言っていない、では済みません
閻婆惜でございます。
本日は、二龍山から二通目の照会文が届いたお話でございます。
一通目への返書は、すでに出しました。
梁山泊として周辺の詮索を命じた事実はないこと。
女二名について、本人の意思なき引き渡しを求めないこと。
今後、無断の接触を許さないこと。
必要な回答は書きましたし、関係者にも口外禁止を確認させました。
これで、ひとまず先方の返答を待てるはずでした。
ところが、返書を出したその日の酒席で、王英様が楊雄様を煽りました。
ご本人のお言葉を借りれば、
「行けとは言ってねえ」
とのことでございます。
ええ――
行けとは言っておりません。
ただ、逃げた妻を放っておくのか、梁山泊の面目はどうなる、男として恥ずかしくないのかと、たいへん丁寧に背中を押しただけです。
それを世間では、煽ったと申します。
前世の職場でも、命令ではなく助言だった、強制ではなく空気を読んでもらっただけだ、と説明する方がおりました。
その説明で問題が消えた例を、私は存じません。
そして二龍山にも、存じている方はいなかったようです。
王英様の酒席での発言は、こちらが追加報告を決めるより先に、二龍山まで届きました。
届いたうえで、たいへん整った文となって戻ってまいりました。
怒鳴りもせず、名指しで責め立てもせず、こちらが先に出した返書との食い違いだけを示して、梁山泊としての正式な意向を尋ねております。
書いた方は、かなり仕事のできる方です。
正しい文ほど、受け取る側の胃に効きます。
本日は、王英様の「言っていない」が、なぜ何の免責にもならないのかを確認いたします。
さらに、直接動くことだけを禁じても、人は言葉で他人を動かせるという新たな問題にも対応しなければなりません。
山賊の本拠で、まさか酒席の発言に関する規程まで作ることになるとは思いませんでした。
九天玄女様――
白い帳面へ火を出す前に、関係者の口を閉じる機能を付けていただけませんでしょうか?
なお、二龍山から届いた文が問うていたのは、王英様お一人の発言ではございません。
梁山泊御中――
その表書きどおり、今度は山全体が回答を求められております。
梁山泊御中――
照会の件――
その表書きを見た瞬間、私は胃を押さえました。
二龍山からの文でございます。
一通目なら、まだ分かります。
こちらの者が十字坡の周辺で余計な聞き込みをしたのですから、正式な確認を受けるのは当然でした。
しかし、これは二通目です。
二通目が届いた以上、ひとつだけ確かなことがございます。
王英様の酒席での発言は、二龍山まで届きました。
内部記録に留めるか、こちらから追加で知らせるか……
その判断を迷っている間に、先方から正式照会として戻ってきたのでございます。
前世で申しますと、社内で処理するつもりだった不適切発言について、取引先の法務部から問い合わせが届いた状態です。
たいへん悪いです。
しかも、先方の対応が正しい。
正しい文ほど、読む側の胃を正確に狙ってまいります。
私は文を持ち、晁蓋様と宋江様のもとへ向かいました。
呉用様も呼ばれます。
楊雄様と石秀様は、すでに一刻ごとの出頭を命じられているため、すぐ近くにおりました。
王英様は、呼ばれる前から嫌そうなお顔をなさっています。
心当たりがあるのでしょう。
その顔をなさるくらいなら、最初から口を慎んでいただきたいのですが、人は失言の前より後の方が賢く見えるものです。
見えるだけで、実際に賢くなったとは限りません。
「二龍山からでございます」
私が文を差し出すと、晁蓋様の眉が動きました。
「またか……」
はい、またでございます。
口にはいたしませんでした。
声にすると、本当に胃が痛くなりそうです……
宋江様が封を見つめます。
「返書は届いたはずだな?」
「朱貴様は三日前に戻っております。余計な話はせず、十字坡にも近づいておりません」
「ならば、何を照会してきた?」
それを今から確かめるのでございます。
できることなら封を切らず、文箱の底へ沈めてしまいたい。
ですが、未読の案件は消えません。
放置した分だけ、より面倒な形で戻ってまいります。
私は封を開きました。
筆跡は整い、文面にも乱れがありません。
怒りをぶつけることも、こちらを責め立てることもせず、逃げ道だけを塞いでおります。
書いた者は、相当に仕事ができます。
「読み上げます」
私は一度、息を整えました。
「先般の返書、確かに受け取りました。梁山泊として、女二名について本人の意思なき引き渡しを求めぬとの回答、承知いたしました」
ここまでは問題ございません。
怖いのは、その後です……
「ただし、その後、貴山内の酒席において、王英殿が楊雄殿に対し、女房に逃げられて二龍山に庇われて黙っているのか、梁山泊の面目が立たぬのではないか、という趣旨の発言をなさった由、こちらに届いております」
部屋の空気が固まりました。
王英様が、ゆっくり目を逸らします。
逸らしても、もう文になっております。
「これは、先の返書と矛盾するものか。梁山泊として、関係者に女二名の引き渡しを促す意向があるのか。二龍山としては、本人の意思なき接触、周辺への圧力、当人らを揺さぶる行為を認めることはできません」
私は文を下ろしました。
誰も、すぐには口を開きませんでした。
事故報告書を読み上げた後の会議室とは、このような空気になります。
誰も最初に責任のある言葉を発したくない。
しかし、誰かが発しなければ会議は終わらない。
「王英」
晁蓋様が名を呼ばれました。
「へい」
返事だけが妙に小さくなっています。
「二龍山まで届いておるぞ?」
「いや、まあ……」
「そなたが言ったのだな?」
「似たようなことは」
晁蓋様の目が鋭くなりました。
「同じことだ」
「へい」
ようやく認めました。
認めないよりはましです。
ただし、評価できるほど早くはございません。
「だが、俺は行けとは言ってねえ」
やはり、そこへ逃げますか……
私は文を持つ手に力を入れました。
「王英様が、行けと命じたかどうかだけを問われているのではございません」
「何ですって?」
「この照会が確認しているのは、梁山泊の意向として、本人の意思なき接触や引き渡しを促しているのかどうかでございます」
「俺は梁山泊の意向なんざ言ってねえ」
「梁山泊の頭領が女一人に恥をかかされて黙っているのか、とおっしゃいました」
王英様の口が閉じます。
「女一人に恥をかかされた。面目が立たない。そう言って楊雄様の私情を梁山泊全体の名へ結びつけました。外から見れば、酒席の軽口では済みません」
宋江様が苦い顔で頷かれました。
「こちらが本人の意思なき引き渡しを求めぬと返した直後だ。二龍山が疑うのも無理はない」
「疑いながらも、苦情ではなく照会の形を守っております。こちらが正式に答える余地を残してくださっただけ、まだ礼を尽くされております」
私は文面へ目を落としました。
相手は怒っているはずです。
警戒もしているでしょう。
それでも感情を前へ出さず、確認すべき事実だけを書いています。
しかも、王英様個人を責め切ってはおりません。
梁山泊として、どう考えているのか?
そこだけを問うています。
この文を書いた方は、こちらの足を止める方法を知っています。
呉用様が閉じた扇で手のひらを打ちました。
「やはり、よく見ておりますな」
「呉用」
晁蓋様が睨まれます。
「感心しておる場合か?」
「侮れぬ相手だからこそ、感心している場合でもあるのです」
呉用様は文を受け取りました。
「一通目で事実を確認し、二通目で返書との矛盾を拾う。王英殿だけを責めれば、梁山泊は個人の失言として切り離せます。ゆえに、山全体の意向を問う形にした。これでは誤魔化せません」
「答えます」
私は言いました。
「ただし、その前に、こちらの内側を改めます」
宋江様が私を見ました。
「何を加える?」
「これまで禁じたのは、私的な接触、聞き込み、二龍山および十字坡周辺への無断移動でした。しかし、本人が動かなくても、人を動かすことはできます」
私は王英様へ視線を向けました。
今度は逸らされませんでした。
逸らす先が尽きたのでしょう。
「行けと言わずとも、恥を語れば足を前へ出させます。命じなくても、面目を持ち出せば心を揺らせます。酒席の言葉であっても、梁山泊の名を添えれば、外からは圧力に見えます」
晁蓋様が腕を組まれました。
「口も禁ずるのか」
「話すことすべてではございません。本人の意思なき接触を促す発言、第三者を動かす示唆、面目や恥を理由に行動を促す言動を禁じます。直接命じていなくても、誰かを動かす意図があるなら、私的行動の一部として扱います」
「そんなことまで書くんですかい?」
王英様が口を挟みました。
「書かせた原因は、どなたでございますか」
王英様は黙りました。
少しずつ学習が進んでおります。
たいへん遅い進みではございますが、止まってはいません。
「楊雄様」
私は向きを変えました。
「先の返答は、今も変わりませんか?本人の意思を無視して、二龍山あるいは十字坡へ接触するおつもりはございませんか?」
楊雄様の顔は硬いままでした。
「……ない」
「では、改めて記録いたします」
「何度記録すれば気が済む」
「事が収まるまででございます」
楊雄様は言葉を飲み込みました。
石秀様が隣で腕を組み直します。
「俺は分かってる」
まだ尋ねておりません。
ですが、分かっているなら話が早いです。
「兄貴の足は止める。王英殿の話にも乗せねえ」
「ありがとうございます」
私は心から礼を言いました。
攻略本では、石秀様の情が血を呼びました。
兄のように慕う楊雄様のためなら、危うい方角へも迷わず踏み込む方です。
だからこそ、その情を止める側へ向けなければなりません。
原典の性格を消すのではなく、使い道を変える。
攻略本にも、そこまで親切な助言は載っておりませんでした。
「王英様」
私は、最後に問題の中心へ戻りました。
「今後、この件を酒席で話題にすること、楊雄様を刺激すること、梁山泊の面目や男の恥を持ち出して行動を促すことを禁じます」
「そこまでで?」
「二回目です」
王英様は、今度こそ何も言いませんでした。
その判断だけは正解です。
「書け」
晁蓋様が命じられました。
王英様が顔を上げます。
「今、ですかい?」
「今だ。二龍山へ返す前に、こちらを締める。婆惜、文を作れ」
「承知いたしました」
私は筆を取りました。
山賊の本拠で、私はまた規程を増やしております。
前世の会社でも、決まりは事故の後に増えました。
なぜ最初から分からないのかと皆が言いますが、最初から分かっていれば事故にはなりません。
悲しいほど正しい理屈です。
本人の意思なき接触を促す発言を禁ずる。
酒席において、面目や恥、男気を理由に、関係者の行動を揺さぶってはならない。
直接命じずとも、第三者を動かす意図のある言動は、私的行動の一部として扱う。
書き終えたところで、頭まで痛くなってまいりました。
九天玄女様――
白い帳面を渡すのでしたら、せめて規程の雛形も添えていただけませんか?
王英様、楊雄様、石秀様へ順に文面を確認させました。
石秀様はすぐに頷き、印を押しました。
楊雄様はしばらく黙っていましたが、やがて承知の印を残しました。
王英様だけは、長い間、文面を見つめています。
読めば読むほど、ご自分の逃げ道が減っていくのでしょう。
よく読んでください。
そのための文でございます。
「王英」
晁蓋様に促され、王英様は渋々、印を押しました。
小さな音でした。
けれど、その印が紙へ落ちた瞬間、ようやく梁山泊の内側に一本の杭が打たれた気がいたしました。
これで、二龍山への返答を書く準備が整いました。
王英様の発言が事実であることは認めなければなりません。
そのうえで、梁山泊の正式な意向ではなく、女二名について本人の意思なき引き渡しを求めるつもりもないと、明確に答える必要があります。
さらに、今後は直接の接触だけでなく、酒席での示唆や、面目と恥を用いた圧力、第三者を動かそうとする言動まで禁じたことを書かなければ、二龍山の問いへ答えたことにはなりません。
私は外向けの返書へ筆を移しました。
その時です――
文箱の横に置いていた白い帳面が、ひとりでに開きました。
火の影は、まだ消えておりません。
けれど、その横に、これまでなかった細い線が伸びています。
文の一行にも見えました。
山と山を結ぶ道にも見えました。
私は筆を止めました。
火を消すための返書を書くはずでした。
ところが、白い帳面は火のそばに道を示しています。
二龍山へ続く道でしょうか?
十字坡へ通じる道でしょうか?
それとも、この照会文を入口に、梁山泊そのものの行き先が変わるのでしょうか。
分かりません。
ただ、返書の末尾だけが、まだ白いままでした。
謝罪を書くだけなら、もう終えられます。
先の発言が梁山泊の意向ではないと答えれば、文の形も整います。
それでも筆が動きません。
ここへ何を書くかで、二龍山との関係が変わる。
白い帳面の細い線が、わずかに濃くなりました。
まるで、早く道を選べと告げるように……
私は空いた一行を見つめました。
その時、帳面の火が、細い線の先へ移りました。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
二龍山から届いた二通目の照会文について、内容を確認いたしました。
結論から申し上げます。
王英様の「行けとは言ってねえ」は、何の役にも立ちませんでした。
確かに命令はしておりません。
ただし、梁山泊の面目を持ち出し、男の恥を語り、妻を取り戻さなくてよいのかと楊雄様を煽っております。
そこまでしておいて、行けとは言っていないと主張するのは、前世の職場で申しますと、部下へ仕事を押しつけた後に「お願いしただけです」と説明するようなものでございます。
お願いされた側が断れない状況を作っていれば、名称を変えても中身は変わりません。
二龍山の文を書いた方も、同じように判断なさったのでしょう。
王英様お一人を責めるのではなく、梁山泊として女二名の引き渡しを促す意向があるのかと、山全体へ問い返してまいりました。
たいへん正確です。
正確すぎて、こちらには誤魔化す余地がございません。
そのため、二龍山と十字坡に関する内部の制限を改めました。
今後は、無断で近づくことや聞き込みを行うことだけでなく、面目や恥を使って第三者の心を揺さぶる発言も禁じます。
直接命じていない場合でも、人を動かす意図があれば私的行動の一部として扱います。
山賊の本拠で、酒席の発言に関する規程まで作る日が来るとは思いませんでした。
王英様には、しっかり読んでいただきました。
ご自分の逃げ道が一行ずつ消えていく文でございますので、たいへん熱心にご覧になっておりました。
最後には、王英様、楊雄様、石秀様の三名から承知の印をいただいております。
石秀様は、楊雄様の足を止めると明言なさいました。
攻略本では血を呼んだ情が、今回は人を止めるために働き始めています。
人の性格を変えずに進む方向だけを変える。
これは、稟議書より難しい仕事かもしれません。
これで梁山泊の内側は、ひとまず締めました。
次は、二龍山への正式な返書でございます。
王英様の発言が事実であること。
梁山泊の意向ではないこと。
女二名について、本人の意思なき引き渡しを求めないこと。
さらに、今後は酒席での示唆や第三者を動かす言動まで禁じたこと。
そこまで書けば、照会に対する回答としては整います。
ですが、白い帳面は返書の末尾を見て、火の横に一本の線を描きました。
文の行にも見えます。
山と山をつなぐ道にも見えます。
私は火を消すために返書を書いていたはずでした。
ところが、その火は消えませんでした。
細い線の上へ移り、まだ何も書かれていない末尾の先へ進んだのでございます。
次の問題は、返書の内容ではありません。
その文を、どこへつながる道にするかでございます。




