承認印より先に、黒い斧
閻婆惜でございます。
本日は、朱仝様入山の件について、実行前の最終調整を行います。
前回、雷横様より御提案のあった稟議書には、小衙内様、李逵様の監督者、撤退条件に関する記載が不足しておりました。
そのため修正を求めたところ、承認印を押す前に、李逵様が到着してしまいました。
順序が違います。
非常に違います。
李逵様は宋江様のためならよく動かれる方ですが、よく動くことと、止まれることは別でございます。
今回は、李逵様の役割を明確にし、戴宗様を追跡および緊急停止役として配置いたします。
子供を巻き込む案件に、大げさという言葉はございません。
本日は、黒い斧が先に動かないよう、書面と人員を整えます。
承認印より先に、黒い斧が来ました。
戸の向こうで、重いものが壁に当たった音がします。
斧です。
間違いようがございません。
「宋江兄貴! 俺を呼んだって聞いたぞ!」
声だけで、部屋の空気が一段荒くなりました。
雷横様は肩を強張らせ、呉用様は目を閉じ、宋江様は深く息を吐きます。
私は稟議書の上に手を置きました。
まだ承認印は押しておりません。
なのに、実行者だけが扉の向こうで待機しています。
手続きより現場が先に走る。
最も避けたい状態です。
「お入りくださいませ」
私が言う前に、戸が開きました。
李逵様が顔を出します。
相変わらず大きい……
声も大きい……
背負った斧も大きい……
案件の危険度まで大きくなった気がします。
「兄貴、誰を斬ればいい!」
「誰も斬りません」
私は即答しました。
李逵様が、こちらを見ました。
「なんだ、婆惜か。俺は兄貴に呼ばれて来たんだ」
「はい……ですから、まず座ってくださいませ」
「座る?」
「案件説明が終わっておりません」
「説明なんぞ要らねえ。兄貴が言えば、俺は行く」
「それが一番困ります」
部屋が静まりました。
李逵様が目を丸くします。
宋江様が、低い声で言いました。
「李逵、座れ」
「兄貴がそう言うなら座る」
李逵様は不満そうに床へ腰を下ろしました。
斧は背から下ろしません。
私は斧を見ました。
「武器は、いったん脇へ置いてくださいませ」
「嫌だ」
「まだ使用許可が出ておりません」
「斧に許可なんぞ要るか」
「今回の案件では要ります」
李逵様は口を開けたまま、宋江様を見ました。
宋江様は目を逸らしません。
「置け」
「……兄貴が言うなら」
李逵様は渋々、斧を床へ置きました。
重い音がします。
それだけで、白い帳面に浮かんだ黒い影を思い出しました。
黒い斧。
童。
朱。
まだ頭から消えておりません。
その時、外から別の足音が近づきました。
晁蓋様です。
「何事だ。朝から騒がしい」
「晁蓋様、朱仝様入山勧誘に関する稟議書の調整中でございます」
「調整?」
晁蓋様は部屋の中を見回しました。
雷横様。
呉用様。
宋江様。
李逵様。
床の斧。
卓上の稟議書。
理解が早い方で助かります。
「まだ決まっておらぬのに、李逵が来ておるのか……」
「はい」
晁蓋様は太い眉を寄せました。
「それは順が違う」
「その通りでございます」
私は修正途中の稟議書を広げました。
「本件は雷横様の御提案により、朱仝様を梁山泊へお迎えするものです。ただし、現行案には小衙内様、李逵様の監督者、撤退条件に関する記載が不足しております」
「小衙内?」
李逵様が首を傾げました。
「子供か?」
「はい。朱仝様が現在お世話をしているお子様です」
「そいつをどうするんだ?」
「何もしないための確認をしています」
李逵様には難しかったようです。
眉間に深い皺が寄りました。
「何もしねえなら、何で俺が呼ばれたんだ?」
私もそれを確認したいところです。
視線を呉用様へ向けました。
呉用様は静かに口を開きます。
「李逵には、相手に本気を示す役目を担ってもらうつもりでした」
「本気を示す」
私はその言葉を稟議書の余白へ書きました。
「具体的には、威嚇役という理解でよろしいですか」
「言葉を選べば、そうなりましょう」
「では、実行補助者ではなく、威嚇要員へ変更いたします」
「婆惜殿」
「はい」
「言い方が物騒になります」
「内容が物騒でございます」
呉用様は扇を開きかけ、途中で止めました。
学習は継続中のようです。
私は筆を進めました。
一、李逵様の役割は威嚇要員に限定。
二、単独行動禁止。
三、小衙内様への接触禁止。
四、武器使用禁止。
五、宋江様または戴宗様の明確な指示なく行動不可。
六、現地で子供、女、老人、従者等、無関係者を巻き込まない。
李逵様が声を上げました。
「待て待て、俺は何をすりゃいいんだ?」
「立っていてくださいませ」
「立ってるだけか!」
「必要な時のみ、怖い顔をしてください」
「俺はいつも怖い顔だぞ」
否定できません。
「では、そのままで結構です」
雷横様が、少しだけ息を漏らしました。
笑ったのではありません。
緊張がわずかに抜けただけです。
宋江様も、苦い顔ながら口元を押さえておられます。
ただし、笑って済ませる案件ではありません。
私は李逵様を見ました。
「李逵様」
「なんだ」
「今回、李逵様を信用しないと言っているのではありません」
「じゃあ何だ」
「李逵様を一人で動かす運用を信用していないのです」
「運用?」
しまった――
現代寄りの言葉でした。
しかし、言い直すより押し通した方が早い時もあります。
「使い方の話でございます」
「ああ、使い方か」
意外と通じました。
「李逵様は、宋江様のためなら力を尽くされます。そこは分かっております。ですが、力を尽くしすぎた時、途中にいる人が壊れます」
李逵様の顔から、不満が少し消えました。
「俺は兄貴のためにやるだけだ」
「はい……だから、宋江様のためにも止まる決まりを作ります」
宋江様が静かに頷きました。
「李逵、婆惜の言う通りだ。わしのためと言って、子を傷つけることは許さぬ」
「子供なんざ斬らねえよ」
「ならば、それを書面に残してくださいませ」
「書くのか?」
「はい」
李逵様は嫌そうな顔をしました。
「俺は字が好きじゃねえ」
「そこは代筆いたします」
「ならいい」
よいのでしょうか……
よいことにします。
次に必要なのは、止める人です。
「戴宗様をお呼びください」
すぐに使いが走りました。
しばらくして、戴宗様が現れます。
呼ばれた理由が分からない顔でした。
「婆惜殿、何用でしょう」
「朱仝様入山勧誘に関する件で、戴宗様に追跡および緊急停止役をお願いいたします」
戴宗様は一度、李逵様を見ました。
それから、床の斧を見ました。
最後に、私を見ました。
「なるほど……面倒な役ですな」
説明が早くて助かります。
「面倒ですが、戴宗様でなければ務まりません」
「褒められている気がしません」
「適任という意味でございます」
「余計に逃げにくい……」
戴宗様は苦笑しました。
李逵様が不満げに口を挟みます。
「なんで戴宗が俺を見張るんだ?」
「見張りではありません」
私は言いました。
「追跡および緊急停止役です」
「同じだろ」
「違います」
「どう違う?」
「書面上、違います」
李逵様は分からない顔をしました。
戴宗様は額を押さえました。
「婆惜殿、それは説明になっておりません」
「では、実務上も申し上げます。李逵様が走った時、追えるのは戴宗様です。李逵様が熱くなった時、宋江様へ知らせを戻せるのも戴宗様です。小衙内様を先に逃がす必要が出た時、最も早く動けるのも戴宗様です」
戴宗様の目が細くなりました。
最後の一つで、意図に触れたのでしょう。
「小衙内様を先に、ですか?」
「はい」
呉用様がこちらを見る気配がしました。
私は視線を返しません。
攻略本の記憶を、そのまま言うわけにはいきません。
けれど、安全策としてなら書けます。
「未成年者保護策として、危険兆候が出た場合、戴宗様は策の成否より小衙内様の安全確保を優先してください」
部屋の温度が変わりました。
呉用様が、静かに言います。
「それでは、朱仝殿を動かす契機が失われる可能性があります」
「契機より人命が先です」
「人命に危険がない場合は?」
「危険がないことを、誰が確認しますか?」
呉用様は黙りました。
晁蓋様が腕を組みます。
「婆惜の言う通りだ。梁山泊は子を斬って人を集める山ではない」
宋江様も続けました。
「わしも認めぬ」
雷横様は、深く頭を下げました。
「俺もだ。朱仝を迎えたい。だが、小衙内を害してまでとは言わねえ」
その言葉を聞いて、私は少しだけ息をつきました。
雷横様が言ってくださることに意味があります。
これは、雷横様の恩返しから始まった案件です。
提案者が子供を傷つけないと明言した。
ならば、呉用様もそこを盾にできません。
私は最終修正欄へ書き込みました。
七、小衙内様の安全確保を策の成否より優先。
八、危険が生じた場合、戴宗様判断で即時撤退可。
九、朱仝様本人への説明時、梁山泊入山は強制せず、選択肢として提示。
十、策に変更が生じた場合、帰山後すみやかに報告。
「これで、修正版といたします」
私は筆を置きました。
晁蓋様が内容を読み、宋江様へ渡します。
宋江様が黙って目を通しました。
雷横様は俯き、李逵様は退屈そうに足を揺らし、戴宗様はすでに頭の中で道筋を組んでいる顔です。
呉用様だけが、紙の端をじっと見ていました。
「呉用様」
「はい」
「ご不満はございますか?」
「不満ではなく、確認です」
「どうぞ」
「ここまで縛って、朱仝殿が来るとお思いですか?」
その問いは、正しい。
策として見れば、甘くなる。
追い込みが弱くなる。
朱仝様は義の人です。
官を捨てない。
子供を守る立場にあるなら、なおさら離れないでしょう。
だから原典は、子を殺す。
戻れない道を作る。
その残酷な答えを、私は知っています。
けれど、同じことをするために稟議書を作ったのではありません。
「来ないかもしれません」
私は答えました。
雷横様が顔を上げました。
「ですが、子供を犠牲にしなければ迎えられないなら、その策は梁山泊の将来に傷を残します」
呉用様の表情から、色が消えました。
「梁山泊の将来、ですか?」
「はい、人を集める山が何をして人を集めたかは、後に必ず残ります」
宋江様が、ゆっくりと承認印を取りました。
「この条件で進める」
晁蓋様も頷きました。
「わしも認める。だが、婆惜の書いた通り、子を害すれば即刻中止だ」
李逵様が口を尖らせます。
「斬っちゃ駄目、触っちゃ駄目、勝手に行っちゃ駄目。何だか面倒だな」
「面倒な分だけ、戻って来られます」
私が言うと、李逵様は不思議そうにしました。
「俺は戻るぞ」
「李逵様だけではございません」
朱仝様。
小衙内様。
雷横様。
そして、梁山泊そのもの。
戻れなくなるのは、一人とは限りません。
出発の支度は、驚くほど早く整いました。
雷横様、李逵様、戴宗様。
表向きは朱仝様への働きかけ。
裏では、小衙内様の保護。
呉用様は同行しません。
策を作る者と、現場で止める者を分ける。
これも、今回の条件です。
山門まで見送りに出ると、朝の湿った風が衣の裾を揺らしました。
雷横様は私の前で足を止めます。
「婆惜様」
「はい」
「俺は、朱仝に顔向けできるように動く」
「はい」
「小衙内には手を出さねえ」
「そのお言葉、記録しておきます」
雷横様は苦笑しました。
「本当に何でも記録するんだな」
「はい。忘れた時に助かります」
これは本音です。
人は忘れます。
怒った時。
焦った時。
誰かのためだと思った時。
自分が何を守ると言ったのか、簡単に忘れてしまいます。
だから紙に残すのです。
戴宗様が近づいてきました。
私は袖の中から、小さく折った別紙を出しました。
「戴宗様」
「これは?」
「稟議書の写しではございません」
戴宗様は受け取り、開かずに懐へ入れました。
察しのよい方です。
「読んでよろしいのですか?」
「道中、人目のないところでお願いいたします」
「物騒ですな……」
「保険でございます」
戴宗様は少しだけ目を細めました。
「稟議書に書けぬ保険ですか?」
「はい」
その別紙には、一行だけ書きました。
小衙内様を、必ず先に確保してください。
これを表に書けば、呉用様は警戒します。
雷横様は傷つきます。
李逵様は意味を誤解するでしょう。
けれど、戴宗様なら分かります。
「承知しました」
戴宗様は短く答えました。
それだけで十分でした。
三人が山を下りていきます。
李逵様の斧が、朝の光を鈍く返しました。
白い帳面は、今日は震えません。
それが安心なのか、嵐の前の静けさなのか、判断できませんでした。
山門から戻る途中、使いが駆けてきました。
「婆惜様」
「どうしました」
「二龍山より、書状が届いております」
足が止まりました。
二龍山――
魯智深様。
楊志様。
武松様。
孫二娘様。
そして――
胸の奥で、別の名が浮かびます。
潘巧雲様。
まだ確かめていない名。
けれど、忘れてよいはずのない名。
「差出人は」
「二龍山留守居役名義にございます。ただ、封の表書きが少し……変わっていると」
「変わっている?」
使いは困った顔で、書状を差し出しました。
表には整った字で、こうあります。
梁山泊御中。
照会の件。
私は封を見つめました。
朱仝様の稟議書が山を出たばかりです。
今度は、二龍山から照会文。
内部案件の次は、対外案件。
白い帳面は沈黙しています。
ですが、私の胃は沈黙してくれません。
封の端を指で押さえた瞬間、嫌な予感がいたしました。
この文を書いた方――
たぶん、ただ者ではございません。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の確認事項は、以下の通りでございます。
承認前に実行者が到着した場合は、まず案件説明を行い、着手を止めましょう。
実行者の忠義が強いほど、本人の善意だけに任せず、役割と禁止事項を明確にする必要がございます。
武器を持つ方を動かす場合は、使用許可、単独行動の可否、制止担当を事前に決めてください。
「見張り」と「追跡および緊急停止役」は、書面上は別でございます。
未成年者が関わる案件では、策の成否より安全確保を優先いたしましょう。
また、稟議書に書けない保険が必要になる時点で、その案件は十分に危険でございます。
皆様も、承認印を押す前に黒い斧が廊下へ来た場合は、まず座っていただくところから始めてくださいませ。




