神仙であればなおのこと
閻婆惜でございます。
本日は、九天玄女様より宋江様へ天書が授けられます。
本来であれば、神仙より天命を賜る、大変ありがたく荘厳な場面でございます。
ですが、今回は少々事情が異なります。
宋江様がいつまで経っても所定の場所へ参らないため、九天玄女様の方から御出向なさいました。
つまり、天上からの督促訪問でございます。
さらに、宋江様には天書が授けられ、私にも別のものが授けられるとのこと。
ありがたいお話ではございますが、正式名称、用途、取扱責任者、閲覧権限、使用範囲、責任の所在が不明なまま受領するわけにはまいりません。
神仙であればなおのこと、記録は大切です。
本日は、天命と稟議書のすり合わせを行います。
「ですが、恐れながら確認させてくださいませ」
私がそう申し上げた瞬間、九天玄女様の手が止まりました。
宋江様も、こちらを見ました。
見ないでくださいませ……
この場で確認しなければ、あとで困るのは私です。
「その『別のもの』につきまして、正式名称、用途、取扱責任者、閲覧権限、使用範囲、ならびに使用後に発生する責任の所在は、どなたに帰属いたしますか」
霧が止まりました。
夢の中のはずなのに、本当に止まりました。
宋江様の顔から、天命を授かる感動が少しずつ消えていきます。
九天玄女様は、私を見下ろしました。
「……そなた、今それを聞くのか?」
「はい……今でなければ、後ほど確認先が分かりませんので」
「宋江は黙って天書を受け取ったぞ」
「宋江様と私は担当業務が異なります」
宋江様が小さく息を呑みました。
なぜそこで傷つくのですか……
宋江様は天命担当。
私は運用管理担当。
役割分担でございます。
「婆惜」
宋江様が困った声を出しました。
「相手は神仙であるぞ……」
「神仙であればなおのこと、記録を残すべきでございます」
「記録……」
宋江様の肩が少し落ちました。
気持ちは分かります。
神秘の場面で、妻が議事録を取り始めるとは思わなかったのでしょう。
ですが、こちらも好きで夢の中まで働いているわけではありません。
九天玄女様は、しばらく黙っておられました。
荘厳な沈黙です。
ただし、私には上位者が想定外の質問を受けて返答を組み立てている沈黙にも見えます。
「閻婆惜……」
「はい」
「そなたは何者か?」
「宋江様の妻でございます」
宋江様が、なぜかさらに肩身を狭くしました。
間違ったことは申し上げておりません。
九天玄女様の目が、わずかに細くなります。
「妻とは、かようなものか……」
「家庭により異なるかと存じます」
「なるほど……」
納得されたのでしょうか?
されない方がよかった気もします。
九天玄女様は、宋江様の手にある巻物を指しました。
「宋江に授けたものは天書である。天の機を記し、星の道を示すもの」
宋江様が、はっと顔を上げます。
よかったですね、宋江様。
荘厳な説明に戻りました。
「ただし……」
私は一礼しました。
「取扱責任者は宋江様でよろしゅうございますか」
また霧が止まりました。
宋江様が目を閉じました。
九天玄女様は、少しだけ遠くを見るような顔をしています。
「……そうだ。宋江が持て」
「承知いたしました。では原本管理者は宋江様。保管場所は宋江様の私室、または専用箱。閲覧権限は……」
「宋江のみだ」
「写しの作成は?」
「許さぬ」
「内容に基づく軍事行動、外交判断、人事配置、婚姻、入山策、その他梁山泊の将来に関わる事項は」
「待て……」
九天玄女様が遮りました。
神様に待てと言われました。
こちらが待たせたのではございません。
確認項目が多いのです。
「それらは、天書の導きに従えばよい」
「恐れながら、導きに従う場合でも、実行段階では稟議書が必要でございます」
宋江様が小さく咳き込みました。
「婆惜、天書であるぞ」
「はい、天書であっても、実行するのは梁山泊でございます」
私は宋江様へ向き直りました。
「梁山泊の将来に関わる案件は、すべて稟議書固定です。神託を根拠とする場合は、根拠欄に『九天玄女様より御下賜の天書による』と明記してくださいませ」
「根拠欄……」
宋江様が呟きます。
九天玄女様が、微妙な顔をなさいました。
神様の微妙な顔を見る日が来るとは思いませんでした。
「神託を、欄に入れるのか」
「はい、後日、どなたがどのように解釈したか分からなくなると、責任範囲が曖昧になります」
「天の言葉に責任範囲を問うか」
「地上で人を動かす以上、必要でございます」
私は、できるだけ丁寧に頭を下げました。
喧嘩を売っているわけではありません。
本当に必要なのです。
宋江様は、人を集めます。
呉用様は、策を立てます。
梁山泊は、これからさらに大きくなる。
その時、誰かが天書を都合よく解釈し――
「これは天命だ」
「だから従え」
そう言い出したらどうなるか……
考えただけで、胃が痛みます。
「解釈者は宋江様。実行案作成者が別にいる場合は、案作成者名を併記。想定損失、対象者、本人意思確認、受入担当、撤退条件を明記。最終承認は晁蓋様および宋江様。私は確認担当として内容を見ます」
「わしの天書が……」
宋江様が、かすれた声で言いました。
「まだ何も始まっておらぬのに、もう帳面に載せられておる……」
「宋江様」
「なんだ」
「載せることで守られるものもございます」
宋江様は黙りました。
九天玄女様も、何もおっしゃいません。
少しだけ、空気が変わりました。
笑いではなく、別の重さです。
九天玄女様は、ゆっくりと頷きました。
「よかろう……」
よろしいのですか?
言っておきながら、こちらが驚きました。
「天書をどう扱うかは、地上の者が決めよ。だが、私欲に用いれば星は濁る。人を物のように扱えば、道は歪む」
「承知いたしました」
「そして、閻婆惜」
「はい」
「お前のためのものは、これである」
九天玄女様の袖から、白い冊子が現れました。
巻物ではありません。
冊子です。
表紙には何も書かれていません。
白紙――
それだけで嫌な予感が強まります。
白紙の資料は、だいたい記入者を待っています。
「こちらも、受領前確認を」
「まだ聞くのか」
「はい」
九天玄女様が、とうとう少し疲れた顔をなさいました。
神様、お疲れ様でございます。
しかし、こちらも夢の中で残業しております。
「名称は?」
「星乱れの帳面」
「用途は?」
「本来の流れから大きく外れ、死すべきでない者が死に近づく時、あるいは死ぬはずの者が生きて、別の者へ歪みが移る時、兆しを示す」
「閲覧権限は?」
「お前のみ」
「写しは?」
「そもそも写せぬ」
「紛失時は?」
「失せぬ」
「破損時は?」
「破れぬ」
「では、返却期限は?」
「返さぬでよい」
「退職時の返却は?」
「退職とは何だ」
しまった……
現代語が出ました。
宋江様がこちらを見ています。
見ないでくださいませ……
「いえ、役目を終えた際の返納でございます」
「役目が終われば、帳面も消える」
「承知いたしました」
私は心の中で項目をまとめました。
名称、星乱れの帳面。
閲覧者、閻婆惜のみ。
写し不可。
紛失なし。
破損なし。
返却は役目終了時に自動処理。
自動処理。
よい響きですが、信用しすぎると痛い目を見る言葉です。
「ただし……」
九天玄女様の声は、念を押しているようでした。
「この帳面は、すべてを教えるものではない。名も、時も、場所も、必ずしも明らかにはならぬ。欠片を示すだけだ」
「通知だけ来て、詳細は現場確認ということですね」
「……そうだ」
九天玄女様が、なぜか少し負けたような顔をしました。
勝ったつもりはございません。
本当に、確認しただけです。
「お前が考え、動け。だが、すべてを救えると思うな」
そこだけは、笑えませんでした。
白秀英様は生きています。
けれど、別の娘が死にました。
私はそれを知っています。
九天玄女様が、私の前へ帳面を差し出しました。
「受け取れ」
私は両手を差し出しました。
「受領いたします」
「受領……」
宋江様が、横でまた呟きました。
どうしてそんなに悲しそうなのですか……
天命が業務になったからでしょうか?
申し訳ございません……
ですが、梁山泊はもう十分、勢いで人を動かしてきました。
今後は記録に残します。
星乱れの帳面が、私の手に乗りました。
軽い――
しかし、紙の重さしかないはずなのに、胸の奥に沈むものがあります。
九天玄女様は、宋江様と私を見ました。
「宋江、天書に酔うな」
「はっ」
「閻婆惜、帳面に振り回されるな」
「はい」
「二人とも、道を誤れば、天命も稟議も役には立たぬ」
そこは一緒にしないでいただきたい。
いえ、神様から見れば同じなのでしょう。
霧が濃くなりました。
楼閣が遠ざかります。
宋江様が巻物を抱え、私は白い帳面を抱えました。
九天玄女様の声が、最後に響きます。
「次からは、もう少し早く来い」
宋江様が深々と頭を下げました。
私は少し迷ってから言いました。
「恐れながら、次回より事前に文書で御通達くださいませ」
霧の向こうで、九天玄女様が完全に黙りました。
宋江様が、今度は本気で私の袖を引きました。
「婆惜……」
「はい」
「もうよい……」
はい……
少し言いすぎました。
目が覚めた時、外はまだ暗うございました。
私はしばらく天井を見つめました。
夢――
そう思いたかったのですが、卓の上に白い冊子が置かれています。
表紙は真っ白。
何の文字もありません。
隣の部屋から、慌ただしい気配がします。
おそらく宋江様も、天書を確認しているのでしょう。
私は白い帳面を開きました。
一頁目は白紙です。
二頁目も白紙。
三頁目も白紙。
「初期設定も説明書もなし、ですか……」
小声で呟いた瞬間、一頁目の端に黒い点が浮きました。
墨ではありません。
影のようなものです。
点は細く伸び、文字になりました。
朱――
私は息を止めました。
次に、幼い手のような形。
それから、黒い斧の影。
最後に、短く一文字。
童――
すべては、すぐに消えました。
残ったのは、白い紙だけです。
私は帳面を閉じました。
完全に目が覚めました。
朱。
童。
黒い斧。
攻略本の記憶が、嫌な形で浮かび上がります。
朱仝様。
小衙内。
李逵様。
そして、呉用様の策。
「神様」
私は白い帳面を押さえながら、低く呟きました。
「追加業務の初回通知が、早すぎます」
その時、戸の外で足音が止まりました。
「婆惜様」
使いの声が聞こえます。
「呉用様より、朱仝殿を迎える件につき、稟議書をお持ちしたいとのことでございます」
私は白い帳面を見ました。
次に、扉を見ました。
仕事が早いのは良いことです。
ただし……
嫌な予感まで、早く来なくてよろしいのです――
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の確認事項は、以下の通りでございます。
ありがたい品を賜った場合でも、用途と責任範囲を確認してから受領しましょう。
原本管理者、閲覧権限、写しの可否を定めておけば、後日の解釈違いを減らせます。
神託を根拠に人を動かす場合でも、実行段階では別途内容確認が必要でございます。
白紙の帳面が支給された際は、説明書がなくても慌てず、まず一頁目から確認してください。
ただし、文字や影が勝手に浮かび上がった場合は、通常の帳面とは扱いが異なります。
未確定の兆しは断定せず、事実、推測、対応予定を分けて記録することが肝要です。
皆様も、追加業務の通知が届いた際は、まず深呼吸をしてから、関係者と撤退条件をご確認くださいませ。




