迎児はまだ泣いていない
閻婆惜でございます。
本日は、同盟締結後の宴が続くお話でございます。
先にご報告いたします。
迎児様は、泣いておりません。
何のご報告か分からないと思われるでしょう。
私も、聞くまでは分かりませんでした。
潘巧雲様の色香が普段より強くなると、長くそばにいる迎児様は、なぜか涙が出るそうです。
表情や声、指先の動き、息づかいのわずかな変化を身体が察知し、本人の意思とは関係なく泣いてしまう。
つまり、迎児様は潘巧雲様専用の警報装置でございます。
そして今夜、その警報は鳴っておりません。
梁山泊の男性陣が半数ほど前かがみになっておりますが、これで通常値だそうです。
通常とは、何でしょうか?
潘巧雲様が私の隣へ座ると、男性陣は彼女を見て前かがみになり、私と目が合うと慌てて背筋を伸ばします。
艶で崩れ、凛で戻る。
宴席の一角で、たいへん不自然な運動が始まりました。
王英様は遠くの席で口を半分開けたまま動かなくなり、楊雄様と石秀様は、
「あれほど人目を引く女だったか?」
と首をかしげております。
同じ方でございます。
潘巧雲様が変わったのではありません。
安心して笑える場所を得たことで、ようやく貴方がたにも見えるようになったのでしょう。
ただし、色香まで以前より増している可能性については、一般的な事例が少ないため判断を保留いたします。
扈三娘様は王英様の機能停止を見て笑い続け、玉楼様は男性陣の姿勢が良くなったり悪くなったりするため、うつる病ではないかと心配しておられます。
うつりません……
おそらく……
私にはついていないのでわかりません……
その後、潘巧雲様から、以前よく似た後輩がいたと聞かされました。
何も頼まなくても必要な文を用意し、会議が長引けば、誰が話を逸らしたかまで覚えている美人だったそうです。
それは、ほぼ私ではございませんか?
私も、黙って座っているだけで男性社員が話しかける理由を探し始める先輩がいたとお伝えしました。
婚約が知られた日には、部署の処理速度まで落ちた方です。
それは、ほぼ潘巧雲様ではございませんか?
それでも、私たちは先輩とも後輩とも呼びませんでした。
九百年後の会社について説明するより、今の名と立場を守る方が先だからです。
宴は、笑いのうちに終わりました。
迎児様も最後まで泣きませんでした。
ですから、その三日後に泣きたくなる役目が私へ回ってくるとは思っておりませんでした。
潘巧雲様の警報装置は正常です。
問題は――
別の場所で、すでに火が上がっていたことでございます……
「お隣、よろしいでしょうか?」
潘巧雲様が、次の盃を持って私のそばへ移ってこられました。
断る理由はございません。
ございませんが、彼女が腰を下ろした途端、向かい側にいた男性陣の姿勢が再び崩れました。
潘巧雲様へ目を向ければ前かがみになり、私と目が合えば慌てて背筋を伸ばす。
先ほどから、同じ動きを繰り返しております。
宴席で行う運動ではございません。
「梁山泊の皆様は、たいへん素直ですね」
潘巧雲様は盃へ口をつけながら、何も知らない顔でおっしゃいました。
「身体の反応だけは、隠し事が苦手なようです」
「前にも、似た光景をご覧になったことが?」
「さて、どうでしょう」
答えを濁すと、彼女は楽しそうに目を細めました。
文では逃げ道を塞ぐ方が、ご自分のことになると余白を残されます。
前世でも、そういう先輩でした。
もちろん、まだ本人と決めたわけではございません。
ただ、偶然という言葉の担当範囲が、そろそろ限界を迎えております。
少し離れた席では、王英様が口を半分開けたまま潘巧雲様を見ておられました。
扈三娘様を見つければ、普段なら何かしら近づく理由を作ろうとなさいます。
ところが今夜は、立ち上がることも、声をかけることもいたしません。
ただ惚けた顔で座っております。
あれほど静かな王英様は初めてです。
色香による一時的な機能停止であれば、治療せず、そのまま経過を観察いたしましょう。
「王英、酒が進んでおらぬぞ」
晁蓋様が声をかけられました。
王英様は盃を持ち上げましたが、中身を口へ運ぶ前に、また潘巧雲様へ視線を戻しました。
晁蓋様は何も言わず、私も記録だけに留めます。
今日は規則違反を起こしておりません。
動けないことが、良い方向へ働く場合もございます。
その近くでは、楊雄様と石秀様が顔を寄せ合っておりました。
「……巧雲は、あそこまで人目を引く女だったか?」
「俺も今、それを考えていた。兄貴の嫁は、あのようによく笑ったか?」
二人そろって首をかしげております。
同一人物でございます。
貴方がたが、今まできちんと御覧になっていなかっただけではございませんか?
楊雄様の家にいた頃の潘巧雲様は、何を言っても疑われ、外へ出れば見張られ、家の中でも息を詰めていたのでしょう。
今は迎児様が隣におり、二龍山では仕事を任され、意見を述べても誰かの面目を傷つけたことにはされません。
人は、安心できる場所を得れば顔つきまで変わります。
色香まで増えるかどうかは、一般的な事例が少ないため判断できませんが、少なくとも潘巧雲様には該当するようです。
「以前より、綺麗になったのではないか?」
石秀様が言うと、楊雄様は納得できない顔のまま盃を置きました。
違います。
以前から綺麗だったのです。
逃げる必要がなくなり、ようやく貴方がたにも見えるようになっただけでしょう。
向かい側では、扈三娘様がまだ笑っておられました。
「駄目……王英まで固まってる……」
「扈三娘様、あまり笑われますと、お腹を痛めます」
玉楼様は本気で心配しております。
「玉楼は、あっちを心配して。男どもの方」
「先ほどから良くなったり悪くなったりしております。何かうつる病なのでございましょうか?」
「うつらないわ。絶対に」
扈三娘様はそう答えた後、私と潘巧雲様を見比べ、また肩を震わせました。
何がおかしいのでしょう。
潘巧雲様の隣に私が座っているため、男性陣は前かがみになった直後に私の視線を受け、姿勢を戻します。
結果として、聚義庁の一角だけが妙に落ち着きません。
艶で崩れ、凛で戻る。
人の顔を見て役割分担を決めたわけではございません。
「巧雲様、お酒はこちらになさってください」
迎児様が、薄めた酒の入った盃を差し出しました。
動きに迷いはなく、表情も平然としております。
潘巧雲様が梁山泊の男性陣を半数ほど使い物にならなくしているというのに、まるで日常の一場面です。
「迎児様は、驚かれないのですね」
私が尋ねると、迎児様は潘巧雲様を見てから、小さく首を振りました。
「今夜の巧雲様は、まだ普段どおりですので」
普段どおり――
思わず、前かがみになっている男性陣を見渡しました。
これで通常値なのですか?
「普段どおりでない時は、どうなるのでしょう」
「私が泣きます」
迎児様は真顔で答えました。
「泣くのですか?」
「なぜか涙が出ます。巧雲様のお声やお顔が、いつもより……強くなりますと」
潘巧雲様が困ったように眉を下げました。
「迎児、それでは私が何か悪いものを出しているようでしょう」
「出しておられます」
返事が早い……
潘巧雲様は盃を置き、私は迎児様を見直しました。
なるほど……
この方が測定器なのですね。
迎児様は、表情や声だけでなく、指先の動きや息づかいからも、わずかな出力の変化を察知するのでしょう。
そして危険域へ入ると、本人の意思とは関係なく涙が出る。
たいへん分かりやすい警報装置です。
現在、迎児様は泣いておりません。
つまり、梁山泊の男性陣を前かがみにしている今の状態で、まだ平常運転ということになります。
出力が上がった場合の被害は、想定したくありません……
話を聞いていた扈三娘様が、笑いをこらえながら顔を上げました。
「迎児が泣いたら、アタシたちは逃げればいいの?」
「その場合は、扈三娘様をお連れして下がります」
玉楼様が即答なさいました。
「アタシじゃなくて、男どもの方を避難させてよ」
「これほど大勢を、私一人で運ぶのでございますか?」
「運ばなくていい。自分で歩かせて」
今の男性陣を見る限り、危険域へ入った後に自力で歩ける保証はございません。
迎児様が泣いた場合の避難手順も、後ほど決めておいた方がよさそうです。
「以前、貴女によく似た方がおりました」
潘巧雲様が、不意におっしゃいました。
周囲には聞こえても、意味までは分からない程度の声です。
「何も頼まなくても必要な文を先に用意し、会議が長引けば、誰が話を逸らしたかまで覚えている後輩でした」
「たいへん仕事のできる方ですね」
「ええ……美人でしたが、男性は見惚れる前に書類の不備を思い出しておりました」
盃を持つ手に、少し力が入りました。
それは、ほぼ私ではございませんか?
「私にも、貴女によく似た先輩がおりました」
「どのような方ですか?」
「黙って座っているだけで、男性社員が話しかける理由を探し始める方です。ご本人はすべて気づいているのに、何も知らない顔をなさっておりました」
「困った方ですね」
「婚約が知られた日は、部署の処理速度が落ちました」
潘巧雲様は盃の陰で笑いました。
「その後輩は、先輩の婚約を知っても平然としておりました」
「平然としていたのではございません」
私は彼女の顔を見ました。
「周囲の男性社員を業務へ戻すのに、忙しかったのでしょう」
一瞬、何も聞こえなくなりました。
実際には魯智深様の笑い声も、盃の触れ合う音も続いております。
けれど、私たちの間だけ、前世の会議室へ戻ったような静けさがありました。
潘巧雲様は、答え合わせを求めませんでした。
「では、その後輩には苦労をかけましたね?」
「今もかけられている気がいたします」
「私は何もしておりませんよ?」
「存じております。何もしていない時が、一番厄介なのです」
迎児様が小さく頷きました。
否定なさらないのですね……
その後も宴は続きました。
晁蓋様と魯智深様は両山の往来について話し、武松様は林冲様と武芸の話を始めます。
李応様は酒の量を見ながら料理を回し、李俊様は騒ぎへ加わらず、必要な時だけ近くの者へ水を渡しておりました。
扈三娘様が笑いすぎて咳き込むと、李俊様は自分で近づかず、そばの玉楼様へ水差しを渡しました。
余計な世話を焼かず、必要なことだけなさる。
やはり、超優良物件です。
この評価が後ほど別の配置へ影響することになりますが、今はまだ、私の胸の内に留めておきます。
宴が終わりに近づいた頃、潘巧雲様が席を立つ前に言いました。
「次の文へ、盟約とは関係のないことを一つ書いてもよろしいでしょうか?」
「内容を確認してから判断いたします」
「差し戻されないよう、整えておきます」
「お願いいたします」
それだけで十分でした。
先輩とも、後輩とも呼びません。
九百年後の会社についても話しません。
今はまだ、梁山泊の閻婆惜と、二龍山の潘巧雲です。
二龍山の一行が戻った三日後、柴進様の供の者から急報が届きました。
文には、柴進様が病に伏した叔父を見舞うため、高唐州へ向かったとあります。
同行した李逵様が、叔父の屋敷へ押しかけていた殷天錫を打ち殺した。
そして柴進様は、高廉の手の者に捕らえられました。
白い帳面を開くまでもございません。
高唐州の火は、もう燃え上がっております。
迎児様は、最後まで泣きませんでした。
代わりに今度は、私が泣きたくなってまいりました。
九天玄女様――
フェロモンの警報装置は正常に働いております。
案件の方にも、着火予定日時を併記していただけませんでしょうか?
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
二龍山との盟約は、無事に締結されました。
覚書も二通そろい、印も押され、後から都合のよい一文を書き足せないよう、余白の処理まで完了しております。
書面上は、たいへん良好です。
宴席の男性陣については、別紙を作るべきか迷っております。
潘巧雲様は、何もなさいませんでした。
盃を持ち、笑い、私の隣へ座っただけです。
それだけで王英様が停止したため、今後、彼を静かにさせる必要が生じた場合の参考にはなるでしょう。
ただし、潘巧雲様を対王英用の鎮静剤として運用する予定はございません。
ご本人の同意が必要ですし、何より周囲の被害が大きすぎます。
楊雄様と石秀様は、潘巧雲様が以前より美しくなったのではないかと話しておられました。
違うのでしょう。
疑われず、監視されず、逃げ道を探さなくてもよい場所へ移ったことで、あの方はようやく笑えるようになった……
人の美しさを奪うのは、刃物だけではございません。
毎日少しずつ疑い、言葉を塞ぎ、本人より家の面目を重く扱えば、顔を上げる力まで失わせることができます。
そして、その方が別の場所で笑い始めてから、
「あのような女だったか?」
と驚く。
見ていなかったのは、どちらでしょうか?
もっとも、安心を得た結果、色香まで大幅に解放される事例については、私も初めて確認いたしました。
こちらは今後も慎重な観察が必要です。
また、李俊様について新たな評価を記録いたします。
扈三娘様が咳き込んだ際、ご自分で近づかず、玉楼様へ水差しを渡されました。
助けるべき時には助け、必要以上に距離を詰めず、恩を売ろうともなさらない。
たいへんよくできた方です。
攻略本には能力値が載っていても、女性が咳き込んだ時の対応までは書かれておりませんでした。
重要な情報ほど、数値になっていないものです。
今後、人員の配置を考える際には参考にいたします。
もちろん、本人同士の意思を無視して話を進めるつもりはございません。
席が近くなる程度です。
偶然を装った正式配置、と申しましょうか。
意図的な偶然は偶然ではないという異議については、受け付けません。
そして宴の三日後、柴進様捕縛の急報が届きました。
原因は、李逵様です……
殺すなと命じられた子供を殺そうとして止められ、柴進様の屋敷へ預けられた方が、今度は殷天錫を打ち殺しました。
反省期間とは、何だったのでしょうか?
高唐州には高廉がおります。
攻略本どおりなら、柴進様は牢へ入れられ、梁山泊は救出へ向かい、こちらは妖術を相手にすることになります。
白い帳面が示していた火は、これだったのでしょう。
ただし、ひとつだけ攻略本と違う点がございます。
今の梁山泊には、二龍山との正式な盟約があります。
そして二龍山には、攻略本どおりなら今ここにいない潘巧雲様がいる。
死んだはずの方が生き残れば、歴史に存在しなかった文が増えます。
文が増えれば、人の動きも変わります。
高唐州へ向かう前に、二龍山から一通の書状が届きました。
差出人は、潘巧雲様。
盟約とは関係のないことを一つ書きたいとおっしゃっていた、その文でございます。
内容を確認した私は、すぐに李応様と白秀英様を呼びました。
柴進様を救う前に、決めておかなければならないことが増えたようです。




