保護と呼んでいたのは、こちらだけでした
閻婆惜でございます。
本日は、私どもが善意で行ったことについて、相手も同じ名前で呼んでくださるとは限らないというお話でございます。
徐寧様の奥方様とお子様は、官憲に押さえられる前に独龍岡へ移っていただきました。
私どもとしては保護したつもりで、安全な場所を用意し、食事も寝床も整え、危険が迫ればさらに奥へ逃げられるよう手配までしております。
ここまで書けば、たいへん行き届いた対応に見えますね。
問題は、ご本人へ「こちらへ移りますか」と伺っていないことでございます。
行き先も知らせず、事情も十分に説明せず、先に連れ出しました。
書類であれば、承認欄が空白のまま実行された案件など、私は迷わず差し戻します。
ところが、人間相手では、自分で同じことをしておりました。
大変よろしくございません。
官憲に捕らえられてからでは遅かったことも、急いで動く必要があったことも事実です。
ですが、それでご本人の意思まで省いてよいことにはなりません。
そして、そのことを私に突きつけたのは、雨戸の裏へ紙を貼っていた、あの女中でした。
私が声をかけても、彼女は逃げません。
むしろ、奥方様とお子様へ続く廊下を、自分の身体で塞ぎました。
どうやら私は今回、誰かの身元を問いただす前に――
自分が何者に見えているのかを、確認する必要があるようでございます。
見覚えのない女中は、逃げませんでした。
私が廊下へ出ると、その方は一度だけこちらを振り返り、徐寧様の奥方様とお子様がおられる別棟へ続く道を塞ぎました。
指先にはまだ糊が残っております。
雨戸の裏から見つけた紙も、貼られてからそれほど時間が経っておりません。
逃げるどころか、こちらを通さないつもりのようでした。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
女中は答えず、両腕を広げました。
私一人を止めるには、あまり効果的とは思えない構えです。
それでも、その方は退きません。
震えているのに、後ろへ下がろうとはしませんでした。
「奥方様と若様を、お返しください」
その言葉で、私はようやく気づきました。
この方は、私どもから逃げようとしているのではありません。
私どもから、奥方様と若様を守ろうとしているのです。
「あなた様は、徐寧様のお屋敷にお仕えしていた方ですね?」
「それを知って、何をなさるおつもりですか?」
「まず、お話を伺います」
「話なら、奥方様を東京へお返しになってからです」
そこで、廊下の角から白秀英様が顔を出しました。
「え、その人、奥さんと一緒に来た人だよ」
私は白秀英様を見ます。
「ご存じだったのですか?」
「知ってるけど、ずっと子供についてたから……先輩とは会ってなくない?」
「確かに、私は先ほど到着したばかりです」
見覚えがないことと、この屋敷の者ではないことを、私は勝手に同じ意味へ変えておりました。
私は雨戸から剥がした紙を女中へ見せます。
「こちらを書かれましたか?」
「……はい」
「門前の方々へ、ご家族の居場所を知らせたのも?」
「私です」
白秀英様が、今度は私より先に反応しました。
「マジで?」
「奥方様と若様を助けていただくためです」
女中は、私から目を逸らしませんでした。
東京を出てから、同じ一行が何度か後ろを通ることには気づいていたそうです。
独龍岡へ入った翌日、塀の外から声をかけられ、開封府から徐寧様の奥方様とお子様を捜していると告げられました。
徐寧様の名を知っており、東京のお屋敷の場所も、家伝の宝甲がなくなったことも知っていた。
外へ出ることができないのであれば、雨戸の裏へ居場所を書いた紙を貼ってほしい。
そう言われ、女中は信じました。
「今日、あの方々が来た時、ようやく助かったと思いました」
「ですが、あの方々はご自分の身分を十分に示せませんでした」
「こちらの方々も、何者なのか分かりません」
返す言葉がございませんでした。
私どもは、官憲に捕らえられる前に奥方様とお子様を保護したつもりでした。
けれど、その前にご本人へ事情を説明したわけではありません。
行き先を選んでいただいたわけでも、ここへ来たいかと尋ねたわけでもございません。
東京のお屋敷から連れ出し、知らない土地へ運び、勝手に安全だと判断しました。
それを保護と呼んでいたのは、連れ去った側だけです。
「先輩」
白秀英様が、たいへん言いにくそうな顔をしました。
「今回、外から見たら完全に悪い人だよ」
「承知いたしました」
「否定しないんだ……」
「できませんので……」
女中まで怪訝そうな顔をしております。
いま問題なのは、私の印象ではございません。
私は紙を畳み、女中へ向き直りました。
「奥方様にお会いさせてください。今度は、ご本人へすべてご説明いたします」
「また言いくるめるおつもりでは?」
「そのように見えることも、承知しております」
少なくとも、もう保護という言葉だけで先へ進むわけにはまいりません。
別棟へ入ると、奥方様はお子様を抱いておられました。
私が部屋へ入った瞬間、先ほどの女中がすぐ隣へ座ります。
今度は止めませんでした。
白秀英様にも同席していただきます。こちらは最初から椅子へ座ってくださったので、その点だけは大変助かりました。
私は奥方様の前へ進み、床へ手をつきました。
「まず、お詫び申し上げます。ご承諾を得ず東京からお連れしたことは、保護ではなく、連れ去りでございました」
奥方様は、しばらく私を見ておられました。
怒鳴られる覚悟はしておりました。
けれど、返ってきたのは静かな問いでした。
「なぜ、最初にお話しくださらなかったのですか?」
「官憲より先に動くことを優先したためです」
「急いでいたから、私たちの考えは聞かなくてもよいと?」
「いいえ」
そこだけは、言い訳をしてはいけません。
時間がなかったことは事実です。
しかし、ご本人の意思を省いてよい理由にはなりません。
稟議書であれば、承認欄が空白のまま実行した案件でございます。
通常なら差し戻されますし、場合によっては始末書まで必要でしょう。
ですが、人の人生は書類ではありません。
間違えたからといって、元の机へ戻して終わりにはできないのです。
「申し開きはございません。私どもが間違えました」
奥方様は、腕の中のお子様へ目を落としました。
「主人は、生きているのですか?」
「はい、家伝の宝甲も、ご本人へお返ししました」
「では、どうして主人は私たちを迎えに来ないのです?」
私は、青州の状況から説明しました。
呼延灼という将が連環馬を率い、桃花山をはじめとする山寨を攻めていること。
その騎馬隊を破るためには鉤鎌鎗が必要であり、それを扱える徐寧様のお力を借りたいこと。
時遷様が賽唐猊を盗んだことも、その宝甲を追わせて徐寧様を梁山泊までお連れしたことも隠しませんでした。
説明すればするほど、こちらの印象が悪くなっていきます。
攻略本では、宝甲を盗まれた徐寧様がそれを追い、罠にはまった末に鉤鎌鎗を教え、そのまま梁山泊へ加わるという流れでございました。
読む側にいた頃は、それで十分だったのです。
実際にその数行の中へ入ってみれば、妻子を突然連れ出された方がおり、夫の生死も分からないまま知らない土地へ運ばれた方がおり、その方々を守ろうとして外へ助けを求めた女中までおります。
攻略本には、そこまで書いてございませんでした。
奥方様は私の話を最後まで聞いてから、尋ねます。
「主人は、自分の意思で、そちらに残ると決めたのですか?」
「まだ、そこまでは申し上げられません。私どもを許してもおられません」
白秀英様が横から口を挟みました。
「でも、めっちゃ怒りながら兵の人数聞いて、そのままずっと槍教えてる」
「白秀英様」
「だってホントじゃん」
「はい、本当です」
奥方様が、そこで初めてわずかに笑いました。
「あの人らしいですね」
その一言で、張りつめていたものが少しだけ緩みました。
私は、東京へ戻ることを望まれるなら、護衛も旅費もこちらで用意すると伝えました。
ここへ残る場合も、それを理由に徐寧様へ戦への助力を迫ることはいたしません。
ご家族との再会は、取引の材料にしない。
それだけは、徐寧様へ申し上げた時と同じです。
「私どもを信用なさらなくても構いません」
「信用せずに、ここへ残れと?」
「いいえ……信用できないと判断されたなら、お戻りください。そのための人と馬はこちらでご用意します」
ただし、東京へ戻れば官憲から事情を聞かれる可能性が高く、その身柄を使って徐寧様へ帰還を求める者が出るかもしれないことも、隠さず申し上げました。
奥方様は、お子様を抱いたまま考えておられました。
やがて、静かに口を開きます。
「私たちが戻れば、主人を呼び戻すために使われますね」
「その恐れはございます」
「でしたら、戻りません」
女中が奥方様を見ました。
「奥方様……」
「あなたが外へ知らせてくれたことは、間違いではありません。私たちを守ろうとしてくれたのでしょう?」
「ですが、あの者たちは偽物だったかもしれません」
「それでも、何もしないよりよいと思ったのでしょう?」
女中は、ようやく顔を伏せました。
私は、その方を処罰しないと伝えました。
この方は敵へ金で情報を売ったわけではありません。
お仕えするご家族を守ろうとして、自分にできることをしただけです。
「次に外の方へ文を渡される際は、先に私どもへご相談くださいませ」
「先輩がそれ言うと、説得力どっか行くんだけど……」
「私も、いま申し上げながら思いました」
白秀英様の指摘は正確でした。
奥方様は、紙と筆を求めました。
長い文ではありません。
『私は、自分の意思でここにおります。子も無事です。なすべきことを終えてから、お戻りください』
書き終えると、その文を私へ差し出します。
「主人へ渡してください」
「必ず」
「それから、主人にお伝えください。勝手に宝甲を盗ませた方を、私はまだ許しておりません」
「そちらも、一字も曲げずにお伝えいたします」
私へのお言葉ではないように聞こえましたが、関係者として受け取っておきます。
部屋を出たところで、李応様から知らせが届きました。
門前にいた六人は、そのまま当地の役所へ向かったそうです。
そこで身分を確認したところ、開封府から来たこと自体は本当だったようでございます。
ただし、こちらへ来る前に当地の役人を通していなかったことも事実でした。
「本物だったんだ」
白秀英様が言いました。
「本物であることと、勝手に屋敷へ入ってよいことは別でございます」
「先輩、そこだけは絶対折れないね」
「手続きでございますので」
梁山泊へ戻った頃には、空が赤くなり始めていました。
訓練場では、徐寧様が二十名の兵を相手に鉤鎌鎗を教えておられます。
朝に比べれば動きは揃ってきましたが、連環馬へぶつけられる完成度には、まだ遠いのでしょう。
私が奥方様からの文を差し出すと、徐寧様はその場で開きました。
徐寧様は一度読み終えたあと、もう一度文を開きました。
二度目は、最初よりもゆっくり文字を追っておられます。
「妻は、自分で残ると言ったのか?」
「はい、東京へ戻る道もお示ししたうえで、独龍岡に残ることを選ばれました」
「付き従っていた女中は?」
「処罰しておりません。奥方様を守るために動いた方です」
「そうか」
徐寧様は文を折り、鎧の内側へ収めました。
「お前たちを許したわけではない」
「承知しております」
「だが、妻子を官憲へ渡さなかったことには礼を言う」
「そちらは、奥方様ご自身がお決めになった結果でございます」
徐寧様は、わずかに眉を寄せました。
「面倒な女だな」
「よく言われます」
それから三日、徐寧様は休みませんでした。
最初の二十名に鉤鎌鎗の扱いを叩き込み、その者たちを使って次の兵へ教えさせます。
全員を達人にする必要はありません。
連環馬の脚へ鎌を掛け、騎馬を崩し、後ろの兵が倒れた騎兵を仕留める。
その役目を果たせるところまで、ひたすら同じ動きを繰り返しました。
そして三日目の朝、徐寧様は鉤鎌鎗隊を率いて青州へ向かいました。
奥方様の文は、鎧の内側に入ったままです。
私は寨門で、その背中が見えなくなるまで見送りました。
これで、独龍岡の件は終わりました。
保護したつもりで連れ去り、助けたつもりで疑われ、最後にようやく、ご本人の意思を確認できました。
次からは、もう少し早い段階で承認をいただきたいと思います。
人間にも、承認欄は必要でございます。
そう考えながら帳場へ戻ろうとした時、青州方面から一騎の早馬が入ってきました。
乗り手は宋江様からの文を持っております。
桃花山には先発隊が入り、呼延灼も連環馬を山の前へ進めた。
決戦は、まだ始まっておりません。
文の最後には、一行だけございました。
『鉤鎌鎗隊を急がせよ』
私は、徐寧様たちが消えた道を振り返りました。
「もう、出ました」
今度は――
書類より先に、間に合うはずでございます。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
門前へ来られた方々は、開封府から派遣された本物のお役人でした。
本物でも、手続きを飛ばしてよいことにはなりません。
そこは訂正いたしません。
雨戸の裏へ文を貼っていた女中も、処罰しておりません。
奥方様とお子様を守るために動いた方でございます。
奥方様は、ご自身の意思で独龍岡に残ることを選び、徐寧様へ文を書かれました。
その文を受け取った徐寧様は、私どもを許さないまま、鉤鎌鎗隊を仕上げて青州へ向かわれました。
そして、その直後に宋江様から届いた文には――
『鉤鎌鎗隊を急がせよ』
とございました。
今回は、返事を書く必要がありません。
――もう、出ております。




