小衙内様の記載がございません
閻婆惜でございます。
本日は、朱仝様を梁山泊へお迎えする件について確認いたします。
この件を最初に申し出たのは、呉用様ではございません。
雷横様でございます。
朱仝様は、雷横様にとって命の恩人。
自分だけが梁山泊に逃れ、朱仝様を役所に残したままでは筋が通らない――
雷横様がそう思われるのは、自然なことでございます。
ですが、恩返しと、相手の人生を動かすことは別でございます。
さらに、そのために子供を巻き込む可能性があるなら、なおさら確認が必要です。
善意で始まる案件ほど、損失欄が白いままになりがちです。
本日は、朱仝様入山の稟議書を確認いたします。
善意で始まる案件ほど、損失欄が白いままでございます。
悪意ならば、まだ警戒できます。
欲ならば、止める理由も探しやすい。
けれど、恩返しや義理、あの人を助けたい……
そういう感情が絡むと、人は途端に危険を見落とします。
戸の外で使いが告げた名は、呉用様でした。
けれど、運ばれてきた稟議書の起案者欄にあった名は、呉用様ではありません。
雷横様――
私は、その二文字を見た瞬間、昨夜の白い帳面を思い出しました。
朱、童、黒い斧――
早すぎます。
通知から案件発生までの間隔が短すぎます。
「婆惜様、よろしいでしょうか」
小部屋に入ってきた雷横様は、昨夜より顔色が悪うございました。
その後ろに、呉用様が控えています。
宋江様も同席なさいました。
晁蓋様にはすでに知らせを送り、最終判断の前にお入りいただく段取りです。
梁山泊の将来に関わる案件です。
稟議書固定でございます。
「雷横様」
私は起案書を卓に置きました。
「こちらは、雷横様より御提案の案件で相違ございませんか」
「俺が出した」
雷横様は座る前に答えました。
「呉用先生に形を整えてもらったが、言い出したのは俺だ」
「件名は、朱仝殿入山勧誘に関する件」
声に出して読むと、雷横様の喉が動きました。
「はい」
「理由欄には、朱仝様が雷横様を逃がした恩人であり、現在も官に仕えていること、いずれ疑いを受けるおそれがあること、梁山泊へ迎えれば身の安全を図れること、とございます」
「そうだ」
雷横様の手が膝の上で握られます。
「あいつは俺を助けた。俺はそのおかげで生きて、この山にいる。なのに、朱仝はまだ役所に残っている。俺だけ助かって、あいつを置いておくのは筋が通らねえ」
声は荒くありません。
だからこそ、重い。
昨夜、雷横様は白秀英様の名を着せられた娘のことを話しました。
自分が死なせた、と……
その罪悪感が消えないうちに、今度は朱仝様への恩義が前へ出ている。
人の心は、一つの案件だけで動くわけではありません。
罪を抱えた者ほど、別の善行で呼吸をしようとします。
「お気持ちは分かります」
私は言いました。
雷横様が、少しだけ目を上げます。
「ですが、恩返しと、相手の人生を動かすことは別でございます」
雷横様の表情が強張りました。
宋江様が静かにこちらを見ています。
呉用様は、扇を開きません。
学習しておられます。
よい傾向です。
「朱仝様をお救いしたい。その目的自体は否定いたしません」
私は稟議書の二枚目へ目を落としました。
「ただし、目的が正しく見えても、手段まで自動的に正しいとは限りません」
呉用様の眉が、わずかに動きました。
この言い回しには覚えがあるはずです。
李家荘の件で申し上げましたから……
「呉用様」
「はい」
「こちらの実施案は、呉用様の御作成ですか」
「雷横殿の願いを叶えるため、私なりに道筋を立てました」
「道筋」
私は紙をめくりました。
そこには、よく整った文字で、朱仝様の性格、郡内での立場、義に厚いこと、雷横様との関係が記されていました。
見事です。
見事すぎて、嫌な予感がします。
「朱仝様は義の人ゆえ、単に誘っても官を捨てぬ。ゆえに、心を動かす契機が必要」
私はそこを読み上げました。
部屋の空気が、少し冷えました。
「この『契機』とは、具体的に何を指しますか?」
呉用様は一拍置きました。
「朱仝殿は、現在、役所の小衙内のお世話を任されていると聞きます」
童――
帳面に浮かんだ文字が、胸の奥で黒く滲みます。
「続けてくださいませ」
「その子に関わることで、朱仝殿の心を揺らすことができましょう」
雷横様が顔を上げました。
「子供を使うのか?」
呉用様は落ち着いた声で答えます。
「傷つけるとは申しておりません。朱仝殿の心を官から離すためには、守るべきものが危ういと思わせる必要があります」
思わせる――
便利な言葉です。
実際に危うくする者ほど、そう言います。
「稟議書に、小衙内様のお名前がございません」
私は紙を揃えました。
「影響対象者欄にも、非戦闘員欄にも、未成年者欄にも記載がありません」
呉用様の目が、一瞬だけ細くなります。
「まだ案の段階です」
「案の段階だからこそ記載してください」
「脅すだけなら、損失は出ませぬ」
「脅す相手が子供である時点で、損失は発生しております」
宋江様が息を吸いました。
雷横様は黙っています。
「さらに確認いたします」
私は三枚目を指で押さえました。
「李逵様の名が、実行補助者欄にございます」
黒い斧――
やはり来ました。
「李逵を使えば、相手も本気だと見るでしょう」
呉用様は、何でもないことのように言いました。
「李逵様の監督者はどなたですか?」
「李逵は宋江殿の言葉なら聞きます」
「宋江様が現地へ同行なさるのですか?」
呉用様が止まりました。
「それは……」
「同行しない方のお名前を、監督者欄に書くことはできません」
私は筆を取りました。
「李逵様を動かす場合、制止担当、追跡担当、撤退判断者が必要です」
雷横様が低く言いました。
「李逵は、そこまで危ねえのか?」
私は雷横様を見ました。
攻略本の記憶が、喉元まで上がります。
言えません……
李逵様が小衙内を殺す。
朱仝様を戻れなくするために……
そんなことを、この場でどう説明すればよいのでしょう?
まだ起きていない。
証拠もない。
白い帳面も、私にしか見えない。
だから、言い方を変えます。
「雷横様」
「なんだ」
「李逵様は、敵と味方の区別は強くお持ちです。ですが、途中にいる者、巻き込まれた者、守られるべき者を細かく分けることは苦手でございます」
宋江様が苦しげに目を伏せました。
否定はなさいません。
「働くことと、制御できることは別です」
呉用様の扇が、少しだけ開きました。
「婆惜殿は、李逵を用いるなと?」
「違います。用いるなら、止める人を付けてくださいと申し上げています」
「誰を?」
「戴宗様です」
部屋の中に、細い緊張が走りました。
呉用様が、初めてはっきり私を見ます。
「神行太保を、李逵の見張りに使うのですか?」
「追跡および緊急停止役です」
「随分と大げさな……」
「子供を巻き込む案件に、大げさという言葉はございません」
私は言い切りました。
雷横様の顔が歪みます。
自分の恩返しが、子供を巻き込む策へ変わりかけている。
その事実に、今ようやく触れたのでしょう。
「俺は……朱仝を助けてえだけだ……」
「分かっております」
「小衙内をどうこうしろなんて、俺は言ってねえ……」
「だから今、止めております」
雷横様の目が揺れました。
「善意で始まった案件ほど、途中で手段が変わります。誰かが『少し脅すだけ』『少し困らせるだけ』『最後は山で面倒を見る』と言い出した時、最初の目的は盾にされます」
呉用様が小さく息を吐きました。
「婆惜殿は、私が雷横殿の願いを盾にするとお思いか?」
「可能性の話です」
「随分な物言いですな?」
「稟議書とは、信頼していないから書くのではございません。信頼している相手が誤らないために書くのです」
宋江様が、ゆっくりと頷きました。
「呉用殿」
「はい」
「婆惜の言う通りだ。朱仝を迎えたいという雷横の願いは、わしも分かる。だが、子供を巻き込むなら、曖昧にはできぬ」
呉用様は黙りました。
珍しく、返しがすぐに出ません。
私は修正欄へ筆を入れます。
一、対象者に小衙内様を追加。
二、未成年者保護策を明記。
三、李逵様使用時は戴宗様を別動の制止担当とする。
四、朱仝様本人の意思確認を必須とする。
五、死亡、負傷、誘拐、失踪の発生を撤退条件とする。
六、雷横様は提案者であり、現地で感情的判断をしないため単独行動禁止。
雷横様が、六つ目で苦い顔をしました。
「俺もか」
「はい」
「信用されてねえな」
「昨夜の今日でございます」
雷横様は何も言い返せませんでした。
申し訳ありませんが、事実です。
宋江様が、雷横様へ穏やかに言いました。
「雷横、朱仝を思うなら、なおさら急ぐな」
「……分かった」
声は小さい。
けれど、諦めてはいない。
「呉用様」
私は最後に確認しました。
「この修正を入れた上で、再提出をお願いいたします」
「今すぐにですか?」
「朱仝様を迎える件は急ぐのでしょう?」
呉用様の口元が、ほんの少しだけ歪みました。
「婆惜殿は、人を動かすのがお上手になられた」
「必要に迫られております」
褒め言葉としては受け取りません。
机の端で、白い帳面がほんのわずかに震えました。
開いていないのに、分かります。
何かが近づいています。
その時、廊下の向こうから大きな声が響きました。
「宋江兄貴! 俺を呼んだって聞いたぞ!」
雷横様の肩が跳ねました。
呉用様が目を閉じます。
宋江様の顔色が変わりました。
床板を踏み鳴らす足音。
金具の揺れる音。
そして、戸の外で、重いものが壁に当たりました。
斧です……
黒い斧の影が、もう扉の向こうに立っておりました。
私は稟議書を押さえました。
まだ、承認印は押しておりません。
それなのに、実行者だけが先に来ております。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の確認事項は、以下の通りでございます。
稟議書は、提出された時点で完成ではございません。
対象者、影響を受ける者、実行者、監督者が揃って初めて確認可能な書面となります。
特に、未成年者や非戦闘員が関わる場合は、名前が書かれていないこと自体を重大な不備として扱いましょう。
実行者の能力が高い場合でも、その方を止められる者がいなければ安全策とは申せません。
「よく働く方」と「制御できる方」は別でございます。
また、承認印が押される前に関係者を呼び出すと、手続きより先に現場が動きます。
皆様も、稟議書を提出する際は、実行者を廊下で待機させる前に、撤退条件と監督者欄をご確認くださいませ。




