言っただけ、二回目でございます
閻婆惜でございます。
本日は、二龍山への返書を出した後のお話でございます。
返書は出しました。
使者も選びました。
呉用様の「会ってみたい」も、稟議案件として止めました。
楊雄様と石秀様には、一刻ごとの出頭を命じております。
王英様にも、二龍山および十字坡の件を口外しない旨を書いていただきました。
ここまで整えれば、普通は少し落ち着くはずでございます。
ですが、梁山泊で「普通」を期待する方が間違っておりました……
前世の職場でも、問題が収まりかけた日の飲み会ほど危険なものはありません。
会議室では黙っていた方が、酒の席で急に本音を漏らす。
署名した方が、盃を持った途端に「建前は建前で」と言い出す。
そして翌朝、誰かが青い顔で報告に来るのです。
昨日の件ですが、と……
昨日の件など、存在しない方がよろしいのですが……
今回、その嫌な予感を運んできたのは、王英様の笑い声でございました。
一度目は、余計な情報を渡しました。
二度目は、酒席で楊雄様を煽りました。
ご本人は、こうおっしゃいます。
「俺は何も行けとは言ってねえ」
ええ――
言ってはおりません。
ですが、言っていないことと、煽っていないことは別でございます。
本日は、「言っただけ」が二回目になった場合の処理を行います。
なお、白い帳面の火は、少しも空気を読んでくれません……
返書は出しました。
朱貴様は、返書を懐に収め、余計な寄り道もせず二龍山へ向かわれました。
会ってみたい、も止めました。
呉用様には、会見には目的と同意と手順が必要であり、稟議なしに文の向こうの方へ近づくことはできないと申し上げました。
楊雄様と石秀様には、一刻ごとの出頭を命じております。
王英様にも、二龍山および十字坡の件を口外しない旨を書いていただきました。
ここまで来れば、普通は少し落ち着くはずです。
少なくとも、前世の職場であれば、関係者へ注意喚起を出し、再発防止の文書を取り、先方へ正式回答を送った時点で、いったん経過観察に入ります。
もちろん、その後で再発することもあります。
ありますが、せめて当日くらいは静かにしていただきたい。
そう願うことは、贅沢なのでしょうか……
梁山泊では、どうやら贅沢だったようでございます。
夕刻、酒席の支度が始まりました。
返書を出した後であり、時遷様も戻り、楊雄様と石秀様も晁蓋様の前へ所在を示しました。
晁蓋様は、二人をしばらく睨んでおられましたが、追放も処罰もその場ではなさいません。
今は、二龍山からの返答を待つしかない。
その空気が、山の中に少しずつ広がっておりました。
だからでしょうか?
気が緩みました……
誰の、とは申しません。
いえ、申し上げます。
王英様です。
廊下の向こうから、王英様の笑い声が聞こえた時点で、私は白い帳面を閉じる手を止めました。
嫌な予感がいたしました。
前世の職場でも、問題が収まりかけた日の飲み会ほど危険なものはありません。
会議室では黙っていた方が、酒の入った席で本音を漏らす。
書類には署名した方が、盃を持った途端に「まあ、建前は建前で」と言い出す。
そして翌朝、誰かが青い顔で報告に来るのです。
昨日の件ですが、と……
昨日の件など、存在しない方がよいのですが……
私は、酒席へ向かいました。
今夜は大きな宴ではございません。
いくつかの卓に人が分かれ、簡単な酒と料理が置かれているだけです。
楊雄様と石秀様の姿もありました。
当然です。 一刻ごとの出頭を命じられたからといって、食事まで禁じたわけではございません。
ただし、自由に話してよいという意味でもございません。
王英様は、その近くで盃を片手に笑っておられました。
私は入口で足を止めました。
まだ気づかれておりません。
「いやあ、楊雄兄弟も難儀だな」
王英様の声が、妙に明るく響きました。
「女房に逃げられて、二龍山に庇われて、それで黙ってろとはな!」
石秀様の顔が変わりました。
楊雄様は、盃を持つ手を止めます。
私は、息を浅くしました。
そこです。 その一言です。
「王英殿」
石秀様が、すぐに声を挟みました。
「その話はやめた方がいい」
「何でだよ。俺は何も行けとは言ってねえ」
出た――
出ました。
とても早く出ました。
言っていない――
この逃げ道を用意した言葉は、たいへん危険です。
言っていないけれど、煽っている。
命じていないけれど、火を近づけている。
触っていないけれど、落ちるように押している。
前世なら、コンプライアンス研修の資料に載る発言でございます。
本人は、だいたい資料を読まない側ですが……
王英様は盃を揺らし、さらに続けました。
「ただな、女房に逃げられて、二龍山に庇われて、それで黙ってる男ってのも、俺には分からねえって話さ。梁山泊の頭領が、女一人に恥をかかされて何もできねえってんじゃ、面目が立たねえ」
場の空気が濁りました。
軽口の形をしているのに、言葉の中身は重い。
妻を取り戻せと言っている。
二龍山に庇われたことを恥と思えと言っている。
梁山泊の面目を、楊雄様の私情に結びつけている。
どれも、足を止められた方の心を動かすには十分な言葉です。
「兄貴」
石秀様が、楊雄様へ向き直りました。
「乗るな。今は動けねえ」
楊雄様は黙っています。
黙っていますが、顔は明らかに変わっておりました。
先ほど見た沈黙と、よく似ています。 承知したはずの口が閉じ、心だけが別の方角を向いている。
私は、そこで一歩進みました。
「王英様」
声を出した瞬間、酒席が止まりました。
王英様の盃が、宙で止まります。
石秀様は、すでにまずい顔をしていました。
楊雄様は、こちらを見ません。
見てください。
見ない方が、もっとまずいです。
「婆惜様……いや、今のは」
「記録対象でございます」
王英様の口が閉じました。
たいへんよろしい。
いえ、よろしくはございません。
閉じるなら、発言前に閉じていただきたかった。
「俺は、行けとは言っておりやせんぜ」
「はい、そう記録いたします」
「なら……」
「王英様は、楊雄様に対し、行けとは言っていない。ただし、女房に逃げられて二龍山に庇われ、それで黙っているのかという趣旨の発言をした。さらに、梁山泊の面目に関わるかのような発言をした。以上でよろしいでしょうか」
王英様の顔から、酒の赤みが少し引きました。
周囲の者たちも、急に盃を置き始めます。
そうです。
酒席の空気は、記録されると一気に冷めます。
前世でもそうでした。
「今の発言、議事録に残してよろしいですか」と言うだけで、急に全員が真顔になります。
皆様、残ると困る発言をなぜなさるのでしょうか?
「そこまで大げさな話じゃねえでしょう。酒の席ですぜ」
「酒の席だから問題なのです」
私は答えました。
「酒が入った場では、言葉の責任が軽くなるとお考えですか?」
「いや、そういう意味じゃ……」
「では、どういう意味でございましたか?」
王英様の目が泳ぎました。
こういう時、泳ぐ目は正直です。
口よりも、よほど正直です。
「ただ、男として情けねえって……」
「情けない、と楊雄様を煽ったのですね」
「煽ったわけじゃ」
「では、何を目的におっしゃいましたか?」
王英様は黙りました。
目的がない発言ほど危険なものはございません。
目的がないから止められない。
目的がないから責任も取らない。
それでいて、相手の心だけは動かす。
私は視線を楊雄様へ移しました。
「楊雄様」
楊雄様は、ようやくこちらを見ました。
「先ほどの発言を受けて、二龍山および十字坡方面へ動くおつもりはございますか?」
「……ない」
声に硬さがありました。
「承知いたしました。その返答も記録いたします」
「また記録か……」
「はい」
私は迷わず頷きました。
「記録されて困ることは、なさらないでくださいませ」
石秀様が、わずかに息を吐きました。 安堵か、疲労かは分かりません。
おそらく両方です。
「石秀様」
「何だ?」
「楊雄様をお止めください」
石秀様は、少しだけ顔を歪めました。
「俺がか?」
「義兄弟でございましょう」
「そうだが……」
「ならば、背中を押すのではなく、足を止めてください」
石秀様は黙りました。
これは少し酷な言い方だったかもしれません。
石秀様は、もともと楊雄様のために動く方です。
その情が、祝家荘でも人を動かしました。
けれど今は、その情が危うい。
情があるからこそ、止められる方でなければ困るのです。
「分かった」
石秀様は、短く答えました。
その返事は、楊雄様よりも、ずっとましでした。
「王英様」
私は、もう一度王英様を見ました。
「二龍山および十字坡の件を口外しない旨、すでにお書きいただいております」
「口外ってほどじゃ」
「今の酒席にいた方々は、全員、関係者でございますか」
王英様が詰まりました。
詰まってください。
そこは詰まるところです。
卓の周囲には、楊雄様と石秀様だけではなく、他の者もおります。
全員が二龍山照会の関係者ではございません。
誰かの耳に入れば、道へ出ます。
道へ出れば、二龍山へ届きます。
時遷様が言ったばかりです。
あちらは、こちらが思うより先に見ている。
それなのに、この方は酒席で火を振り回しました。
「申し開きは、晁蓋様の前でお願いいたします」
「今からですかい?」
「はい」
「酒が……」
「置いてください」
王英様は、本当に名残惜しそうに盃を見ました。
盃を惜しむ前に、信用を惜しんでください。
その後、私は王英様を連れて晁蓋様の前へ向かいました。
楊雄様と石秀様も同行させます。
酒席は、その場で静まり返りました。 背後で誰かが小さく咳をしましたが、笑う者はおりません。
当然です。
笑い声は、すでに記録対象になりました。
晁蓋様は、報告を聞き終えるまで一言も挟みませんでした。
その沈黙が怖い。
王英様は、途中で何度も何かを言いかけましたが、晁蓋様の顔を見るたびに口を閉じました。
学習機能が働いております。
遅いですが。
「王英」
晁蓋様が、ようやく口を開かれました。
「そなたは先ほど、何を書いた?」
王英様は答えません。
「二龍山と十字坡の件を口外せぬと書いたな?」
「へい……」
「その日のうちに酒席で喋ったか?」
「いや、喋ったというか」
晁蓋様の目が鋭くなりました。
「喋ったな?」
王英様は、肩を落としました。
「……へい」
「楊雄を煽ったか?」
「煽るつもりは」
「つもりは聞いておらぬ。煽ったか?」
王英様は、今度こそ黙りました。
晁蓋様は、卓を叩きませんでした。
それが、かえって重く感じられます。
「そなたは、女のことになると、梁山泊の名を軽くする」
王英様の顔が歪みました。
白秀英様の件が、部屋の中に影を落としました。
口に出さずとも、全員が分かっています。
一回目ではありません。
二回目です。
「次はない」
晁蓋様が言いました。
「今後、二龍山、十字坡、逃げた女二名に関する話題を酒席で口にした時点で、わしの前へ引きずり出す。よいな」
「へい」
王英様は、今度は早く返事をしました。
早ければ良いというものではございませんが、遅いよりはましです。
宋江様は、ずっと苦い顔をなさっておりました。
呉用様は扇を閉じたままです。
その閉じた扇が、白い帳面の影に重なって見えました。
嫌です。
とても嫌です。
「婆惜」
宋江様が、声をかけられました。
「はい」
「二龍山へは、まだ知らせぬのか?」
私は少し考えました。
こちらから追って訂正文を出すべきか……
しかし、朱貴様はすでに返書を持って出ています。
その後を追って、王英様がまた余計なことを言いました、とこちらから知らせる。
正直に言えば誠実ではあります。
ですが、その文自体が、二龍山へ新しい火種を渡すことにもなります。
何より、今は事実の広がりが読めません。
「まずは、内部記録にいたします」
私は答えました。
「酒席にいた者の名を確認し、外へ漏れたかを調べます。そのうえで、二龍山へ追加で知らせるべきか判断いたします」
呉用様が頷きました。
「妥当でしょう。こちらから慌てて文を重ねれば、返書の重みが崩れます」
「ただし」
私は言いました。
「もし二龍山から再度の照会が来た場合、こちらは隠せません」
部屋の空気が、少し重くなりました。
王英様は、また目を逸らしました。
逸らしても、文は来ます。
来る時は来ます。
白い帳面が、文箱の横でかすかに開きました。
頁の端に、火の影が残っています。
今はまだ、小さい。
けれど、消えてはいない。
その夜、私は酒席にいた者の名を記録しました。
誰が聞いていて、誰が席を立ち、誰が道番と親しいのかを、一つずつ確かめていきます。
こういう確認は、たいへん地味です。
物語の盛り上がりとしては、あまり映えません。
ですが、燃え広がる前の火種を追う作業とは、だいたい地味なものです。
派手になった時点で、もう遅いのです。
三日後――
朱貴様は、返書を届けて戻りました。
余計な話はしておらず、十字坡にも近づいていないとのことでした。
素晴らしい報告です。
私は心から安堵しました。
それから数日、表向きは何も起きませんでした。
楊雄様は、一刻ごとの出頭を続けております。
石秀様も、落ち着いているように見えます。
王英様は、晁蓋様の前では借りてきた猫のように身を縮めております。
その表現自体、まったく信用できないのですが、それでも騒ぎは起きません。
私は、少しだけ思いました。
もしかすると、このまま収まるのではないかと……
その考えが甘かったことを、七日目の朝に思い知らされました。
二龍山から、また文が届いたのです。
封じ方は丁寧でした。
字も整っています。
ただ、その表書きを見た瞬間、私は胃を押さえました。
梁山泊御中。
照会の件。
またでございますか……
白い帳面が、音もなく開きました。
今度の火は、前よりもさらに濃く見えました。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の確認事項は、「言っていない」と「煽っていない」は別である、という点でございます。
王英様は、たしかに「行け」とはおっしゃいませんでした。
ですが、女房に逃げられて黙っているのか、梁山泊の面目が立たぬのではないか、と酒席で口にしました。
それは命令ではございません。
しかし、命令でなければ安全というわけでもございません。
人の足は、命令だけで動くものではございません。
恥、面目、男としてどうなのかという言葉でも動きます。
とくに酒が入った席では、普段なら踏みとどまる足も、妙な方角へ向きがちでございます。
ですので皆様、酒席で「俺は別に行けとは言っていない」などと逃げ道を残しながら、人の心に火を近づけるのはおやめくださいませ。
それは火消しではございません。
火種の持ち込みでございます。
今回、王英様の発言は内部記録に残しました。
晁蓋様の前でも確認いたしました。
楊雄様には、二龍山および十字坡方面へ動かぬ意思を改めて確認いたしました。
石秀様には、義兄弟であるからこそ背を押すのではなく、足を止めるようお願いいたしました。
ここまでいたしましたので、私は一瞬だけ思いました。
収まるのではないかと……
ええ――
一瞬だけでございます……
その考えは、七日目の朝に砕けました。
二龍山から、また文が届いたのです。
表書きには、丁寧な字でこう記されておりました。
照会の件――
……二龍山の文を書いている方へ申し上げます。
たいへん正しいです。
たいへん正しいのですが、胃に悪うございます。
なお、白い帳面の火は、前よりも濃くなっておりました。
処理済みだと思った案件ほど、油断した頃に燃え上がります。
次回、二回目の照会文を開封いたします。
できれば開封せずに済ませたいところですが、そういうわけにもまいりません。




