笑顔でお迎えする案件
閻婆惜でございます。
夫が戦から生きて戻ってまいりました。
私は笑いました。
ただ、それだけのことでございます。
ところが宋江様は、その笑顔が業務によるものか、妻としてのものかを、いつまでも気になさっておられます。
高唐州を攻略し、妖術を破り、柴進様を井戸から救い出した総大将が、最後に確認したいのは妻の表情の意味だそうです。
優先順位については、後ほど面談が必要かもしれません。
もっとも、今回は私にも多少の責任がございます。
いつものようにお迎えし、いつものように帰還処理へ移る予定でした。
それなのに、宋江様のお顔を見た途端、予定にない笑顔が出てしまいました。
予定外の行動は、それだけでは終わりません。
翌朝、私はある方の配置が少し遠いことに気づきました。
人員配置とは、能力、経験、指揮系統を考えて行うものでございます。
身長や顔立ちまで考慮した記憶はございません。
ましてや、動こうとしない男性の尻を叩くなど、前世の職場では一度もしておりませんでした。
本当に軽くでございます。
一歩、前へ出ていただくための業務上の措置でした。
その結果、一人の女性が、梁山泊の男を初めて「大勢のうちの一人」ではなく、名前を知りたい相手として見たとしても、私の責任ではございません。
ただし、配置先におられた女性本人から、
「あの方は、いつもどこにおられるのか?」
と追加で照会された場合は、話が変わってまいります。
――本件、人員配置によって何かが始まった可能性がございます。
宋江様が寨の門をくぐった瞬間、私は笑ってしまいました。
失態でございます。
出迎えの場では、帰還した兵の人数を確認し、負傷者を治療所へ振り分け、運び込まれた物資と使用済みの武具を帳面へ戻さなければなりません。
総大将の妻だからといって、夫だけを見ていてよい場面ではございません。
それなのに、私は宋江様を見つけた途端、口元が勝手に緩みました。
向こうも足を止めました。
高唐州へ出立した時より、顔は日に焼け、衣には土がつき、目の下には疲れが残っています。
それでも、ご自分の足で戻ってこられました。
「ただいま戻った」
「お帰りなさいませ」
いつもの挨拶です。
ただし、いつもの声にはなりませんでした。
宋江様は何かを言いかけましたが、後ろから担架が運ばれてきたため、二人で道を空けました。
布の下から見えた柴進様のお顔は、ひどく痩せておられました。
目は閉じたままでしたが、胸はかすかに上下しています。
生きておられます。
攻略本には、柴進様は井戸から救い出されると書いてありました。
ですが、攻略本の一行は、人間が井戸の底で何日耐えられるかまでは保証してくれません。
救出と書かれていても、息があるとは限らない。
今回ばかりは、結末を知っていることが何の慰めにもなりませんでした。
私は担架の横へ移り、治療を担当する者へ尋ねました。
「意識は?」
「井戸から上げた時、一度だけ目を開かれました。今は眠っておられます」
「水は飲めましたか?」
「少しずつならば」
それを聞いて、ようやく息を吐けました。
宋江様が隣へ立ちます。
「生きている」
「はい」
「間に合った」
「はい」
今度は笑わずに答えました。
これ以上笑えば、泣きそうだったからでございます。
帰還した軍勢の処理は、その日のうちには終わりません。
負傷者の名を照らし合わせ、高唐州で失った武具を記録し、借りた縄と滑車を李応様の私物帳へ戻します。
李逵様が壊したものについては、本人へ請求しても支払われないことが判明しておりますので、最初から別欄です。
公孫勝様には妖術への対応記録を提出していただきましたが、途中から雲の流れと方角の話になり、呉用様が読みながら黙り込みました。
理解されたのか、理解した顔をなさっているだけなのかは、確認しない方が組織のためでしょう。
二龍山へは、正式な礼状を出します。
魯智深様と武松様の援軍に加え、兵、薬、兵糧がなければ、前線の損耗はさらに大きくなっていました。
潘巧雲先輩から届いた文には、柴進様の容体を最優先で知らせるよう、珍しく同じ内容が二度書かれていました。
先輩も心配しておられたのでしょう。
迎児様が横で泣きながら書き足した可能性もございます。
私は返書の冒頭へ、柴進様が生存していることを書きました。
そこまで記してから、筆を置きます。
「では、二龍山へ正式な文を出します」
背後で宋江様が、呆れたように息をつきました。
「もう仕事か?」
「笑顔でお迎えする案件は完了いたしましたので」
「案件だったのか?」
「帰還確認は重要業務でございます」
「私を見て笑ったこともか?」
筆を持ったまま振り返ると、宋江様は冗談を言った顔ではありませんでした。
答えを待っておられます。
「その件につきましては、業務時間外にご説明いたします」
私はそう申し上げて、返書へ向き直りました。
夕刻、柴進様が目を覚ましたと知らせがありました。
治療所へ入ると、柴進様は横になったまま、こちらへ顔を向けようとなさいました。
私はすぐに止めました。
「起き上がらないでくださいませ」
「高唐州は……」
声はひどくかすれていました。
「終わりました。高廉も、もうおりません」
柴進様は目を閉じました。
安心されたのか、力が尽きたのかは分かりません。
しばらくして、唇がわずかに動きました。
「皆に……迷惑を」
「井戸の底から謝罪を持ち帰る必要はございません。今は水を飲み、眠ってください」
柴進様は返事をせず、そのまま眠られました。
それで十分でした。
夜になり、ようやく帳面を閉じました。
宋江様の部屋へ入ると、灯りが一つだけ残されています。
お酒はありませんでした。
高唐州から戻ったばかりなのですから、飲ませるつもりもございません。
私は衣の紐へ手をかける前に、宋江様の頬へ触れました。
土は落としてあります。
それでも指先に、長い道のりと戦の疲れが残っているように感じました。
宋江様が私の手を取りました。
「昼の笑顔も、仕事だったのか?」
まだ気にしておられました。
この方は、多くの兵を動かし、城を攻め、捕らわれた柴進様を救い出して戻ったというのに、妻が笑った理由を確認しなければ眠れないようです。
面倒な方です……
けれど、この方が帰らないかもしれないと考えた時、私は平静ではいられませんでした。
望んで始まった夫婦ではございません。
それでも今は、無事に帰ってきてくださったことを、心から喜んでおります。
「仕事だけで、あのようには笑えません」
宋江様の目が、少しだけ細くなりました。
「では、今は?」
「業務時間外でございます」
その先は、報告書に記載する必要がございません。
翌朝、高唐州から連行された捕虜の処刑が行われました。
柴進様への拷問に関わった者や、高廉の命令を利用して民を苦しめた役人たちです。
全員を斬るわけではありません。
命令に従っただけの兵と、自ら進んで罪を重ねた者は分けられました。
そこを曖昧にすれば、処罰ではなく腹いせになります。
刑場には、多くの者が集まっていました。
宋江様と呉用様は前方におられます。
林冲様の近くには扈三娘様と玉楼様が立ち、その少し離れた場所に李俊様がおられました。
私は、その配置を見て考えました。
悪くはございません。
ただし、少し遠い。
扈三娘様は梁山泊へ来てからも、男たちをひとまとめに見ておられます。
敵か味方か。
上官か足手まといか。
分類は正確ですが、個人への関心がほとんどございません。
無理もないでしょう。
王英様の件がなくても、梁山泊には初対面の女性へ近づく方法を根本から間違えている方が複数おります。
その中で李俊様は、非常に条件がよろしい。
背が高く、顔立ちも整っており、無駄に騒がず、水軍と輸送を預けられる判断力がある。
何より、女性を見た瞬間に自分の価値を説明し始めません。
超優良物件を、いつまでも水辺へ放置しておく理由はございません。
私は李俊様の横へ移りました。
「李俊様……扈三娘様のお側へお願いいたします」
李俊様は、すぐには動きませんでした。
「何の役目だ?」
「人員配置でございます」
「俺でなければならぬのか?」
「はい」
「理由は?」
「今から考えますので、先に移動してください」
李俊様が私を見ました。
疑っておられます。
当然でございます。
「閻婆惜殿」
「何でしょう?」
「そなたは、時々ひどく乱暴だな」
「まだ何もしておりません」
「今からする顔をしている」
よくお分かりです。
それでも動かれませんでしたので、私は李俊様の背後へ回り、軽く尻を叩きました。
「行ってくださいませ」
「本当に乱暴だな」
そう言いながらも、李俊様は扈三娘様の方へ歩いていきました。
私は何も企んでおりません。
適材を適所へ移しただけでございます。
李俊様は扈三娘様の隣へぴたりと寄るような真似はなさいませんでした。
少し距離を空け、玉楼様の邪魔にもならない位置で立ち止まります。
扈三娘様が一度だけ、横を見ました。
李俊様は声をかけません。
女だからと気遣うふりもせず、処刑が始まっても目を逸らしませんでした。
刃が振り下ろされるたび、周囲の何人かが顔を背けます。
扈三娘様は見続けています。
李俊様も同じでした。
二人の間に会話はありません。
ですが、扈三娘様の視線が、もう一度だけ李俊様へ向きました。
敵将の間合いを測る目ではございません。
味方の力量を確かめる目とも違います。
あの長身の男は誰だ?
そう考えた顔でした。
私は満足して、刑場の記録へ目を戻しました。
本当に、何もしておりません。
李俊様の尻を叩き、扈三娘様の視界へ入れただけでございます。
その日の午後、玉楼様が私のところへ来ました。
用件は、負傷兵へ回す薬の追加申請でした。
書類を受け取り、必要数を確認していると、玉楼様が不意に顔を上げました。
「閻婆惜様」
「はい」
「扈三娘様が、朝から妙なのです」
私は筆を止めました。
「どのように?」
「先ほど、私に尋ねられました」
玉楼様は、少し困った顔で続けました。
「あの背の高い男は、誰だ、と」
「なんとお答えになりましたか?」
「李俊様だと」
「その後は?」
「何も……ただ、少し考えておられました」
私は薬の追加数を帳面へ書き込みました。
それで十分でございます。
名前を知れば、次に顔を見た時、その方は大勢の中の一人ではなくなります。
私は何もしておりません。
少し遠くに立っていた李俊様を、適切な位置へ移しただけです。
人員配置とは、時として本人たちも知らない未来にまで影響を及ぼします。
もっとも、その責任まで私へ提出されても困りますが……
「閻婆惜様」
玉楼様が、まだ何か言いたそうにしております。
「何でしょう?」
「扈三娘様が、もう一つ尋ねられました」
「何をですか?」
「あの方は、いつもどこにおられるのか、と」
私の筆が止まりました。
どうやら、視界へ入れすぎたようでございます。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
攻略本に、恋愛欄はございませんでした。
誰と誰が出会い、どのような会話を重ね、いつ相手を特別に思うようになるのか?
そのような情報は、武将の加入条件や死亡時期ほど丁寧には記されておりません。
大変な欠陥でございます。
李俊様について分かっているのは、梁山泊を最後の居場所にはなさらないこと。
扈三娘様について記されているのは、方臘討伐戦から戻られないこと。
本来ならば、二人の道が交わったとしても、未来へ続く理由はございませんでした。
ところが扈三娘様は生き残るために、原典から外れ始めています。
そして李俊様は、いずれ梁山泊から外へ向かわれる方です。
死ぬはずだった女性と、ここを去ることになる男性が、互いの名すらよく知らないうちに同じ刑場へ立ちました。
私は少々、立つ場所を調整しただけでございます。
その後、扈三娘様から李俊様の居場所について照会があった件は、正式な記録へ残しておりません。
薬の追加申請書へ恋愛の兆候を書き加える欄がなかったためです。
新しい様式を作る予定もございません。
なお、李俊様から尻を叩いた件について苦情は提出されておりませんので、本件は未発生として処理いたします。
問題は、扈三娘様が次に李俊様を見つけた時です。
今度は私が移動させなくても、ご自分から近づいていかれる可能性がございます。
攻略本にない出来事は、どこへ進むのか分かりません。
ただ、一つだけ確かなことがございます。
死ぬはずだった方が、去るはずの方を探し始めました。
――次に動くのは、人員ではなく、お二人ご自身かもしれません。




