会ってみたいも稟議です
閻婆惜でございます。
本日は、ようやく二龍山へ正式な返書を出します。
ようやく、でございます。
照会文を受け取り、楊雄様と石秀様の所在を確認し、王英様の余計な発言を拾い、時遷様に道を見ていただき、承知の印まで取って、やっと返書でございます。
ただの返信に、なぜここまで山全体が揺れるのでしょうか?
前世なら、メール一本で済みました。
いえ、前世でも、返信先を間違えた方、余計な方を宛先に入れた方、深夜に感情で送信した方のおかげで、部署が炎上することはございました。
時代が変わっても、人間はあまり変わりません。
今回の返書では、梁山泊として二龍山周辺の詮索を命じた事実はないこと、私的な聞き込みがあった可能性を確認したこと、今後は無断接触をさせぬよう監督することを伝えます。
もちろん、女二名の本人意思なき引き渡しは求めません。
そして、潘巧雲様と迎児様のお名前は書きません。
二龍山の文が名を伏せている以上、こちらから晒す理由はございません。
名を伏せた文には、名を伏せたまま返す。
それが最低限の礼儀でございます。
ところが、返書を出せば終わりとはなりませんでした……
呉用様が、二龍山の文を書いた方に興味を持たれたのです。
たいへん危険です。
楊雄様の「直接聞く」は感情の暴走でございました。
呉用様の「会ってみたい」は知略の好奇心でございます。
種類は違いますが、どちらも二龍山から見れば勝手な接触です。
ですので、本日は申し上げます。
会ってみたいも、稟議でございます。
なお、王英様については、話が自分のことから逸れたと思っている顔をなさっておりますが、実際は逸れておりません。
一時保留でございます。
――白い帳面の火は、まだ消える気配ごございません。
探っていたつもりが、探られていた。
時遷様の報告を聞いた瞬間、部屋の空気が変わりました。
楊雄様と石秀様は、十字坡までは入っておらず、途中で聞き込みをしただけ。
けれど、二龍山の周辺には、こちらを見ている目がある。
聞かれた者たちも、余計な名を出せば二龍山へ届くと分かっていた。
つまり、こちらが相手を調べているつもりで、相手からは足跡まで読まれていたということです。
大変よろしくありません。
前世の職場で言うなら、内々に済ませるつもりの確認事項が、すでに相手方の法務部へ届いていたようなものです。
最悪です。
しかも、こちらの関係者は楊雄様、石秀様、王英様。
胃に悪い名前しか並んでおりません。
「見られておったか」
晁蓋様が、ため息を吐かれました。
怒鳴らない分、余計に怖うございます。
時遷様は片膝をついたまま、真面目な顔で頷きました。
「へい、二龍山に近づく前から、道筋で警戒がありました。あちらは、こちらが思うより早く気づいております」
「誰の差配だ」
晁蓋様が問われます。
時遷様は、少し考え込むように目を伏せました。
「魯智深殿や武松殿のやり方とは違うでしょうな。腕で押さえる感じじゃねえ。道の者が、何を言ってよくて、何を言わねえ方がいいか分かっている。口の動きまで見られている感じです」
その言葉で、呉用様の目が細くなりました。
嫌な予感がいたしました。
この方がこういう目をなさる時は、たいてい何かに興味を持った時です。
そして呉用様の興味は、かなりの確率で誰かの人生を巻き込みます。
「やはり、文を書いた者でしょうな」
呉用様が言いました。
「名を伏せ、事実を置き、こちらに正式な回答を求める。そのうえ、周辺の口まで備えている。二龍山側にも、なかなか面白い方がおられるようです」
「呉用」
晁蓋様が、じろりと睨まれました。
「褒めておる場合か?」
「褒めているからこそ、侮れぬと申しております」
呉用様は穏やかに答えました。
その穏やかさが、逆に怖うございます。
私の胃は、まったく穏やかではありません。
「できることなら、一度会ってみたいものですな」
出ました。
出てしまいました。
私は、手元の返答文を押さえました。
楊雄様の「直接聞く」を止めたばかりなのに、今度は呉用様の「会ってみたい」でございます。
動機は違います。
楊雄様は、感情で走ります。
呉用様は、知略で近づきます。
けれど、二龍山から見れば、どちらも勝手な接触です。
むしろ、呉用様の方が厄介かもしれません。
感情で走る方は、足を押さえれば止まることがございます。
知略で動く方は、止めたつもりでも別の道を探します。
「呉用様」
私は、できるだけ丁寧に呼びました。
「何でしょう、婆惜殿」
「会ってみたいも稟議でございます」
部屋が、一瞬止まりました。
王英様が、妙な顔でこちらを見ました。
石秀様は、意味を考えるように眉を動かします。
楊雄様は、まだ不満を抱えた顔です。
呉用様だけが、少し楽しそうでした。
楽しそうにならないでください。
ここは笑う場面ではなく、申請書を出す場面でございます。
「会うだけでも、ですか?」
「はい」
「敵意はありませんぞ」
「敵意の有無ではございません。相手が会うことを望むのか、二龍山として許すのか、梁山泊として何を目的にするのか、誰が同行するのか、何を話し、何を話さないのか。それを決めずに会いに行けば、ただの私的接触でございます」
私はそこで、楊雄様の方を見ました。
「つい先ほど、それを禁じたばかりでございます」
楊雄様の顔が、さらに険しくなりました。
申し訳ございません。
ですが、ここは刺すところです。
「なるほど」
呉用様は、閉じた扇で手のひらを軽く叩きました。
「私も監督対象ですかな?」
「案件によります」
「厳しいですな」
「厳しくしなければ、全部燃えます」
本当に燃えます。
白い帳面は、まだ火を見せているのです。
晁蓋様が、そこで大きく頷かれました。
「婆惜の言う通りだ。まず返書を出す。会う、会わぬはその後に考える」
「晁蓋殿」
宋江様が口を開かれました。
「返書は、わしの名で出そう。ただし、こちらが命じていないとだけ書けば、責任逃れに見える。そこは避けたい」
「では、どうする?」
晁蓋様が問われます。
私は、整えていた文を卓の中央へ置きました。
梁山泊として、二龍山周辺の詮索を命じた事実はございません。
関係者による私的な聞き込みがあった可能性については確認し、今後、当山の許可なく二龍山および十字坡周辺へ接触させぬよう監督いたします。
女二名について、本人の意思なき引き渡しを求めるものではございません。
必要があれば、貴山の保護下において、当人らの意思確認をお願い申し上げます。
読み上げると、部屋は静まりました。
墨の匂いだけが、やけに濃く感じられます。
「潘巧雲の名は書かぬのか」
楊雄様が言いました。
私は、すぐに答えました。
「書きません」
「なぜだ」
「二龍山の照会文には、潘巧雲様のお名前はございませんでした。迎児様のお名前もございません。相手が伏せた名を、こちらから晒す理由はございません」
「俺の妻だ」
「その件は、すでに記録しております」
楊雄様の口が止まりました。
記録――
たいへん便利な言葉です。
それだけで相手を縛れるわけではありません。
けれど、後から逃げ道を塞ぐことはできます。
「名を伏せた文には、名を伏せたまま返す」
宋江様が、文面を見ながら言いました。
「礼にもかなう」
「はい」
私は頷きました。
「こちらが相手の保護下にある方の名を勝手に書けば、それだけで圧になります」
石秀様が、目を伏せました。
何か思うところがあったのかもしれません。
あってください。
今後のためにも、ぜひあってください。
「使者は誰にする」
晁蓋様が問われました。
ここも重要です。
戴宗様は朱仝様の件で不在。
時遷様は偵察帰りであり、今この返書を持たせれば、二龍山側には探りの延長に見える恐れがあります。
楊雄様と石秀様は論外。
王英様も論外です。
論外が多すぎます。
梁山泊、人材は多いはずなのに、こういう時に使える方が急に減ります。
「朱貴様がよろしいかと」
私は言いました。
「朱貴か」
晁蓋様が少し考えられます。
「はい、道の扱いを知っておられますし、商いの顔もあります。兵を率いる方ではありません。威圧になりにくいかと」
呉用様が頷きました。
「よいでしょう。文だけを届け、返答を急かさず戻らせる。余計な聞き込みは禁じるべきですな」
「もちろんでございます」
私はすぐに答えました。
ここで「ついでに様子を見てこい」などと言われたら、最初からやり直しです。
前世でも現世でも、「ついでに」と言って偵察や聞き込みや接触を足した案件ほど、よく燃えます。
「朱貴様には、返書を届ける以外の行動を禁じます。二龍山の方々と接触する場合も、文の受け渡しに限ります。十字坡には近づかせません」
「そこまで書くのか」
宋江様が、少し驚いたように言いました。
「はい、使者向けの指示書に書きます」
「指示書」
王英様が、つい口を挟みました。
「文を届けるだけで、そんなものまで要るんで?」
私は、王英様を見ました。
見ただけです。
王英様は、すぐに口を閉じました。
たいへんよろしい。
学習機能が、ほんの少しだけ働いているようです。
「必要でございます」
私は言いました。
「文を届けるだけ、という言葉ほど危険なものはございません。届けた先で話しかけられ、聞かれ、酒を勧められ、相手の顔色を見て、余計なことを言う。そうなれば、届けるだけではなくなります」
王英様が、さらに目を逸らしました。
あなたのことです。
かなり、あなたのことでございます。
「朱貴を呼べ」
晁蓋様が命じられました。
ほどなくして、朱貴様が入ってこられました。
水辺の風に慣れた方の落ち着きがあります。
こういう時、声の大きな武人よりずっと安心できます。
私は返書と、使者向けの指示書を渡しました。
「朱貴様……二龍山へ返書を届けてください。十字坡へは近づかないでください。文の内容について、こちらから説明を足さないでください。相手から問われた場合は、返書に記した通りでございます、とだけお答えください」
朱貴様は文を受け取り、目を通しました。
「承知した」
短い返事でした。
素晴らしい。
この一言が、どれほどありがたいか…… さきほどまで「聞いている」と「承知した」の差で胃を削られていた私には、染みるほど分かります。
「道中、二龍山側の者がこちらを見ている可能性がございます」
「見られる前提で行く」
朱貴様は淡々と言いました。
「急がず、寄らず、探らず、戻ればよいのだな」
「はい」
完璧です。
これが業務理解というものです。
私は、心の中で朱貴様に最高評価をつけました。
宋江様が返書に目を通し、ご自身の名を入れられます。
晁蓋様も確認なさいました。
呉用様は、最後まで文面を見ていました。
その目が、まだ少し楽しそうなのが気になります。
「呉用様」
「何でしょう?」
「会見については、返答が来てからでございます」
「分かっております」
本当でしょうか。
この「分かっております」も、私はあまり信用しておりません。
前世で「検討します」と言われて何も進まなかった案件と同じくらい、信用しておりません。
「必要であれば、目的、相手方の同意、同行者、議題、禁止事項を明記した稟議書をお願いいたします」
呉用様は、そこでとうとう笑いました。
「婆惜殿は、神仙にも軍師にも容赦がありませんな」
「神仙にも稟議が必要でございます。軍師様であれば、なおのことでございます」
宋江様が咳き込みました。
晁蓋様は、わずかに口元を緩められました。
楊雄様は面白くなさそうでした。
石秀様は黙っています。
王英様は、話が自分のことから逸れたと思っている顔をしています。
逸れておりません。
一時保留です。
朱貴様は返書を懐に収め、静かに一礼しました。
「では、参る」
その背が戸の向こうへ消えていきます。
ようやく、梁山泊から二龍山へ正式な返書が出ます。
ここまで長かった。
照会文が届き、楊雄様と石秀様が勝手に動き、王英様の余計な口が混ざり、時遷様が探り、署名を取り、一刻ごとの出頭まで決めて、やっと返書です。
ただの返信に、なぜここまで山が揺れるのでしょうか。
前世のメールなら、返信ボタンを押して終わりです。
いえ、違いました。
前世でも、返信先を間違えた方、余計な方をCCに入れた方、深夜に感情で送信した方によって、部署が燃えることはございました。
そう考えると、時代が変わっても人間はあまり変わりません。
私は白い帳面を見ました。
火の影は、まだ薄く残っています。
ただ、その横に細い道が一本ありました。
道の上に、人の足跡が続いています。
そして、その端に、閉じた扇のような影が落ちていました。
呉用様の扇でしょうか?
それとも、文の向こうにいるどなたかの手でしょうか?
正体は分かりませんが、嫌な感じはいたします。
返書は出ました。
会ってみたい、も止めました。
楊雄様の足も、今は晁蓋様の前に縛られております。
これで少しは落ち着くはずでした。
その日の夕刻、酒席の用意が始まるまでは……
廊下の向こうで、王英様の笑い声が聞こえました。
私は、白い帳面を閉じる手を止めると、火の影が少しだけ濃くなっておりました。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の確認事項は、以下の通りでございます。
返書を出したからといって、案件が終わったとは限りません。
むしろ、正式な文を出した瞬間から、こちらの言葉には責任が発生いたします。
命じていないと答えるなら、命じていない状態を保たなければなりません。
本人の意思なき引き渡しを求めないと書くなら、その意思に反する動きを内部から出してはなりません。
紙は便利です。
ですが、書いた後に裏切ると、証拠にもなります。
今回の返書は、朱貴様に託しました。
人選は大切です。
こういう場合、強すぎる方を送れば威圧になります。
軽すぎる方を送れば余計な話が増えます。
探りに向いた方を送れば、相手からは偵察に見えます。
文を届けるだけの仕事には、文を届けるだけで戻れる方が必要です。
朱貴様は、その点たいへん優秀でございました。
急がず、寄らず、探らず、戻る。
この理解が最初からある方は、大変ありがたく存じます。
前世で言うなら、要件だけ伝えて余計な雑談を増やさず帰ってくる営業担当のようなものでございます。
社内評価は高いです。
一方で、呉用様の「会ってみたい」は止めました。
知略ある方が、知略ある相手に興味を持つこと自体は自然でございます。
ですが、外部勢力の保護下にいる方へ、目的も同意も手順も定めず接触しようとするのは別問題です。
会見は交流ではなく、案件でございます。
案件である以上、稟議が必要です。
神仙にも稟議が必要なのですから、軍師様であれば、なおさらでございます。
なお、王英様は本日、話が自分のことから逸れたと思っていたようです。
逸れておりません。
返書を出し、使者を立て、呉用様の興味も止めました。
一見すると、火は小さくなったように見えます。
けれど、火種はまだ残っております。
特に、酒席で笑い声が聞こえた時は注意が必要です。
皆様も、書類上は処理済みになった案件ほど、宴の席で再燃しないかご確認くださいませ。
なお、白い帳面の火は、まだ消える気配がございません。




