井戸の底
閻婆惜でございます。
本日は、高唐州から戻ってきた文が、たいへん読みにくい状態となっております。
筆跡の問題ではございません。
黒い風に巻き上げられた砂が、乾く前の墨を削ってしまったのです。
敵が何人いたのか?
どこから攻めてきたのか?
そもそも、本当に人間を斬ったのか?
前線からの報告には、分からないことが増えておりました。
高廉の妖術に備えるよう警告は送りました。
おかげで、宋江様たちは黒い風の中へ深く踏み込まずに済んだようです。
ただし、先回りできたから勝てるとは限りません。
今回は、妖術を破る準備ではなく、妖術から逃げる準備だけが間に合いました。
林冲様が兵をまとめ、扈三娘様と玉楼様が最後尾を守り、李俊様が負傷者を舟へ逃がしております。
見えない敵は倒せなくても、見えている味方を連れて帰ることはできる。
前線の皆様には、たいへん良い仕事をしていただきました。
できれば、妖術など使わない敵を相手に発揮していただきたい能力でございます。
後方から送る物も増えました。
薬だけでは足りません。
砂を洗う水と清潔な布が必要です。
白秀英様は寝台で休んでおられますが、負傷者へ薬を塗る前に砂を洗うべきだと、紙で指示を出してこられました。
横になっていることと、仕事を休むことは、独龍岡では別の意味を持つようです。
二龍山からは、魯智深様と武松様が前線へ急いでおります。
潘巧雲様は、知りたいことが山ほどあるはずなのに、確認できない情報は送らなくてよいと書いてこられました。
迎児様は、まだ少し泣いておられるそうです。
警報装置は、弱まりながら正常に作動中です。
あとは、公孫勝様が到着してくだされば、高廉の妖術へ対抗できます。
ようやく、必要な手が揃い始めました。
そう思ったところで、白い帳面に新しい文字が浮かびました。
今度は「妖」ではございません。
そこに書かれていたのは――
「井戸」の二文字でした。
最初に戻ってきた文は、ところどころ読めなくなっておりました。
破れたわけではございません。
血に濡れたのでもありません。
細かな砂が墨へ入り込み、乾く前の文字を引っかいたように削っていたのです。
高唐州から戻った使者も、ひどい有様でした。
衣は土にまみれ、右の袖が裂けています。
馬を下りたところで膝をつきましたが、文だけは両手で差し出しました。
「前線より……急ぎの報告です」
私は文を受け取り、近くにいた者へ水を持ってくるよう頼みました。
「どこか負傷しておられますか?」
「矢は受けておりません。ただ、あの風の中で馬が暴れました」
「あの風」とは、黒い風のことです。
呉用様が書き始めた文は、途中から宋江様の筆へ変わっておりました。
おそらく、呉用様が新たな指示を出すため席を離れ、続きを宋江様が書かれたのでしょう。
高廉の軍は、城門を開いたあと、正面から一斉に押し寄せてきたわけではありませんでした。
敵陣で旗が振られた直後、地を這うように黒い風が広がったそうです。
昼であるにもかかわらず周囲が暗くなり、隣にいた兵の顔さえ見えなくなった。
太鼓を鳴らしても、どちらから音が聞こえるのか分からない。
敵の位置を見失ったまま、馬だけが何かに怯えて隊列を崩しました。
使者は水を飲んだあと、震える手で膝を押さえました。
「風の中で、人の声が聞こえました」
「敵兵の声ですか?」
「分かりません。前から聞こえたと思えば、すぐ後ろで笑われたようにも聞こえました。斬りつけても、手応えがなかった者もおります」
妖術を知らずに進軍していれば、梁山泊の兵は黒い風の中へ踏み込み、そのまま互いを敵と思って斬り合っていたかもしれません。
私の警告が届いていたため、宋江様と呉用様は先陣を深く進ませませんでした。
しかし、備えていたからといって、被害がなくなるわけではございません。
風に巻かれて馬から落ちた者がおり、退こうとして味方の荷車へぶつかった兵もいた。
姿の見えない敵へ矢を放ち続け、矢筒を空にした隊まであったそうです。
文を読み進めるうちに、私は呼吸を忘れておりました。
勝ったとは、どこにも書かれていません。
敗れたとも記されていない。
陣を保ち、負傷者を後ろへ送り、高廉の軍が風の中から追ってくる前に柵を閉じた。
つまり、逃げ切ったという報告です。
妖術を破ったのではございません。
妖術から逃げる準備だけが、間に合ったのです。
林冲様は、黒い風が広がった直後に中央の兵を下げ、崩れた隊が左右へ流れないよう立て直されました。
扈三娘様と玉楼様は、馬を制御できなくなった者を拾いながら最後尾へ回り、風の中から追ってきた兵を近づけなかったそうです。
見えない敵を倒すことはできなくても、見えている味方を連れて帰ることはできます。
あのお二人らしい戦い方でした。
李俊様は、負傷者を陸路へ集中させず、先に確保していた水路へ振り分けました。
舟を退路として残した判断が、ここで役に立ったのです。
李俊様は出陣前に、帰りには負傷者が増えるとおっしゃっていました。
当たってほしくない予測ほど、よく当たります。
私は文に記された負傷者の数を別紙へ写し、独龍岡から回す薬と布の量を計算しました。
砂を吸い込んで咳が止まらない者が多く、目を開けられない兵もいるようです。
傷薬だけでは足りません。
水と清潔な布を増やし、舟の上にも手当てをする場所を作る必要があります。
晁蓋様にも文をお見せしました。
「さらに兵を出すべきか?」
「今は、お控えください」
「前線が崩れてもか?」
「兵を増やせば妖術を破れるのであれば、すぐに出すべきです。ですが、黒い風の中へ人数だけを増やせば、被害が広がります」
晁蓋様は文をもう一度読み、うなずかれました。
「では、何を送る」
「水と布、負傷者を運ぶ舟を増やします。新たな兵は、公孫勝様か二龍山の援軍が到着するまで待ちます」
前線で戦う方々が苦しんでいる時、兵を送らない判断は逃げに見えるかもしれません。
それでも、効かないものを大量に送り込むことを支援とは申しません。
晁蓋様の印をいただき、私は李応様と杜興様を呼びました。
その前に、白秀英様から小さな紙が届いておりました。
『負傷者が砂まみれなら、いきなり傷へ薬を塗らない方がよくないですか? 先に洗う水、絶対もっと要ります』
そのとおりです。
寝台は、完全に臨時の執務室となりました。
李応様は紙を読み、しばらく黙っておられました。
「秀英は休んでいるのか?」
「横にはなっておられます」
杜興様が答えました。
「それは休んでいるとは申さぬ」
お気持ちは分かります。
ですが、白秀英様から仕事をすべて取り上げれば、寝台から抜け出して独龍岡へ向かわれるでしょう。
紙を書いていただく方が、まだ安全です。
「中央倉から水桶と布を出します。東の倉には触れません」
私が申し上げると、李応様はすぐにうなずかれました。
「舟へ積む分を先に出そう。杜興、荷車を待たせるな」
「承知しました」
薬を増やす話をしていたはずが、運ぶ水の方が重くなりました。
ゲームであれば、必要な物資の数字を増やすだけで済みます。
現実では、桶が要り、荷車が要り、それを引く馬と人も必要です。
父の要塞には、輸送中に水をこぼす者まで表示されなかったはずです。
お二人を見送ったあと、私は高唐州から届いた報告を二龍山へ送りました。
被害については確認できた数だけを書き、黒い風の中で見えなかったことは、見えなかったまま伝えます。
推測で敵兵を増やせば、潘巧雲様の判断を誤らせます。
時遷様が二龍山から戻ってきたのは、数日後の夜でした。
潘巧雲様の返書には、魯智深様と武松様が予定より早く出発したことが記されております。
高唐州に近い渡しまで急ぎ、到着後に兵を休ませる。
薬と水を増やす代わりに、途中で調達できる兵糧は積み荷から外し、進む速さを優先するとのことでした。
そして、最後に一文だけ添えられております。
『負傷者の人数が変わりましたら、数字だけでも先にお知らせください。柴進様について確認できないことは、書かなくて結構です』
本当は知りたいはずです。
柴進様がどこへ入れられたのか、生きているのか、傷を負っていないのか。
それでも、分からないことを分かったように書くなと、先に線を引いております。
潘巧雲様は、感情を抑えているのではございません。
感情に仕事を壊させないのです。
返書の端には、迎児様の文字もございました。
『巧雲様は少し落ち着かれました。私は、まだ少し泣いております』
警報装置は、弱まりながら作動を続けているようです。
翌朝、魯智深様と武松様が高唐州の外へ到着したとの報せが入りました。
お二人は黒い風の被害を受けた陣へ入り、林冲様たちと合流されました。
武松様は負傷者の列を見たあと、すぐ城へ近づこうとはせず、まず敵の出方を確かめるべきだとおっしゃったそうです。
魯智深様も、見えない相手へ突っ込むほど酔ってはいないと笑われたとのことでした。
お二人が来たことで、前線は持ち直しました。
しかし、妖術を破れるようになったわけではございません。
公孫勝様は、まだ戻っておりません。
戴宗様からの文も届かない。
李逵様が同行している以上、便りが遅いだけで不安になるのは、私だけではないはずです。
その日の午後、白い帳面を開くと、前日まで残っていた「妖」の字が薄くなっておりました。
代わりに、その下へ新しい墨が浮かびます。
今度は一文字ではありません。
線がゆっくりとつながり、二つの文字になりました。
――井戸。
私は、その文字を見たまま動けませんでした。
高唐州で捕らえられた柴進様と井戸が、攻略本の記憶の中でつながります。
柴進様は、牢へ入れられているのではございません。
高廉は、あの方を枯れ井戸へ落としていたはずです。
前線では今も、城内の牢を探すつもりで救出の手順を組んでおります。
誰も、井戸の底を捜そうとはしていません。
妖術への警告は間に合いました。
けれど、助けるべき方の居場所を、まだ誰にも伝えていなかったのでございます。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
今回、梁山泊から新たな兵を送ることは見送りました。
前線が苦しい時に兵を増やさないという判断は、何もしないこととは違います。
黒い風の中へ人を送り込めば、戦力が増えるより先に、見失う味方が増えるでしょう。
効果のない援軍は、支援ではございません。
被害者の数を増やすだけです。
ですから今回は、出兵を止めるための承認を晁蓋様からいただきました。
何をするかだけでなく、何をしてはならないかを決めることも、後方の仕事でございます。
二龍山へ送る報告にも、確認できた事実だけを記しました。
黒い風の中に敵が何人いたのか?
誰の声が聞こえたのか?
斬った相手が本当に人間だったのか?
分からないものは、分からないままです。
空白を推測で埋めれば、文面は整います。
けれど、整った誤報ほど始末の悪いものはございません。
受け取った方は、それを事実として次の判断に使ってしまいます。
潘巧雲様へ、柴進様について何も分からないと伝えることには、私もためらいがございました。
それでも、安心させるための希望を事実へ混ぜるわけにはまいりません。
先輩は、優しい嘘で納得してくださる方ではございません。
あとで事実と違うと分かった時に浮かべる笑顔は、前世でもたいへん美しゅうございました。
見た者が二度と同じ報告をしなくなるほどに……
さて、白い帳面は、高廉の妖術を「妖」の一文字で知らせてきました。
柴進様の居場所については、「井戸」の二文字です。
情報量が倍になりました。
十分とは申しません。
高唐州に井戸がいくつあるのか?
城内なのか、城外なのか?
水があるのか、枯れているのか?
どなたかが底にいるのか、救出経路として使うのか?
判断に必要な部分が、ほぼ省略されております。
九天玄女様――
神託に文字数制限があるのでしょうか?
せめて「枯れ井戸」まで書いていただければ、こちらの確認作業が一つ減りました。
今回は幸い、攻略本の記憶がつながりました。
柴進様は牢ではなく、高廉の屋敷にある枯れ井戸へ落とされているはずです。
前線では、城内の牢を捜す前提で救出の手順を考えております。
公孫勝様が妖術を破り、高唐州へ入れたとしても、捜す場所を間違えれば間に合いません。
居場所は分かりました。
ですが、今すぐ井戸へ向かえるわけではございません。
高廉の妖術を破らなければ、城内へ入ることすらできないのです。
まず、公孫勝様に高唐州へ来ていただく。
その後、城へ入る前に、柴進様は牢ではなく枯れ井戸にいると伝えれば間に合います。
少なくとも、柴進様がそれまで井戸の底で耐えてくだされば――
次に必要なのは、文を運ぶ者ではございません。
公孫勝様が、いつ高唐州へ到着するのか?
今の私には、その知らせを待つことしかできないのでございます。




