記録は敵にも味方にもなる
閻婆惜でございます。
本日は、記録の扱いについて確認いたします。
紙は便利です。
忘れたことを残せます。
言った、言わないも防げます。
ですが、残し方を間違えると、味方だったはずの紙が急にこちらを刺してまいります。
書くこと。
書かないこと。
見られてもよい形にすること。
この三つを分けなければ、生き残れません。
差出人不明の紙片は、机の上に置かれていた。
今夜、東の酒楼にて。
短いし、雑。
差出人なし。
目的なし。
場所だけ指定。
これで人を呼び出せると思っている時点で、かなり危ない。
私は紙片を見下ろしながら、しばらく黙っていた。
宋江様も黙っていた。
ただし、今回は黙っている理由が少し違う。
宋江様は考えている。
私は、何を残し、何を残さないかを考えていた。
「婆惜」
「はい」
「これは、どうするのだ」
「保管します」
「破棄すると言っておらなんだか」
「感情としては破棄したいと申し上げました」
「感情」
「実務としては保管です」
宋江様は、また少し疲れた顔をした。
気持ちは分かる。
実際、私も疲れている。
だが、疲れた時ほど、紙の扱いは雑になる。
雑に扱われた紙は、後でこちらを刺しに来る。
会社で何度も見た。
机の上に置きっぱなしの議事メモ。
不用意に転送されたメール。
印刷された契約書の古いコピー。
誰が書いたか分からない手書きの修正。
紙は喋らない。
だから厄介である。
喋らないくせに、都合の悪い時だけ雄弁になる。
私は筆を取った。
「まず、記録を三つに分けます」
「また分けるのか」
「分けないと混ざります」
「何が」
「守るための記録と、殺すための証拠です」
宋江様の顔が引きつった。
「言い方が強い」
「内容が強いので」
「もっと穏やかに」
「では、残してよい紙と、残すと首が涼しくなる紙です」
「悪くなっておる」
「実感しやすくしました」
宋江様は額を押さえた。
私は紙の端に欄を作った。
残すもの。
残さないもの。
見られてもよい形にするもの。
宋江様が覗き込む。
「三つ目は何だ」
「見られて困ることでも、完全に消すと不自然な場合があります。その時は、見られても問題ない形に整えます」
「そなたは本当に何者だ」
「病み上がりです」
「病み上がりが万能すぎる」
「万能なら、そもそも閻婆惜になっておりません」
宋江様は黙った。
そこは同意しなくてよいところである……
私は紙片を指した。
「この呼び出しは、差出人不明ですので、相手が晁蓋様側とは限りません。役所側の罠かもしれませんし、張文遠様のような別の方が絡んでいる可能性もあります」
「張文遠は関係なかろう」
「断定は危険です」
「疑いすぎではないか」
「宋江様は信じすぎです」
「……そうか」
「はい」
宋江様は、少しだけ不服そうだった。
だが、言い返さなかった。
よいことである。
「では、この紙片は残すのか」
「残します。ただし、このままではなく、包みと一緒に別保管です」
「別保管」
「はい。書状、金、呼び出し紙片を同じ場所に置くのは禁止です」
「なぜだ」
「全部揃うと、説明が大変だからです」
「揃わねばよいのか」
「揃わない方がまだましです」
私は言いながら、小さな布を探した。
この家の物の位置は、まだ完璧には分からない。
だが、閻婆惜の体はある程度覚えているようで、机の下の箱を開けると、小布が入っていた。
私はそれを使い、紙片だけを包む。
「これは、後で場所を変えます」
「どこへ」
「今は申し上げません」
「わしにもか」
「宋江様は顔に出ますので」
宋江様がむっとした。
「そこまで分かりやすいか」
「はい」
「即答するな」
「嘘はよくありません」
宋江様はまた黙った。
私は、確認事項に書き足した。
十、証拠物は一箇所にまとめない。
十一、宋江様には保管場所を一部だけ共有する。
十二、宋江様は顔に出る。
宋江様がすぐに見た。
「十二は消してくれ」
「確認済みです」
「せめて書くな」
「忘れると困ります」
「わしが困る」
「私が死ぬよりは軽いです」
宋江様は言葉を失った。
その隙に、私は別の紙を引き寄せた。
「では、晁蓋様へ伝える内容を、見られてもよい形に整えます」
「見られてもよい形?」
「はい。たとえば、宋江様が役所が動いている。早く逃げよと書けば危険です」
「なぜだ。分かりやすいではないか」
「分かりやすすぎます」
「分かりにくければ伝わらぬ」
「伝わる人にだけ伝わる形にします」
宋江様は、かなり嫌そうな顔をした。
「それは策ではないのか」
「手順です」
「策に聞こえる」
「では、事務手順です」
「余計に分からぬ」
私は少し考えた。
宋江様に説明するには、現代の言葉では通じない。
暗号、コンプライアンス、リスク管理。
どれも使えない。
「つまり、こうです」
私は筆を持った。
「直接、逃げろとは書きません。長居は身のためにならぬ程度にします」
「それで晁蓋殿に伝わるか」
「伝わらないなら、日頃の友人関係に問題があります」
「ひどいことを言う」
「分かる方なら分かります。分からない方なら、直接書いてもたぶん失敗します」
宋江様は、また黙った。
今回は痛いところを突かれた顔だった。
私は続けた。
「それから、宋江様の名は出しません」
「わしの友だぞ」
「だからです」
「なぜだ」
「名を出すと、宋江様が巻き込まれます」
「もう巻き込まれておる」
「これ以上です」
「……それは困るな」
「はい」
私は、薄い紙に短く書いた。
長居はお控えください。
風向きが悪うございます。
しばらく、古い知人との文のやり取りもお控えください。
書いてから、自分で少し嫌な顔をした。
かなり怪しい。
だが、直接書くよりはましである。
宋江様が横から見た。
「これは、誰が書いたことになる」
「誰でもない方がよいです」
「字で分かるのではないか」
「その通りです」
私は筆を置いた。
「宋江様は、字が上手そうなので危険です」
「字が上手いと危険なのか」
「綺麗な字の証拠は目立ちます」
「証拠ではない」
「証拠になる前は、皆そう言います」
宋江様は、何かを言いかけてやめた。
「では、誰が書く」
「私が書きます」
「そなたの字は」
「閻婆惜の字です。宋江様よりは目立たないはずです」
「それでよいのか」
「よくはありません。マシです」
「そなたの言うことは、だいたい、ましだな」
「この状況で最善を求める方が危険です」
「なぜだ」
「最善は、だいたい手遅れになるまで決まりません」
宋江様は、少し考えた顔をした。
また少し、前進した気がする。
その時、外から人の声がした。
「宋押司」
私は筆を止めた。
今度は包みではない。
人の声。
役所の者か。
使いか。
別の火種か。
この家は、本当に落ち着かない。
宋江様が顔を上げる。
「誰だ」
「張都監様の使いでございます」
宋江様の表情が変わった。
張都監。
役所関係。
このタイミング。
私は紙をすばやく畳んだ。
「宋江様」
「うむ」
「机の上を片づけてください」
「すぐにか」
「今です」
宋江様は、慌てて書状を手に取ろうとした。
「それは触らないでください」
「では、どうする」
「上に普通の紙を重ねます」
「隠すのか」
「片づけるのです」
「同じでは」
「言葉の選び方は大切です」
私は机の上に、当たり障りのない紙を重ねた。
確認事項は見られるとまずい。
特に、
「私は死なない」
と、
「宋江様は特に拾わない」は、説明が面倒すぎる。
宋江様は戸口へ向かった。
私は言った。
「宋江様」
「なんだ」
「不用意に笑わないでください」
「笑うなと」
「宋江様は、困ると笑いそうです」
「……そうか」
「はい」
「そなた、わしをよく見ておるな」
「命がかかっていますので」
宋江様は苦笑しかけて、やめた。
よろしい。
戸が開いた。
入ってきたのは、役所の使いらしき男だった。
若くはない。
腰が低いが、目だけは部屋の中を見ている。
私は布団の上で、病み上がりらしい姿勢をした。
あくまで病人。
あくまで妻。
あくまで関係者ではない。
関係者だが、見た目はそう見せない。
男は宋江様に礼をした。
「宋押司。急ぎ、確認したいことがあるとのことです」
「何だ」
「晁蓋一党について、何か聞き及んでおられぬかと」
来た――
早い。
早すぎる。
私は内心で、役所の仕事の速さに少しだけ感心した。
この速度で普段から動けば、もっと事件は減るのではないか。
宋江様の肩が、わずかに固まる。
分かりやすい。
本当に分かりやすい。
私は軽く咳をした。
病み上がりらしい咳である。 便利である。
宋江様が、こちらを見た。
その一瞬で、少しだけ間ができた。
私は静かに言った。
「宋江様。お役目のお話でしたら、こちらではなく、後ほど役所でお受けになるのがよろしいかと」
使いの男が私を見た。
「奥方様は」
「病み上がりでございます」
私は軽く頭を下げた。
「先ほどから何度か人が出入りしておりますので、こちらで込み入ったお話をされますと、かえって誤解を招きかねません」
男の目が動いた。
こちらの言葉を測っている。
私は続けた。
「宋江様は役所のお方でございます。公の話は公の場で。その方が、後々よろしいかと存じます」
嘘は言っていない。
ただ、この場で話させないだけである。
宋江様は少し息を吸った。
「その通りだ。今は婆惜が病み上がりでな。後ほど役所へ参る」
使いの男は、少しだけ部屋を見た。
机の上。
私。
宋江様。
戸口。
短い沈黙。
そして頭を下げた。
「承知いたしました。では、そのように」
男は去った。
戸が閉まる。
足音が遠ざかる。
私は、その音が完全に消えるまで黙っていた。
宋江様も黙っていた。
やがて、宋江様がこちらを向いた。
「婆惜」
「はい」
「助かった」
短い言葉だった。
私は少しだけ目を伏せた。
礼を言われるとは思っていなかった。
「私は、宋江様が不用意に話す前に止めただけです」
「それで助かった」
宋江様は、机の上の紙を見た。
「わしは、今、何か言いそうな顔をしていたか」
「はい」
「やはりか」
「はい」
「そんなにか」
「かなり」
宋江様は深く息を吐いた。
「そなたがいて、よかったのかもしれぬ」
その言葉は、予想より重かった。
私は返答に困った。
閻婆惜として宋江様の妻になった。
死亡フラグを避けるために確認をしている。
悪女にならないために、張文遠様との距離も切った。
危険物を管理し、紙片を分け、呼び出しを止めた。
それだけだ。
なのに、今の一言で少しだけ、何かが変わった気がした。
私は咳払いをした。
「では、その方向で運用いたしましょう」
「運用」
「はい。今後も、宋江様が危ないことを言いそうな時は、私が止めます」
「夫婦とは、そういうものだったか」
「少なくとも、当家ではそうします」
宋江様は苦笑した。
「大変な家になった」
「元からです」
「そうか」
「はい」
私は机の上の紙を戻した。
そして、確認事項に新しく書き加えた。
十四、役所関係者の前で宋江様を一人にしない。
十五、公の話は公の場へ戻す。
十六、宋江様は困ると顔に出る。
十七、私は外向きにも関係者である。
宋江様が覗き込む。
「十六は消せぬのか」
「確認済みです」
「十七は何だ」
私は少しだけ考えた。
「私も、この家を守る側に入ったということです」
宋江様は黙った。
今日の沈黙は、少し静かだった。
私は紙を見下ろす。
記録は危険だ。
だが、何も残さなければ、人は同じ失敗をする。
残すもの。
残さないもの。
見られてもよい形にするもの。
それを分けなければ、生き残れない。
私は最後に、一文を書いた。
記録は味方にも敵にもなる。
少し迷って、横に添える。
夫の顔は敵に回りやすい。
宋江様がそれを見た。
「婆惜」
「はい」
「それは記録に残す必要があるのか」
「最重要です」
「わしの顔がか」
「はい」
宋江様は、今度こそ本当に頭を抱えた。
私は筆を置き、深く息を吐いた。
悪女になる暇がない。
今日は、記録の分別だけで日が暮れそうだった。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の確認事項は、以下の通りでございます。
紙は、残せば安心とは限らない。
差出人不明の文は、開ける前から危険である。
公の話は、公の場で受ける。
宋江様は、困ると顔に出る。
以上でございます。
記録は大切です。
ただし、何でも残せばよいというものではございません。
特に、夫の顔色は記録より先に管理すべきでした。




