帳面
閻婆惜でございます。
本日は、二龍山より届いた照会文への対応を進める予定でございました。
予定でございました、という時点でお察しくださいませ。
梁山泊では、予定通りに進む案件の方が珍しゅうございます。
十字坡にいた女二名について、二龍山から正式な問い合わせが届きました。
しかも、その文には楊雄様と石秀様の名が関わるようにも読める記載がありました。
では、ご本人方を呼んで確認いたしましょう。
そう思ったところ、御二方はすでに寨内におりません。
大変よくありません。
さらに、出立前に王英様と言葉を交わしていたとの報告まで入りました。
もっとよくありません。
王英様は、おそらく「大したことではない」とおっしゃるでしょう。
ですが、女絡みの案件における王英様の「大したことではない」は、火のついた薪を藁のそばへ置いて「燃やしてはいません」と言うくらい危険でございます。
今回は、その雑談がどこまで火種になっているのかを確認いたします。
そして、もう一つ。
白い帳面が見せた火の影は、まだ消えておりません。
私が触っていないはずの場所で、何かが変わっております。
九天玄女様――
追加業務の配分について、後ほど一度ご相談させていただきたく存じます。
白い帳面を閉じても、落ち着きませんでした。
頁は閉じています。
けれど、そこに浮かんだ火の色が、私の目の奥に残っているのです。
逃げる女の影があり、その先で火だけが揺れていました。
そして最後に滲んだ一字……
王――
王英様は、その字を見たわけではございません。
見えていないはずです。
それでも、晁蓋様に睨まれた王英様は、珍しく口元の軽さを失っておりました。
「洗いざらい申せ」
晁蓋様の声は鋭く、まっすぐでした。
怒鳴り声ではありません。
だからこそ、逃げ道がありません。
王英様は首の後ろを掻こうとして、途中で手を止めました。
「いや、その……ほんの雑談でさあ」
「雑談かどうかは、こちらで判断する」
晁蓋様は、そう言って王英様の動きを封じます。
宋江様は黙っておられました。
呉用様も、扇を開きません。
私も、白い帳面の上に手を置いたまま、口を挟む時を待ちました。
ここで急かすと、王英様は余計なことを言って、肝心なところだけ隠します。
面倒な方です。
本当に……
「王英様」
私は静かに声をかけました。
「楊雄様と石秀様に、何をお話しになりましたか?」
王英様はこちらを見ました。
目が落ち着きません。
「だから、大したことじゃありやせん」
「大したことかどうかは、内容を聞いてから判断いたします」
「……十字坡の話を、少し」
晁蓋様の眉が動きました。
「なぜ十字坡の話をした」
「いや、あの二人が女を探してるようでしたんで」
「女――」
晁蓋様の声が鋭さを増しました。
王英様は、そこでようやく自分が踏んだものの感触に気づいたようでした。
しかし、もう遅いです。
「十字坡に、前に女が二人いたって話でさあ。片方は帳面をつけてたとか、もう片方は下女だとか。孫二娘と張青も絡んでるらしいって……それを、まあ」
「まあ、何ですか?」
私が促すと、王英様は小さく息を吐きました。
「言っただけでさあ」
言っただけ――
便利な言葉です。
投げた石が誰かに当たっても、投げただけ。
火のついた薪を乾いた草へ置いても、置いただけ。
前世の職場でも似たような言い訳は何度も聞きました。
共有しただけ。
雑談のつもり。
悪気はなかった。
悪気の有無で、炎上した書類は元に戻りません。
「王英様」
私は言いました。
「それは、ただの雑談ではございません」
「でも、俺は二龍山へ行けとも言ってねえし、女を連れ戻せとも言ってねえ」
「行き先の手掛かりを渡しています」
王英様が口を噤みました。
「帳面をつけていた女、下女、孫二娘様、張青様、十字坡。その言葉が揃えば、楊雄様と石秀様には十分です」
晁蓋様の声に、怒気が滲みました。
「火種を渡したか……」
王英様の顔が強張ります。
「俺は、そんなつもりじゃ……」
「つもりで済むなら、山は燃えぬ」
晁蓋様の声は、かえって静かになりました。
「祝家荘の件で、楊雄と石秀が持ち込んだ火がどこまで広がったか、そなたも見ておるはずだ。そこへ、そなたがまた女絡みの火種を足すか」
王英様は反論しませんでした。
できなかったのでしょう。
それでも、完全に理解した顔ではありません。
この方は、自分の言葉が相手をどう動かすかを、あまり考えません。
自分が何を欲しがるかは考える。
相手がどう傷つくかは、後からしか見ない。
だから危ういのです。
私は王英様の発言を短く書き留めました。
彼が何を言ったか。
いつ、どこで、誰に話したか。
それが命令ではなかったこと。
けれど、行動の誘因になり得ること。
書いておかなければ、後でまた「大したことではない」へ戻されます。
言葉は、帳面に置いて初めて逃げにくくなるのです。
「王英は、当面この件に近づけぬ」
晁蓋様が言いました。
王英様が顔を上げます。
「晁蓋兄貴」
「黙れ」
一言でした。
王英様の口が閉じます。
晁蓋様は続けました。
「楊雄と石秀が戻るまで、そなたはここを動くな。二龍山、十字坡、女二人の件について、誰とも話すな」
「へい……」
「返事が軽い」
「承知しました」
ようやく、王英様の声が少し沈みました。
私は胸の奥で息を吐きます。
これで一つ止めました。
ただし、後手に回っております。
すでに楊雄様と石秀様は寨内におりません。
時遷様も戻っていません。
二龍山への仮返答は、まだ文箱の上にあります。
出すには早い。
出さないには遅い。
嫌な位置に置かれた書類ほど、重く見えるものはありません。
昼が過ぎ、寨の中の声が変わりました。
遠くで兵の稽古の音がします。
誰かが笑い、誰かが呼び合い、いつも通りの梁山泊が続いています。
けれど、この部屋だけは、時間の流れが鈍くなっておりました。
宋江様は何度か戸の方を見ました。
晁蓋様は黙って腕を組んでいます。
呉用様は二龍山の照会文を読み返していました。
私は仮返答の文面を、少しだけ直しました。
王英様が十字坡に関する話をした可能性がある。
ただし、梁山泊として二龍山周辺の詮索を命じたものではない。
関係者の帰還を待ち、事実確認を行う。
保護下の者については、本人の意思を尊重する。
書けることだけを書きます。
書けないことは、書かない。
これだけは守らなければなりません。
夕刻になって、ようやく南門から報せが届きました。
楊雄様と石秀様が戻った、と。
時遷様の名はありません。
私は戸の方を見ました。
王英様は、思わず身を固くしました。
晁蓋様が命じます。
「通せ」
ほどなくして、楊雄様と石秀様が入ってきました。
二人とも、足元に土がついています。
長旅というほどではありません。
けれど、寨を出て近場で遊んでいた顔でもありません。
楊雄様の表情は硬く、石秀様はいつものように周囲を見ていました。
ただ、その目が王英様を見た時、ほんの一瞬だけ細くなります。
「どこへ行っておった?」
晁蓋様が問いました。
楊雄様は答えに詰まり、石秀様が代わりに口を開きかけます。
「石秀様」
私は先に呼びました。
「まず、楊雄様にお答えいただきます」
石秀様の口が閉じました。
楊雄様は、悔しそうに唇を噛みます。
「少し、確かめたいことがあった」
「何をですか?」
「十字坡のことだ」
王英様の肩が、かすかに揺れました。
晁蓋様は見逃しません。
もちろん、私も見逃しません。
「十字坡へ行ったのか?」
宋江様が尋ねました。
楊雄様は首を振りました。
「そこまでは行っていない。途中で話を聞いただけだ」
「何の話を?」
「女が二人、十字坡から消えたという話だ」
私は、二龍山の照会文を手に取りました。
「その件について、すでに二龍山より梁山泊へ照会が届いております」
楊雄様の顔が変わりました。
石秀様も、はっきり動きを止めました。
「二龍山から?」
楊雄様の声が掠れます。
「はい、十字坡にいた女二名の行方、帳面をつけていた者、下女であった者、孫二娘様と張青様の所在について、詮索があったと記されております」
楊雄様は、息を呑みました。
そして、ほとんど無意識のように呟きました。
「女二名……巧雲と、迎児か」
石秀様の目が、鋭く楊雄様へ向きました。
遅いです。
今の一言は、もう戻せません。
私は、二龍山の照会文を静かに卓へ置きました。
「楊雄様」
「何だ?」
「私は、まだお名前を申し上げておりません」
楊雄様の顔から、血の気が引きました。
王英様まで息を止めています。
「照会文にも、潘巧雲様のお名前はございません。迎児様のお名前もございません」
石秀様が、そこで目を伏せました。
彼は理解したのでしょう。
二龍山は名を伏せている。
閻婆惜も名を出していない。
名を出したのは、楊雄様ご本人です。
「……見られていたのは、こちらか……」
石秀様が、小さな声で呟きます。
その声には、初めて明らかな苦さが混じっていました。
そうです。
石秀様……
あなた様は見ていたつもりだった。
探っていたつもりだった。
けれど、探られた言葉は記録され、梁山泊へ先に届いております。
これは、逃げた女の怯えた文ではありません。
先に手を打つ方の文です。
私は、白い帳面を見ました。
攻略本の中で、潘巧雲様と迎児様は死ぬはずでした。
楊雄様と石秀様の手によって、逃げ場を失い、命を落とすはずだった方々です。
けれど今、楊雄様の口から二人の名が出ました。
死者の名ではありません。
探されている者の名として……
つまり、生きている。
潘巧雲様も……
迎児様も……
私は、この件にはまだ何もしておりません。
稟議書も出していません。
戴宗様も使っていません。
誰かを逃がした覚えもございません。
九天玄女様……
これ、私のせいだけではございませんよね……
天上に向かって、心の中でかなり失礼なことを申し上げました。
しかし、言いたくもなります。
私が触っていない場所でも、筋書きはもう変わっているのです。
ならば、私一人に追加業務を積み上げるのは、いささか不公平ではございませんか?
白い帳面は、返事をしません。
当然です。
返事をする帳面など、それはそれで困ります。
「巧雲は……」
楊雄様が、ようやく声を絞り出しました。
「生きているのか?」
私は答えませんでした。
答えられません。
二龍山の文は、生存を直接書いているわけではありません。
ですが、保護下にある者を本人意思なく渡さないという一文がある。
少なくとも、二龍山側は、その女二名を物ではなく、人として扱っている。
「確認中でございます」
私がそう言うと、楊雄様の表情が歪みました。
「俺は夫だ」
その言葉に、部屋の空気がまた変わります。
夫――
攻略本で、潘巧雲様を死へ追い込む言葉。
この場では、権利のように響いています。
私は、二龍山の照会文に視線を落としました。
本人の意思なく外へ渡すこともございません――
あちらは、先に線を引いています。
「夫であることと、本人の意思なく引き渡しを求めることは別です」
楊雄様の目には、怒りと困惑と焦りが、ほどけないまま混じっておりました。
石秀様は黙っていました。
けれど、その沈黙は先ほどまでと違い、こちらを測る沈黙ではありません。
先手を取られた者の沈黙です。
その時、白い帳面の端が、かすかに震えました。
火の色は消えていません。
王の字も、まだ薄く残っています。
そして、火の向こうに、細い墨の線が一本だけ伸びました。
まるで、こちらとどこかをつなぐ道のように……
私は、息を呑みました。
まだ終わっていない……
むしろ、ここからです。
楊雄様が、声を押し殺して言いました。
「ならば、俺は直接聞く」
石秀様が顔を上げると、晁蓋様の目が鋭くなりました。
私は、白い帳面の奥で、火の影がまた濃くなった気がしました。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の確認事項は、以下の通りでございます。
外部勢力から正式な照会文が届いている最中に、関係者が勝手に動いていた場合、まず必要なのは追及ではなく記録でございます。
誰が、誰に、どのような言葉を渡したのか?
それが命令でなかったとしても、相手の足を外へ向けさせたなら、ただの雑談として処理することはできません。
「言っただけ」は、大変便利な言い訳でございます。
ですが、火種を渡した方が火をつけていないとおっしゃっても、燃えやすい場所に置いた事実は残ります。
また、文に書かれていない名前を本人が口にした場合、その一言は重要な確認材料になります。
今回は、二龍山の照会文には潘巧雲様と迎児様のお名前はございませんでした。
それでも、楊雄様がご自身で名を出されました。
「帳面をつけていた女」と「下女」という二つの記載だけで、思い当たる方がいたということです。
なお、夫であることは事情の一部ではございますが、本人の意思を無視して引き渡しを求める根拠にはなりません。
この点は、今後も非常に燃えやすい案件となりますので、各位くれぐれもご注意くださいませ。
特に「直接聞く」とおっしゃる方が現れた場合は、質問なのか、連行なのか、対外折衝なのかを必ず切り分けてください。
切り分ける前に出発されますと、また私の白い帳面が勝手に火を見せます。
九天玄女様――
帳面に出る火災予兆につきましては、せめて事前申請制にしていただけますと、現場としては大変助かります。




