書類は後から追いかけます
閻婆惜でございます。
本日は、稟議書を待たずに軍を動かします。
私が書類を諦めたわけではございません。
桃花山が落ちてから承認をいただいても、救援費が弔慰金へ変わるだけです。
用途まで変わってしまえば、書類を作り直さなければなりません。
二度手間は避けるべきでしょう。
幸い、連環馬を破れる方も、間もなく梁山泊へ到着なさいます。
ただし、その方は家伝の宝甲を盗まれ、従弟を信じて山道を進み、着いた先で賊に囲まれる予定です。
歓迎の準備としては、かなり失敗しておりますね。
さらに、ご家族は官憲に捕らえられる前に、独龍岡へ移っていただきました。
保護でございます。
ご本人の承諾を得ていない点を除けば、完璧な保護でございます。
宝を盗んだことは謝ります。
ご家族とも必ず会わせます。
そのうえで、鉤鎌鎗を教えてくださいませとお願いしなければなりません。
順序を間違えれば脅迫です。
正しい順序で説明しても、かなり脅迫に近く見えます。
それでも桃花山は、私どもの事情が整うまで待ってはくださいません。
今回は人を先に走らせ、稟議書には後から追いかけていただきます。
もっとも、梁山泊を追いかけてくるものが、書類だけならよかったのですが――
「桃花山です」
広間の空気が、さらに重くなりました。
白虎山はすでに落ち、孔明様は青州へ連れていかれております。
梁山泊の討伐に失敗した呼延灼様は、東京へ戻らず、青州へ向かわれました。
敗軍の将として朝廷へ帰れば、どのような処分を受けるか分かりません。
そこで青州の慕容知府様を頼り、周辺の山寨を討って、敗戦で失った面目を取り戻そうとなさっているのでしょう。
その最初の犠牲が白虎山でした。
そして次に狙われているのが、桃花山です。
ここまで来れば、二龍山も無関係ではいられません。
潘巧雲様の文には、助けてほしいとは書かれておりません。
二龍山とは、すでに同盟を結んでおります。
正式な文で青州の危急を知らせてきた以上、救援するかどうかを相談する必要はございません。
誰を送り、どの道を通り、いつ二龍山と合流するかを決めるだけです。
宋江様は文を読み終える前に立ち上がっておられました。
「青州へ兵を出す」
晁蓋殿も異を唱えません。
呉用様が地図を広げ、林冲様を呼ぶよう命じます。
軍議というより、発進準備でございます。
「先発は騎馬を中心にします。桃花山までの道を急がせ、歩兵と兵糧は後続へ。二龍山には、こちらの出発と合流地点をすぐに返してくださいませ」
私は潘巧雲様の文を裏返し、余白へ返書を書き始めました。
文を受け取ったことと、直ちに救援軍を出すことを記し、桃花山の南西での合流を提案します。
負傷者を二龍山で受け入れられるかも、先に確認しておかなければなりません。
急いでいても、伝えるべき内容まで削ってはいけません。
慌てた文は、受け取った側にも、慌てる以外の仕事を与えないからです。
「稟議はどうする?」
呉用様が地図から顔を上げずに尋ねました。
「事後処理といたします」
羽扇が止まりました。
宋江様まで私をご覧になります。
「そなたが、それを申すのか?」
「承認を待っている間に桃花山が落ちれば、救援費ではなく弔慰金を計上することになります」
誰も反対なさいませんでした。
今回の稟議書には、軍を止めるのではなく、後から追いかけてもらいます。
その時、聚義庁の外が騒がしくなりました。
「湯隆殿が戻られました!」
続いて、もう一人いるとの声が聞こえます。
私は筆を置きました。
時遷様と湯隆様を東京へ送り出してから、ひと月――
二龍山から青州の危急を知らせる文が届いた日に、もう一つの案件も梁山泊へ到着したようです。
扉が開き、最初に湯隆様が入ってきました。
ひどく疲れたお顔です。
その後ろには、旅塵にまみれた武官が立っておられました。
鎧は着けておらず、長旅のため衣も汚れておりますが、立ち姿に隙はありません。
そして、とても怒っておられました。
当然でしょう。
家伝の宝甲を盗まれ、それを追ううちに、従弟から梁山泊へ案内されたのでございます。
「こちらが従兄の徐寧だ」
湯隆様は、私から少し目を逸らしながら紹介しました。
徐寧様は広間を見回し、床几の上に置かれた潘巧雲様の文にも、青州の地図にも目を留めません。
最初に私へ向けられた言葉は、挨拶ではございませんでした。
「賽唐猊はどこだ?」
大切な品ですから、正しい順序でしょう。
「傷を付けず、お預かりしております」
「返してもらおう」
「もちろん、お返しいたします」
私は用意していた包みを運ばせました。
布を開くと、家伝の宝甲が姿を現します。
徐寧様はすぐに近づき、留め具から裏地まで確かめました。
時遷様には、ほかの物へ手を出さず、賽唐猊にも傷を付けないよう念を押しております。
盗むことには承認が下りましたが、壊す許可までは申請しておりません。
「なぜ、これを盗んだ?」
徐寧様が顔を上げました。
「あなた様に来ていただくためでございます」
「私を賊に落とすためか?」
「梁山泊の兵を、連環馬から救っていただくためです」
湯隆様が、居心地悪そうに目を伏せました。
徐寧様は青州の地図へ一度だけ目を向けます。
「呼延灼か?」
「はい。梁山泊を離れた後、青州の慕容知府様のもとへ身を寄せ、白虎山を落としました。次に狙われているのが桃花山です」
「それで、私に鉤鎌鎗を教えろと?」
「お願いいたします」
「断ればどうする?」
ここで、ご家族を持ち出してはいけません。
先に安全を確保したのは、徐寧様を従わせるためではないからです。
「その前に、お伝えすべきことがございます」
徐寧様の目が細くなりました。
「ご家族は、すでに東京にはおられません」
広間の全員が動きを止めました。
湯隆様まで私を見ています。
「何だと?」
「徐寧様が姿を消した後、開封府が最初に押さえるのは奥方様とお子様です。その前に東京からお連れしました」
徐寧様が一歩、私へ近づかれました。
「どこにいる?」
「独龍岡でございます。李応様のお屋敷で、客人としてお預かりしております」
「人質にしたのか?」
「いいえ」
私は首を振りました。
「人質として使うのであれば、本寨へ入れております。独龍岡は、表向きには梁山泊の支配地ではございません。ご家族は李応様の保護を受ける客人であり、行動を縛ってもおりません」
徐寧様は私を見たまま、何もおっしゃいません。
私は懐から、もう一通の文を出しました。
独龍岡から届いたものです。
表には徐寧様のお名前があり、封は閉じたままになっております。
「奥方様からでございます」
徐寧様は奪うように受け取り、封を開きました。
文面を読む間、聚義庁では誰も口を挟みませんでした。
奥方様の文には、親子ともに無事に独龍岡へ着き、李応様の屋敷で丁重に扱われていると記されております。
身重の白秀英様が自ら出迎えたため、少なくとも今すぐ殺される場所ではないと思った、とも添えられていました。
最後の一文だけは、奥方様なりの冗談だったのかもしれません。
白秀英様から届いた別便には、
『奥さん、最初めっちゃ警戒してたけど、子供もちゃんとご飯食べてるし大丈夫。てか、妊婦を人質係に置く組織なくない?』
と書かれておりました。
説得力の方向はともかく、少しは安心していただけたようです。
徐寧様は文を読み終えると、強く息を吐きました。
「無事なのだな?」
「はい」
「会わせろ」
「青州三山の救援が終わりましたら、必ずお会わせいたします」
徐寧様のお顔に、怒りが戻ります。
「それを条件に、戦えと言うのか?」
「条件ではございません」
私は正面から答えました。
「戦の結果にかかわらず、ご家族とは必ずお会わせします。ご家族との再会を、助力の条件にはいたしません」
「では、なぜ今すぐ独龍岡へ行かせぬ?」
「二龍山から正式な文が届き、桃花山もすでに狙われております。救援軍を送り出す時間が、もう残されていないからです」
勝手な話でございます。
徐寧様の宝を盗み、ご家族を移し、ご本人が到着した途端に、別の山を救ってほしいと頼んでおります。
ですが、勝手であることと、必要であることは両立してしまいます。
「私どもがあなた様の暮らしを壊したことは、否定いたしません。その責任からも逃げません」
私は頭を下げました。
「そのうえで、お願いいたします。連環馬を破るため、今回は梁山泊へお力をお貸しくださいませ」
長い沈黙が落ちました。
やがて徐寧様は、手にしていた妻の文を丁寧に畳み、懐へ入れます。
「兵は、どれほどいる?」
宋江様が答えるより早く、私は選抜予定の人数を伝えました。
「鉤鎌鎗を扱う候補は、すでに百名を選んでおります。ただし、武器はまだ試作の段階です」
「百では多い。初めから全員へ教えれば、誰も使えるようにならぬ」
徐寧様は地図の前へ進みました。
「まず二十名を寄越せ。馬を恐れず、命令を守れる者を選べ。そいつらに覚えさせ、残りへ教えさせる」
「承知いたしました」
「武器を見せろ」
湯隆様が、ようやく息を吐きました。
宋江様のお顔にも安堵が浮かびます。
徐寧様は、許したとは一言もおっしゃいませんでした。
それでも、仕事は引き受けてくださいました。
そこから梁山泊は、本当に慌ただしくなりました。
鍛冶場では湯隆様の指示で鉤鎌鎗を作り、徐寧様は訓練場で二十名をしごきます。
林冲様は先発隊を整え、扈三娘様と玉楼様も青州行きの支度へ入りました。
潘巧雲様への返書は、戴宗様に託します。
先発隊は翌朝に出し、徐寧様と鉤鎌鎗隊は準備が整い次第、後を追わせることになりました。
私は青州へ行きません。
梁山泊には、高唐州から戻った負傷者がまだ残り、青州へ送る兵糧も絶えず用意しなければなりません。
独龍岡との連絡を保ち、出兵後に必要となる人員を送り出す仕事も、こちらに残っています。
戦場へ行かないからといって、戦から外れるわけではないのです。
夜が明ける前、先発隊が寨門へ並びました。
宋江様、林冲様、扈三娘様、玉楼様が、馬上で出発を待っています。
徐寧様は訓練場に残り、鉤鎌鎗を握る兵の足元を何度も直しておられました。
「間に合いますか?」
私が尋ねると、徐寧様は兵から目を離しません。
「間に合わせるのだろう?」
そのお答えは、私がよく使うものと似ておりました。
寨門が開きます。
先発隊が青州へ向けて走り出しました。
その背中が見えなくなるより早く、独龍岡から新しい文が届きます。
差出人は白秀英様でした。
封を開いた私は、最初の一行で手を止めました。
『先輩、徐寧さんの奥さんたちは無事。でも、独龍岡の外に、開封府の役人っぽい人たち来てる』
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
徐寧様には、賽唐猊を無傷でお返ししました。
奥方様からの文も、ご本人の手へ渡しております。
これで機嫌が直ったかと申しますと、そのようなことはございません。
宝甲を盗まれ、ご家族を勝手に移され、到着した山寨で戦への協力を求められたのですから、笑顔になられる方が心配です。
それでも徐寧様は、私どもを許すより先に、鉤鎌鎗を教える兵の人数を尋ねられました。
怒っていることと、目の前の仕事を放置しないことは、別の問題なのでしょう。
大変、仕事のできる方でございます。
おそらく私は、今後もしばらく嫌われます。
業務に支障がなければ問題ございません。
先発隊は青州へ向かい、徐寧様は鉤鎌鎗隊を整えて後を追います。
私は梁山泊へ残りました。
高唐州から戻った方々の治療も終わっておらず、前線へ送る兵糧も必要です。
独龍岡には徐寧様のご家族がおられますので、そちらとの連絡も絶やせません。
その判断は、間違っていなかったようです。
先発隊を見送った直後、白秀英様から文が届きました。
独龍岡の外に、開封府の役人らしき方々が来ているそうです。
「役人っぽい」という表現は少々曖昧ですが、白秀英様が正式な官服と不審者を見間違えるとも思えません。
徐寧様のご家族を追ってきたのであれば、お引き取りいただく必要がございます。
独龍岡そのものを調べに来たのであれば、さらに丁寧な対応が必要でしょう。
まずは、ご所属とご用件を確認いたします。
正規のお役人であれば、当然、正式な文書をお持ちのはずです。
お持ちでなければ――
独龍岡へ近づいているのは、官憲ではなく、官憲を名乗る別の何かでございます。




