砲声が鳴る前に
閻婆惜でございます。
敵の正体さえ掴んでいれば、安心できると思っておりましたが――
誤りでした。
次に来るのが呼延灼様であることも、その方が連環馬を率いてくることも、私は知っております。
破るためには徐寧様と鉤鎌鎗が必要であり、徐寧様を動かすには家伝の宝甲を盗まなければならないことまで、承知しておりました。
ここまで把握しているのですから、あとは順番に処理すればよいはずです。
稟議書を作り、承認を受け、時遷様を東京へ送り、徐寧様をお招きし、鉤鎌鎗を揃えて兵を訓練する。
多少、窃盗と拉致が含まれておりますが、梁山泊の案件としては比較的よく整理されている部類でしょう。
問題は一つだけです。
呼延灼様が、いつ到着なさるのか読めません。
攻略本には敵将の能力も加入条件も記されていたのに、出陣予定日も到着時刻も載っておりませんでした。
これでは予定表として役に立ちません。
高唐州から帰ったばかりです。
負傷者は治療中で、武具の補充も終わっておらず、柴進様もまだ寝台の上におられます。
せめて十日ほど、朝廷には落ち着いて決裁していただきたいところでした。
大軍を動かすのですから、将を推挙して勅命を下し、兵と兵糧を整えるまでには、それなりの日数を要するはずです。
どうか一度くらい、官僚組織らしく処理を遅らせてくださいませ。
そのように願いながら、私は時遷様を東京へ送り出しました。
出発は朝でした。
呼延灼様が到着したのは、その日の昼でございます。
朝廷は、今回に限って大変よい仕事をなさいましたね……
呼延灼様の双鞭が振り下ろされた瞬間、地面が動きました。
比喩ではございません。
鎖でつながれた馬の列が一斉に走り出し、揃った蹄が土を叩くたび、本陣の足元まで震えます。
黒い鎧に覆われた馬と騎手が横へ連なり、その後ろから同じ形の列が続いていました。
攻略本では、連環馬という文字と対処法だけを覚えております。
実物がこれほど大きく、速く、そして嫌な音を立てるとは書かれていませんでした。
林冲様の号令で前列が下がり始めます。
しかし、全員が間に合ったわけではありません。
歩兵が槍を揃え、先頭の馬へ穂先を向けました。
槍は馬を覆う鉄へ当たり、弾かれます。
次の瞬間には兵ごと押し倒され、その後ろにいた者まで巻き込まれました。
一列が崩れると、避けようとした兵が左右へ散ります。
そこへ後続の連環馬が入り込み、空いた場所をさらに押し広げました。
「中央を下げろ! 受け止めようとするな!」
林冲様の命が戦場を走ります。
秦明様の騎馬隊が、崩れかけた中央へ寄りました。
連環馬へ正面からぶつかるためではありません。
逃げ遅れた兵を拾い、追撃との間へ入るためです。
宋江様も旗手へ命じます。
「退きの旗を出せ!」
勝ち負けを決める前に、生きて戻さなければなりません。
私は右手へ目を向けました。
扈三娘様と玉楼様は、すでに馬首を返しておられます。
彭玘様を捕らえた直後です。
本来なら、そのまま前へ出て戦果を広げたいところでしょう。
それでも扈三娘様は踏みとどまらず、押されてきた兵を後ろへ流し始めました。
玉楼様が槍を横へ向け、詰まりかけた場所を開かせます。
「散るな! 道を空けて下がれ!」
兵が左右へ分かれ、その間を負傷者が抜けていきました。
扈三娘様は追ってくる連環馬から目を離さず、距離を保ちながら退いています。
向かっているのは、梁山湖です。
宋江様も気づかれました。
「水際へ誘うのか?」
「そのために、李俊様を置いております」
「いつ決めた?」
「呼延灼様への備えを始めた時でございます」
処刑場で李俊様を扈三娘様のお近くへ移した後、私は水辺で連環馬を止められないか相談しておりました。
あの時点では、お二人が互いの名前も確かめないまま戦場で連携なさるとは思っておりませんでした。
ですが、能力と持ち場の相性は確認しています。
人間関係は予測できなくても、人員配置は先にできます。
前世でも、仲のよい者同士を並べれば仕事が進むとは限りませんでした。
片方が困った時に、もう片方がその問題を処理できる。
必要なのは、そのような組み合わせです。
扈三娘様は陸で兵をまとめられ、李俊様は水辺で敵を沈められます。
今回は、大変分かりやすい配置でした。
水際へ近づいた扈三娘様の隊が、左右へ大きく割れます。
連環馬は速度を落としません。
平地では止められず、目の前では敵が逃げているのですから、追わない理由はなかったのでしょう。
先頭の馬が浅瀬へ入りました。
一歩目は進みます。
次の一歩で、前脚が深く沈みました。
隣の馬が鎖に引かれ、身体を傾けます。
立て直そうとしても、反対側の馬が止まりません。
鎖が張り、三頭目まで体勢を崩しました。
後ろから来た列が、倒れた馬へぶつかります。
黒い壁が、端から折れました。
馬の嘶きと兵の叫びが重なり、水が高く跳ねます。
鉄でつながれているため、沈んだ一頭だけを切り離すことができません。
平地では馬を横へ逃がさなかった鎖が、水の中では全員を引きずる重りになっております。
湖畔の葦から舟が出ました。
李俊様の水軍です。
鉤縄が飛び、沈みかけた騎手を引き寄せます。
助けるためだけではございません。
岸へ上げたところで武器を奪い、抵抗できないよう縛っていきました。
その中に、韓滔様の旗が見えます。
韓滔様は馬を立て直そうとなさいましたが、隣の馬が沈み、鎖に引かれて横倒しになりました。
水軍の兵が舟を寄せ、何人もがかりで韓滔様を引き上げます。
扈三娘様たちは退いてきた兵をまとめ直し、弓隊を岸へ寄らなかった連環馬へ向けました。
呼延灼様も異変に気づかれたのでしょう。
敵陣で銅鑼が鳴り、後続の列が止まります。
水へ入った一隊は崩しました。
けれど、連環馬を破ったわけではありません。
同じ場所へ、もう一度誘い込めるとは思えませんでした。
呼延灼様は正面から押し切る方ですが、一度失敗した場所へ兵を捨て続けるほど愚かな方ではございません。
「北岸に敵の一隊!」
見張りの声が上がりました。
「大きな荷車を運んでおります!」
呉用様が私を振り返ります。
「まさか、まだ何かあるのか?」
ございます。
大変申し上げにくいのですが、呼延灼様の討伐軍は、連環馬だけでも十分に厄介なのに、遠くから梁山泊を攻撃する手段まで用意しております。
「轟天雷と呼ばれる凌振様でしょう」
「知っていたのか?」
「名前と得意分野だけは」
攻略本には載っていました。
ただし、凌振様がどの道から来て、どこへ火砲を据えるのかまでは分かりません。
そのため、呼延灼様について聞き取りを行った日の夕方、私は林冲様と花栄様へ別の質問をしております。
「東京禁軍に、火砲の扱いで名を知られた方はいらっしゃいますか?」
林冲様は、すぐに凌振様の名を挙げました。
花栄様によれば、火砲は弓より遠くへ届く一方、運ぶにも据えるにも時間がかかります。
重い砲身と火薬を抱えたままでは、足場の悪い場所を避けるはずだとも教えてくださいました。
梁山泊を遠くから狙うのであれば、見通しのよい岸へ近づく必要があります。
水際へ来るのであれば、水軍の担当です。
私は李俊様へ相談しました。
「連環馬を沈める場所とは別に、重い荷車を運ぶ一隊が現れるかもしれません」
「何を積んでいる?」
「撃たれると困る物でございます」
「撃たせなければいいのか?」
「話が早くて助かります」
李俊様は湖畔の道を確かめ、童威様と童猛様を別働として置きました。
凌振様が現れなければ、空振りです。
現れた場合は火砲を据える前に荷車を止め、火薬を水へ落とし、ご本人を生きたまま捕らえる。
私がお願いしたのは、それだけでした。
「なぜ、軍議で申さなかった?」
呉用様が尋ねます。
「呼延灼様のお名前を申し上げた時点で、皆様のお顔が止まりました。連環馬の説明でもう一度止まられましたので、議題を分けました」
晁蓋殿がこちらをご覧になりました。
宋江様は何もおっしゃいません。
決して、皆様の処理能力を疑ったのではございません。
驚くべき案件を一度に提出すると、どちらの説明も頭へ入りにくくなると判断しただけです。
北岸の向こうで、鳥が一斉に飛び立ちました。
兵たちの身体が固くなります。
ここで砲声が鳴れば、童威様たちが間に合わなかったということです。
私は耳を澄ませました。
戦場が静かなわけではありません。
負傷者の声も、馬の嘶きも、鎖を引きずる音も続いております。
それでも、腹へ響く轟音だけは聞こえません。
やがて北岸から、小舟が一艘こちらへ向かってきました。
舳先に立つ兵が、濡れた旗を振っています。
「童威殿、童猛殿より報告!」
舟が岸へ着く前から、声が届きました。
「敵将・凌振を捕らえました! 火砲も火薬も、すべて押さえております!」
宋江様が大きく息を吐かれます。
私も、ようやく肩の力を抜きました。
砲声は鳴りませんでした。
凌振様は二門の火砲を古い舟着き場へ運び込もうとし、荷車の車輪が湿った土へ取られたところを囲まれたそうです。
護衛は水路から現れた舟に驚き、砲を守るため岸へ寄りました。
そこへ童猛様が回り込み、童威様が火薬を湖へ投げ入れます。
火の付いていない火砲は、非常に重い筒でした。
凌振様は最後まで抵抗なさったそうですが、砲身を抱えて泳ぐことはできません。
無事に捕縛されました。
「連環馬を水へ入れ、火砲まで奪ったか」
晁蓋殿のお顔が明るくなります。
ですが、林冲様は敵陣を見たままでした。
「呼延灼は、これで退く男ではない」
私も同じ意見です。
水へ入った連環馬は、全体の一部にすぎません。
凌振様を失っても、黒い騎馬の列はまだ平地に残っています。
こちらには、あれを正面から止める武器がございません。
一方の呼延灼様も、水際へ追い込まずに梁山泊を崩す決め手を失いました。
日が傾くまで両軍は動かず、呼延灼様は残った兵をまとめて陣へ戻されます。
梁山泊側も追いません。
負傷者を運び、沈んだ馬から鎖を外し、捕らえた兵を分けて収容するだけで夜になりました。
勝ったとは申せません。
負けずに済んだだけです。
その夜、聚義庁へ彭玘様と韓滔様が連れてこられました。
彭玘様はすでに縄を解かれていましたが、韓滔様は水から引き上げられた時のまま、両手を縛られています。
宋江様は席を下り、ご自分で縄を解かれました。
「二人とも、命を惜しむことを恥じる必要はない。呼延灼殿へ忠義を尽くしたことは、我らも見ていた」
韓滔様は黙って宋江様を見ます。
先に口を開いたのは彭玘様でした。
「俺は、この山の女将軍に負けた。命まで取られなかった以上、今さら強がる気はない」
扈三娘様は、その場におられません。
負傷した兵の様子を見に行かれたそうです。
ご自分が捕らえた方の帰順より、兵の手当てを優先なさったのでしょう。
彭玘様と韓滔様は、やがて揃って頭を下げました。
これで二名の将を得ました。
凌振様については、別室で火薬を水へ捨てられたことに怒っておられます。
そちらは、落ち着いてからお話しいたします。
翌朝、敵陣から煙が上がりました。
炊事の煙ではございません。
天幕と残した荷を焼き、移動の跡を隠す煙です。
呼延灼様の軍旗は、すでに見えなくなっていました。
「逃げたのか?」
宋江様の問いに、斥候は首を振ります。
「西へは向かっておりません。官道を東へ進み、青州方面へ入ったようです」
呼延灼様は朝廷へ戻られたのではありません。
失った兵と馬を、別の場所で補うつもりなのでしょう。
それからひと月後、土と血で汚れた男が、二龍山からの文を携えて聚義庁へ入りました。
見覚えのない方です。
男は宋江様の前へ膝をつきました。
「白虎山の孔亮と申します」
宋江様が席を立ちます。
「白虎山の者が、なぜ二龍山の文を持っている?」
孔亮様は、胸元から折り畳まれた文を取り出しました。
「白虎山は落ちました。兄の孔明は生け捕りとなり、青州へ連れていかれております」
聚義庁が静まり返ります。
孔亮様は私へ文を差し出しました。
二龍山の名が記され、その下には潘巧雲様の筆跡がございます。
文には、白虎山の陥落と孔明様の捕縛、そして呼延灼様が青州に留まり、周辺の山々へ兵を向けていることが簡潔に記されていました。
助けてほしいとは、どこにも書かれておりません。
こちらが動かなければ、次に何が起きるのかだけを分からせる文でございます。
宋江様が孔亮様へ尋ねました。
「呼延灼は、次にどこを狙っている?」
孔亮様が顔を上げます。
その答えを聞く前に、攻略本の次のページが頭の中で開きました。
「桃花山です」
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
連環馬との初戦では、彭玘様と韓滔様をお迎えし、凌振様と二門の火砲も確保いたしました。
数字だけを見れば、悪くない成果です。
ただし、凌振様は火薬を湖へ捨てられたことに、今も大変お怒りでございます。
お気持ちは理解できます。
職人の方へ「あなたの道具は危険なので、使用前に水へ入れました」と説明して、喜んでいただけるとは思っておりません。
落ち着かれるまでは、火のない部屋でお話を伺う予定です。
一方、扈三娘様と李俊様の配置は、想定以上にうまく働きました。
扈三娘様が兵を率いて退き、李俊様が待つ水際へ連環馬を導く。
お二人は互いの名もよく知らないまま、戦場では問題なく意思を通じさせておられます。
名前を尋ねるより先に、敵を沈めました。
順序として正しいのかは分かりませんが、梁山泊では生存が最優先でございます。
問題は、呼延灼様です。
主将二人と砲術家を失い、連環馬の一隊まで湖へ沈められたのですから、朝廷へ戻るものと思いたいところでした。
戻られませんでした。
呼延灼様は敗北を報告する代わりに、軍勢を青州へ向けられました。
梁山泊で兵を補えなければ、別の山から奪えばよい――
大変、前向きな判断でございます。
その結果、桃花山から救援要請が届きました。
どうやら今回の案件は、梁山泊の中だけでは完了しないようです。
呼延灼様は逃げたのではございません。
次の戦場で、私どもを待っておられます。




