殺すなと申し上げました
閻婆惜でございます。
本日は、戴宗様がお戻りになるお話でございます。
最初に申し上げます。
小衙内は、生きております。
怪我もなく、すでに親元へ戻されました。
攻略本では、朱仝様を梁山泊へ引き入れるため、李逵様に殺されるはずだった幼い子供です。
今回は、出発前にはっきり申し上げました。
殺してはならない。
傷つけてもならない。
一時的に姿を隠すだけにする。
聞き間違える余地はなかったはずです。
ところが李逵様は、分かったうえで殺そうとなさいました。
子供を生かしておけば後から面倒になるため、その場で殺した方が手っ取り早いとの判断だったそうです。
手っ取り早くて結構でございます。
ただし、禁止された殺害まで効率化の対象に含めることは認めておりません。
戴宗様が間に合わなければ、攻略本どおりの最期を迎えていたでしょう。
監視役としてお送りした方が、そのまま救命担当となりました。
念のための確認が、人命を救うこともございます。
稟議書の効能として、九天玄女様へ正式に報告したいところです。
なお、小衙内は助かりましたが、朱仝様はまだ亡くなったと思っておられます。
現在は雷横様たちと、柴進様の屋敷へ向かっております。
李逵様も同じ屋敷へ送られましたが、朱仝様と顔を合わせれば別の殺人事件が始まりかねないため、離していただいております。
柴進様の屋敷には、困っている方だけでなく、困った方まで集まるようです。
たいへん申し訳ございません……
そして戴宗様が滄州へ向かっている間にも、潘巧雲様との文は往復しておりました。
短く、正確で、こちらの曖昧な返答を決して見逃さない文です。
なぜでしょう……
その書き方には、前世で何度も見たような覚えがございます。
まさかとは思います。
同じ時代に転生者が何人も集まるなど、業務設計として無理がございます。
私一人でも、すでに処理能力を超えております。
ところが、三通目の文には照会ではなく、二龍山との同盟を正式に定めたいとの提案が記されていました。
ようやく一つの関係が形になろうとしております。
その時、白い帳面に新しい地名が現れました。
高唐州――
そこへ火をつける方は、すでに柴進様の屋敷におります。
「間に合った。小衙内は生きている」
戸が開くなり、戴宗様はそうおっしゃいました。
私は立ち上がりかけた姿勢のまま、しばらく動けませんでした。
「……親元へは?」
「もう戻した。怪我もない。騒ぎで泣き疲れてはいたが、今頃は母親のそばだ」
全身から力が抜けそうになりました。
よかった。
本当に、よかった。
攻略本では、あの子は李逵様に殺されます。
朱仝様を滄州へ戻れなくし、梁山泊へ追い込むためだけに……
名も残らない幼い子供が、英雄を一人増やすための道具として命を奪われる。
その筋だけは、どうしても認められませんでした。
出発前、李逵様には、小衙内を殺さず、傷つけず、一時的に姿を隠すだけにするよう、何度も申し上げました。
聞き間違える余地のない説明だったはずです。
「戴宗殿」
晁蓋様が、私より先に次を尋ねられました。
「李逵は、命令を守ったのか?」
戴宗様は答える前に、卓の水を一息で飲み干しました。
神行法で戻った後です。
顔色にも疲れが出ています。
それでも、報告を後回しにはなさいませんでした。
「守らなかった。俺が着いた時には、あいつはもう手を出そうとしていた」
「殺すなと伝えたはずだぞ」
「分かっていたさ。分かったうえで、子供を生かしておけば後から面倒になる、ここで殺した方が手っ取り早いと言った」
私は椅子へ座り直しました。
危うく、立ったまま何かを投げるところでした。
手元に筆しかなくて幸いです。
筆は業務に必要でございます。
「それで、小衙内を奪ったのですか?」
「ああ……李逵が手を伸ばすより先に抱えて走った。用意しておいた者へ渡し、別の道から親元へ戻させた」
戴宗様によれば、本当に間一髪だったそうです。
李逵様は、朱仝様が少し離れた隙を狙い、小衙内を物陰へ連れていこうとしました。
戴宗様が呼び止めても、策を確実にするためだと言い張り、止まらなかった。
そこで戴宗様は説明を諦め、先に子供を抱えて走ったとのことです。
命令を守らせるための説得より、命令を破る方から対象を奪う方が早かった。
たいへん実務的な判断でございます。
その実務が必要になった原因については、後ほど厳重に確認いたします。
「朱仝様には?」
「死んだと思わせたままだ」
安堵の中へ、別の重さが落ちました。
小衙内は助かりました。
ですが、朱仝様は守っていた子供を失ったと思い込んでおります。
「朱仝は雷横たちと柴進殿の屋敷へ向かった。李逵も別に連れていったが、顔を合わせれば殺し合いになる。柴進殿に頼み、離れた場所へ置いてもらった」
「朱仝様は、李逵様が殺したと思っているのですね」
「そうだ。あの場では、それを否定できなかった」
戴宗様の顔には、疲れだけではないものが残っていました。
命を救うためとはいえ、朱仝様を騙したのです。
幼い子供を大切にしていた方へ、その死を信じ込ませました。
小衙内が生きているから、すべて解決したとは申せません。
「まずは戴宗殿、よくやってくれた」
晁蓋様が言われました。
「そなたが間に合わねば、取り返しがつかなかった」
戴宗様は頷きましたが、表情は晴れません。
呉用様も黙っておられます。
今回の策は、朱仝様を梁山泊へ迎えるためのものでした。
小衙内を一時的に隠し、役所へ戻りにくい状況を作るところまでは、事前の承認を受けています。
殺害は認めておりません。
それでも李逵様は、早く確実だからという理由で、禁止された手段を選ぼうとしました。
「呉用様」
私が呼ぶと、扇が止まりました。
「李逵様には、殺害禁止をどのようにお伝えになりましたか?」
「小衙内へ危害を加えるなと、私からも申しました」
「では、指示不足ではございませんね」
「ございません」
「判断の違いでもありません」
「その通りです」
呉用様は言い逃れをなさいませんでした。
そこは救いです。
策の失敗を部下の聞き違いへ押しつける方が軍師であれば、今後の稟議書は三倍の厚さになります。
「李逵様が戻られたら、命令違反として確認いたします。当面、子供や非戦闘員の近くへ出す任務には就けません」
「俺が連れて帰った方がよかったか?」
戴宗様が尋ねられました。
「いいえ、朱仝様と同じ道に置く方が危険です。柴進様にご迷惑をおかけしますが、今は離していただくしかございません」
柴進様の屋敷は、逃げ場のない者を受け入れてきました。
潘巧雲様と迎児様も、最初にあの方の庇護を受けています。
今度は朱仝様を迎え、さらに李逵様まで預かることになりました。
人を助ける度量が大きい方ほど、なぜ問題まで集まるのでしょうか。
九天玄女様――
善人の屋敷を臨時の苦情受付所にするのは、おやめくださいませ……
「朱仝へは、いつ真実を話す?」
宋江様の問いで、皆様の視線が集まりました。
今すぐ、小衙内は生きていると知らせるべきでしょうか?
人としては、そうしたい。
ですが、役所へ戻れば、朱仝様は子供を連れ出した責任を問われます。
雷横様たちと動いたことも、なかったことにはできません。
反対に、梁山泊へ来るまで黙っていれば、子供の死を餌にして入山させたことになります。
命を取らなければ何をしてもよい、という決まりは作っておりません。
「柴進様の屋敷へ着いた後、朱仝様へ小衙内の無事を伝えます」
私は答えました。
「帰れば処罰を受ける可能性も含め、事情を隠さず話したうえで、今後を本人に選んでいただきます」
「それでは、朱仝が梁山泊へ来ぬかもしれぬぞ」
呉用様が確かめられました。
「その可能性はございます」
「策が無駄になる」
「子供を殺して成立させる策よりは、はるかにましでございます」
部屋が静まりました。
言い過ぎたとは思いません。
朱仝様が来なければ、別の道を考えればよいのです。
人を一人得るために、子供の命と本人の選択を奪う必要はありません。
晁蓋様が最初に頷かれました。
「その通りだ。柴進殿へ文を出せ。朱仝には真実を知らせ、その後は本人に決めさせる」
「承知いたしました」
戴宗様の肩から、少しだけ力が抜けました。
報告は終わりましたが、私の机には別の文が残っています。
戴宗様が滄州へ向かっている間、二龍山との文はすでに二度往復しておりました。
受領の確認に始まり、女二名へ無断で接触した者がいないこと、今後どのような事柄を互いに知らせるべきかまで、少しずつ話を進めています。
二通目の末尾には、こちらの対応が女二名の意思を尊重する方針と一致していることも記されていました。
褒めるでもなく、恩を売るでもなく、確認できた事実として処理しております。
仕事のできる方同士で文を交わすと、やり取りは短くなります。
ただし、短いから楽とは限りません。
曖昧な一文を置けば、その一文だけが次の照会として戻ってくるからです。
潘巧雲様の文には、余計な飾りがございません。
こちらを責めるために過去を蒸し返さず、必要な事実だけを置き、その先で決めるべきことを示します。
たいへん仕事のしやすい方です。
同時に、差し戻しを受けたくなければ、こちらも誤魔化さずに答えなければならない相手でした。
しかも、文の句切り方に妙な覚えがあります。
相手へ選択肢を残しながら、断るなら理由を明らかにさせる運び……
礼を失わず、決裁だけは先延ばしにさせない書き方……
前世の勤め先にも、同じような方がおりました。
けれど、潘巧雲という名に前世の記憶はございません。
偶然でしょう。
転生者が同じ時代へ何人も集まるなど、業務設計として無理がございます。
私一人でも十分に混乱しております。
「婆惜」
宋江様に呼ばれ、私は二龍山から届いた三通目の文を開きました。
末尾に、これまでとは異なる申し入れが加えられていました。
梁山泊と二龍山は、すでに文を介して互いの方針を確かめている。
今後、一方が官軍や周辺勢力から不当な攻撃を受けた場合、もう一方が事情を確認したうえで協力を検討する関係を、正式に定めてはどうか。
照会ではありません。
同盟の提案です。
物資の融通も、配下の移籍も書かれておりません。
互いを吸収せず、勝手に兵を動かさず、まず文で事情を確かめる。
これまで積み上げた手順を、そのまま盟約へ変える内容でした。
呉用様が文を受け取り、何度か読み返されました。
「二龍山は、こちらと結ぶつもりですな」
「急いで決める話ではない」
晁蓋様は慎重でした。
「だが、先延ばしにする理由もない。条件を詰めよう」
「では、梁山泊側の案を整えます」
私が答えると、宋江様も頷かれました。
正式な盟約まで、あと一歩です。
その時、白い帳面が開きました。
二龍山へ伸びていた線の先で、潘巧雲様の名が入った四角が光っています。
その向こうにあった空白の四角へ、墨がにじみ始めました。
浮かんだのは、人の名ではありません。
高唐州――
文字の下で、小さな火が揺れています。
なぜ、今なのでしょう?
攻略本の頁を思い返した瞬間、理由が分かりました。
柴進様の屋敷には、今、李逵様がおります。
あの方が殷天錫を殺せば、柴進様は捕らえられます。
その後、梁山泊は高廉の治める高唐州へ攻め込むことになる……
まだ事件は始まっておりません。
ですが、火種になる方は、すでに柴進様の屋敷へ到着しております。
高唐州の火が燃え上がる前に、二龍山との盟約を整えなければなりません。
残された猶予は、思っていたほど長くないようです。
九天玄女様――
せめて盟約へ印を押すまでは、案件を燃やさずにお待ちいただけませんでしょうか?
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
朱仝様には、柴進様の屋敷で真実をお伝えすることになりました。
こちらの策が何を目的とし、どこまで承認され、途中で何が起きたのか。
ご自分が守っていた子供が、今は親元で無事に過ごしていること。
そのすべてを明らかにしたうえで、梁山泊へ来るかどうかを決めていただきます。
これで朱仝様が元の暮らしへ戻れるわけではございません。
役目を離れた責任も残りますし、雷横様たちと動いた事実も消えません。
それでも、存在しない死を背負わせたまま連れてくるよりは、本人が現状を知って選べる方がよいでしょう。
人材を得られるなら、少しくらい事情を隠しても構わない。
その考え方を認めますと、梁山泊へ入った後も、ご本人の意思は後回しにされます。
入口で騙しておきながら、入山後だけ誠実に扱うという運用は、おそらく成立いたしません。
なお、李逵様への処分は、帰還後に正式な確認を経て決めます。
今のところ、朱仝様と離しておくことには成功しております。
ただし、置かれている場所が柴進様の屋敷です。
あの方の周囲には、頼る場所を失った者が集まります。
そこへ李逵様を置いた場合、救済対象と危険人物が同じ敷地内に存在することになります。
柴進様の度量を信じております。
同時に、その度量へ甘えすぎている自覚もございます。
次にお会いした時、菓子折りだけで済むでしょうか?
この時代に適切な謝罪用贈答品が分かりません。
さて、二龍山からは、同盟についての正式な提案が届きました。
これまでの文書往来で確認してきた方針を、一時的な対応ではなく、両山の約束として残したいとのことです。
一方が他方を従わせる内容ではありません。
互いの判断を尊重し、何か起きた時には事情を確かめ、協力するかどうかをそれぞれの山寨で決める。
大きな言葉を使わず、実際に守れる手順だけを積み上げた案でした。
潘巧雲様は、同盟という言葉へ酔っておられません。
関係を華々しく飾るより、破られにくい約束を作ろうとしておられます。
たいへん信頼できる考え方です。
そして、たいへん覚えのある考え方でもございます。
文の運び方に感じる懐かしさは、やり取りを重ねるほど強くなっております。
ですが、前世で存じ上げた方の名と、潘巧雲という名は結びつきません。
ここで勝手な推測を始めれば、呉用様の好奇心を止めている立場がなくなります。
自分にだけ調査権限を与える規程は、さすがに作れません。
ひとまず、同盟案を整えることを優先いたします。
その先には、高唐州が待っております。
白い帳面に現れた火は、まだ小さいままです。
しかし、火種となる方を柴進様の屋敷へ置いた以上、何もしなくても消えるとは思えません。
盟約を整え、朱仝様の返答を待ち、その間だけでも李逵様には静かに過ごしていただかなければなりません。
ですが、そのすべてを済ませるだけの猶予があるとは、どこにも書かれておりません。
九天玄女様――
次の案件を予告する際は、着火予定日も併記していただけませんでしょうか?




