、で済んだかどうかは怪しいが、本人が言葉にしなかっただけ進歩である。
私は確認事項を書き終え、筆を置いた。
発言も危険物である。
特に宋江様の善意。
ただし、家の中では少し可。
最後の一文は、書かなくてもよかったかもしれない。
だが、書いてしまったものは仕方ない。
記録は慎重に扱うべきだが、たまに自分の手も滑る。
宋江様は、少しほっとした顔をしていた。
七十二点でも、合格と言われれば嬉しいらしい。
よいことである。
ただし、気が緩んだ人間は、たいてい余計なことを思い出す。
「そういえば」
私は止まった。
筆を置いたまま、顔だけを上げる。
「宋江様」
「なんだ」
「今の言葉は、かなり危険です」
「まだ何も言っておらぬ」
「そういえば、から始まる報告は、大抵遅いのです」
宋江様は少し困った顔をした。
「大したことではない」
私は、静かに息を吸った。
出た――
大したことではない。
会社でも何度も聞いた。
大したことではないのですが。
念のためなのですが。
一応、共有だけなのですが。
だいたい、その後に大したことが出てくる。
大したことかどうかは、聞いてから判断するものだ。
言う側が先に軽くしてはいけない。
「宋江様」
「うむ」
「大したことかどうかを判断するのは、報告を受けてからです」
「そういうものか」
「そういうものです」
「では、言うが」
「はい」
「役所で、婆惜の具合も聞かれた」
私は、しばらく黙った。
宋江様も黙った。
外は静かだった。
部屋も静かだった。
だが、私の頭の中では、かなり大きな音がしていた。
私の具合を聞かれた。
つまり、私の名前が出た。
この家だけでなく、役所側にも私は見られている。
まずい……
かなりまずい……
「宋江様」
「うむ」
「それを、なぜ先ほどおっしゃらなかったのですか」
「具合を聞かれただけだ」
「誰が」
「張都監の配下だ」
「どのように」
「奥方はもう起きておられるのか、と」
「それに何と答えましたか」
「まだ病み上がりだ、と」
「それだけですか」
「それだけだ」
私は少しだけ目を閉じた。
ひとまず、余計なことは言っていない。
だが、安心はできない。
病み上がり――
便利な言葉だった。
私も使った。
宋江様も使った。
張文遠様にも使った。
役所の使いにも使った。
便利すぎる言葉は、使いすぎると目立つ。
「宋江様」
「なんだ」
「病み上がり設定を使いすぎました」
「設定?」
「いえ、今のは忘れてください」
危ない。
疲れてくると、本当に現代語が漏れる。
私は紙を引き寄せた。
「今後、私の具合について聞かれた時の回答も決めます」
「そこまで必要か」
「必要です」
「婆惜が倒れたのは事実だろう」
「事実でも、繰り返すと理由を聞かれます」
「理由」
「なぜ倒れたのか。誰がいたのか。いつから具合が悪いのか。今は誰が看ているのか。張文遠様が来た時には起きていたのか。役所の使いが来た時はどうだったのか」
宋江様の顔が、だんだん曇っていった。
分かってきたらしい。
「……面倒だな」
「はい」
「そなたは、毎回このようなことを考えておるのか」
「考えないと死にそうなので」
「また命か」
「今回も命です」
宋江様は反論しなかった。
よい傾向である。
ただし、反論しないから安全というわけではない。
私は紙に書いた。
二十二、そういえば、は危険な前置き。
二十三、大したことではない、は信用しない。
二十四、婆惜の病み上がり設定は使いすぎない。
宋江様が覗き込んだ。
「二十三はひどくないか」
「確認済みです」
「今の一度だけでか」
「一度で十分です」
「厳しい」
「宋江様は、一度で火がつくものをたくさん持っております」
宋江様は、何か言おうとしてやめた。
言わない。
よろしい。
私は続けて書いた。
二十五、婆惜も監視対象に入った可能性あり。
筆を置いた瞬間、宋江様の表情が変わった。
「婆惜」
「はい」
「それは、どういう意味だ」
「そのままです。役所側が私の状態を気にしています」
「そなたを疑っていると?」
「疑っているか、見ているか、利用できると考えているか。いずれにしても、完全な外側ではありません」
宋江様は黙った。
今日の沈黙は重かった。
私は、その沈黙を責める気にはならなかった。
宋江様が私を巻き込んだ。
それは事実である。
だが、本人に巻き込んだ自覚が生まれると、少しだけ空気が変わる。
「すまぬ」
宋江様が言った。
私は、すぐには答えなかった。
謝罪を受け取るべきか。
流すべきか。
今はそれより、次を考えるべきか。
少し迷ってから、私は言った。
「謝罪は受け取ります」
宋江様が私を見る。
「ただし、謝罪だけでは足りません」
「何をすればよい」
「報告を早くしてください」
宋江様は目を瞬かせた。
「それでよいのか」
「それが必要です」
私は、紙を指で押さえた。
「悪気のない報告漏れが一番困ります」
「悪気はなかった」
「存じております」
「ならば」
「悪気がないから厄介なのです」
宋江様は黙った。
私は続けた。
「悪意があるなら警戒できます。隠すつもりなら問い詰められます。ですが、大したことではないと思って後回しにされると、こちらは気づけません」
「……なるほど」
「宋江様が軽いと思ったことほど、早めに言ってください」
「軽いと思ったことほど?」
「はい」
「重いことではなく?」
「重いことは、さすがに言うでしょう」
宋江様は少し考えた。
「そうかもしれぬ」
「軽いことの方が漏れます」
「それは、確かに」
よし、通じた。
私は少しだけ安心した。
「では、今後の報告基準を決めます」
「また基準か」
「はい」
私は新しい欄を作った。
報告基準――
宋江様は、もう題名には文句を言わなかった。
大きな進歩である。
「一つ目。役所で私の名が出た場合」
「報告する」
「二つ目。晁蓋様、張文遠様、張都監様の名が出た場合」
「報告する」
「三つ目。誰かが宋江様の顔色を見た場合」
「それもか」
「はい」
「なぜだ」
「宋江様が顔に出ることは、たぶんもう知られています。問題は、それを利用されることです」
宋江様は顔に手を当て、うずくまった。
「わしの顔は、そこまで重要か」
「重要です」
「顔だけで章が一つ作れそうだな」
「作りたくありません」
「わしもだ」
そこは意見が一致した。
私はさらに書く。
四つ目。
そういえば、と思ったこと。
五つ目。
大したことではない、と思ったこと。
六つ目。
言うほどでもない、と思ったこと。
宋江様が、六を見て眉を寄せた。
「言うほどでもないことまで言うのか」
「はい」
「全部ではないだろう」
「全部です」
「婆惜、日が暮れるぞ」
「命が暮れるよりはましです」
「命が暮れる」
「今のは私も少しおかしいと思いました」
宋江様は、ふっと笑った。
私は見た。
外では不可。
家の中では少し可。
今は家の中なので、止めなかった。
「今のはよいのか」
宋江様が聞いた。
「少し可です」
「そうか」
宋江様は、また少し笑った。
その笑いは、外で見せると危ない。
だが、家の中なら、少しだけ空気が柔らかくなる。
危険物にも置き場所がある。
笑いも同じなのかもしれない。
私は、すぐに考えを戻した。
気を抜くと危ない。
「次は、私の外向きの振る舞いです」
「婆惜の?」
「はい。宋江様だけを管理していても足りません」
「管理と言い切るのだな」
「今さらです」
宋江様は何か言いたげだったが、黙った。
私は紙に書く。
婆惜側対応。
一、病み上がりを理由にしすぎない。
二、役所関係者の前で話しすぎない。
三、宋江様を庇いすぎない。
四、張文遠様を避けすぎない。
五、ただし二人きりにはならない。
六、悪女ではないが、疑われない努力はする。
宋江様が、六を見て少し眉を寄せた。
「まだ悪女のことを気にしておるのか」
「気にします」
「誰も、そなたを悪女などと」
「今は、です」
「またそれか」
「評判は、こちらの意図を待ってくれません」
宋江様は、静かに私を見た。
「そなたは、昨日までのことを気にしておるのか」
私は答えに詰まった。
昨日までの閻婆惜。
私ではない。
けれど、この体は閻婆惜のものだ。
評判も、関係も、金への不満も、夫婦の冷えも、全部この体に付いている。
私は何もしていない。
そう言いたい。
だが、周囲には通じない。
中身が変わったなどと言えるはずもない。
だから、私が引き受けるしかない。
少なくとも、生き残るためには……
「気にしています」
私は正直に言った。
「私は、今の私が何をするかで、これからの評判を変えるしかありません」
宋江様は黙った。
少しだけ、痛そうな顔をした。
「わしにも、責があるのだろうな」
意外な言葉だった。
私は宋江様を見た。
「夫婦仲が冷えていたことについてですか」
「うむ」
「それは、まだ確認中です」
「確認中」
「はい。今のところ、双方に問題があった可能性があります」
「そこまで紙に書くのか」
「必要であれば」
「やめてくれ」
「検討します」
「それは、やめぬ時の言い方だ」
「よく覚えておいでで」
宋江様は少しだけ困ったように笑った。
その笑いも、今は止めなかった。
少しずつ、この人の笑いの種類が分かってきた気がする。
外向きの危険な笑い。
困った時の逃げの笑い。
本当に少しだけ気が緩んだ時の笑い。
全部同じに見えると危ない。
だが、全部止めると息が詰まる。
管理にも加減がいる。
かなり面倒である。
「婆惜」
「はい」
「これから、わしは何を報告すればよい」
「今、決めた通りです」
「全部は、覚えきれぬ」
「では、簡単にします」
私は少し考えた。
「少しでも妙だと思ったことは、帰ったらすぐ話してください」
「妙だと思わなかった場合は?」
「そういえば、と思った時点で話してください」
「そういえば、もか」
「はい」
「それは危険な前置きだったな」
「よく覚えておいでです」
宋江様は、少し得意そうな顔をした。
私は目を細めた。
「ただし、得意そうな顔も外では控えてください」
「顔が忙しすぎる」
「私も忙しいです」
また同じ会話になった。
だが、嫌ではなかった。
私は最後に、確認事項の下へ一文を書いた。
報告は早いほど軽くなる。
少し考えて、横に添える。
そういえば、は重くなる前兆。
宋江様がそれを見た。
「婆惜」
「はい」
「わしは、もう何も言えなくなりそうだ」
「その前に報告してください」
「そういう話か」
「はい」
宋江様は、疲れたように笑った。
家の中なので、少し可である。
私は筆を置いた。
悪女になる暇がない。
今度は、自分の見え方まで管理しなければならなくなった。
水滸伝の世界は、報告漏れひとつで火がつく。
しかも、その火種を持ってくるのは、だいたい悪人ではない。
それが一番困る。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の確認事項は、以下の通りでございます。
「そういえば」
は早めに言う。
「大したことではない」
は信用しない。
軽い報告ほど後回しにしない。
病み上がりは使いすぎない。
以上でございます。
報告は、早いほど軽く済みます。
遅れた報告は、だいたい火種を連れてまいります。
なお、宋江様の顔色についても、引き続き管理対象でございます。




