表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
46/62

稟議書

閻婆惜でございます。

本日は、呉用様へ李家荘の件を確認いたします。

帳面は焼けておりませんでした。

つまり、必要な財と記録を運び出したうえで、屋敷だけを焼いたということでございます。

呉用様は、李応様を梁山泊へ迎えるためだったとおっしゃいます。

ですが、目的が正しく見えても、手段まで正しいとは限りません。

秦明様の婚姻。

扈三娘様の婚姻未遂。

そして、李応様の帰る場所を消した今回の策。

どれも、梁山泊へ残る結果だけを見れば便利です。

けれど、便利だからといって、御本人の逃げ道を塞いでよい理由にはなりません。

本日は、そのための書面を一枚、ご用意いたしました。

名を、稟議書と申します。

「まずは、李家荘を焼いた理由から伺います」

卓の上に置いた帳面は、何の傷もありません。

火に巻かれた痕も、煙を吸った匂いもない。

つまり、帳面は屋敷が燃える前に運び出されていました。

偶然の火事ではありません。

必要な財と記録を確保してから、帰る場所だけを消したのです。

呉用様は羽扇を止めたまま、しばらく帳面を見ていました。

「李応殿は、梁山泊へ加わろうとはせなんだ」

やがて、静かにおっしゃいます。

「祝家荘との縁もある。家が残れば、いずれ戻ろうとする。あの才を山へ迎えるには、戻る場所を断つほかなかった」

「そのために、州府の保護と偽ったのですね?」

「騒がせずに人と財を動かすには、それが早い」

「早さは確認しました。次に、正当性を伺います」

呉用様の目が、わずかに細くなりました。

小部屋には、晁蓋様と宋江様もおられます。

お二人とも、先ほどまで口を挟みませんでした。

事実を聞き終えるまで黙る。

そう決めておられたのでしょう。

「軍師」

先に声を出したのは晁蓋様でした。

「わしは、李応殿の屋敷を焼けなどと命じた覚えはない」

「わしもだ」

宋江様も低く続けます。

「李応殿を迎えたいとは申した。されど、家を焼き、家人まで偽って運べとは申しておらぬ」

呉用様は頭を下げません。

「お二方へ申し上げれば、止められたでしょう?」

「当たり前だ」

晁蓋様の声が鋭くなりました。

「止められると分かっていたから、黙っていたのか」

「梁山泊のためです」

「その言葉で、何でも済むと思うな」

卓の上の空気が重くなりました。

呉用様の策は、目的だけ見れば成功しています。

李応様は梁山泊に来ました。

杜興様も、家人も、家財も、帳面もあります。

攻略本に記された結果だけなら、何も矛盾しておりません。

ですが、結果の一行は、人の感情まで記録してくれません。

屋敷を失った方の顔。

州府へ向かうと信じていた女中たちの震え。

荷車の陰で泣いた子供。

白秀英様が王英様を見た時の怯え。

そこまでは、書いていない。

「呉用様」

「何だ」

「李家の受入れ担当は、どなたでしたか?」

返事はありません。

「女中と子供の部屋。年寄りの休む場所。荷車の置き場。家財と帳面の保管。白秀英様の扱い。李応様の面子。どなたへ、どの順で命じましたか?」

「それは、到着してから整えればよい」

「整える者を決めていませんでした」

「そなたが整えたではないか」

一瞬、部屋が冷えました。

今の一言で、呉用様は自分の策の穴を認めたようなものです。

「はい、私が整えました」

私は帳面の表紙を指で押さえました。

「ですが、私がいなければどうなっていましたか」

呉用様は黙りました。

「王英様は、白秀英様へ手を伸ばしました。李応様と杜興様が止めましたが、あれは受入れではありません。現場で発生した事故です」

「王英の行いまで、わしの責任か?」

「王英様御本人の責任です。しかし、危険を予見せず、保護された女性たちを男衆の前へ降ろした責任は別にございます」

羽扇がわずかに動きます。

「軍師は戦の策を練るものだ。女中や寝床の数まで見るものではあるまい」

「では、見る者を決めてください」

私はすぐに返しました。

「策とは、敵を動かすことだけではございません。動かした後に残るものまで含めて策です」

呉用様の視線が、私から帳面へ落ちます。

その目に、初めて小さな苛立ち以外のものが混じりました。

思い出しているのでしょう。

秦明様と黄信様を迎えた時、私は本人たちと話し、受入れの形を整えました。

その後、呉用様は秦明様を梁山泊へ留めるため、花宝燕様との婚姻を進めました。

秦明様も花宝燕様も、すべてを知って選んだわけではありません。

扈三娘様の件も同じです。

宋江様が王英様へ良い女を世話すると口にし、扈三娘様は明確に拒みました。

私は衝立の裏から止めました。

本人が望まない婚姻を、褒美として扱わせるわけにはいかなかったからです。

そして今回――

呉用様は、李応様が戻る道を家ごと焼きました。

秦明様には婚姻。

扈三娘様には婚姻未遂。

李応様には退路の消失。

形は違います。

ですが、根は同じです。

「呉用様は、人を梁山泊へ残すために、その方の逃げ道を塞ぎすぎます」

羽扇が完全に止まりました。

「何と申した」

「秦明様には、花宝燕様との婚姻を急がせました。扈三娘様には、王英様との婚姻話が出ました。李応様には、帰る家そのものがなくなりました」

宋江様が息を呑みました。

晁蓋様は目を伏せ、拳を握っています。

「いずれも、梁山泊へ残る結果だけを見れば便利です。ですが、便利な結果のために、本人の選択肢を削っております」

「秦明の件は、わしだけの策ではない」

「承知しております。秦明様と黄信様をこちらへ連れてきたのは私です」

ここは、曖昧にしてはいけません。

「だからこそ申し上げます。連れてきた後、その方の人生まで勝手に固定してよい理由にはなりません」

呉用様の口元から、いつもの笑みが消えました。

「扈三娘様の件では、宋江様のお言葉を止めました。李応様の件では、呉用様の策を止められませんでした。止められなかった結果、家が一つ消えました」

「責めるために呼んだのか?」

「いいえ」

私は首を振りました。

「次を止めるために、お呼びしました」

小部屋の外から、遠く人の声が聞こえます。

李家の者たちは、まだ落ち着いたわけではありません。

白秀英様も、雷横様も、潘巧雲様も迎児様も、扈三娘様も……

確認すべきことは増え続けています。

このまま、誰か一人の判断で人の逃げ道が消されていくなら、梁山泊はいつか内側から潰れます。

「軍師……」

晁蓋様が言いました。

「李応殿へは、わしから詫びる」

「わしも行く」

宋江様が続けました。

「わしが迎えたいと申したことで、このような策を招いたなら、知らぬとは言えぬ」

呉用様が、初めて二人を見ました。

「お二方が頭を下げれば、軍師の威が落ちます」

「落ちるほど軽い威なら、いらぬ」

晁蓋様の声は冷たく切り捨てるようでした。

「義を掲げる梁山泊が、恩ある者の家を焼いた。まずそこを認めねば、何を言っても空だ」

宋江様も頷きます。

「李応殿は、まだ盃を取ったわけではない。こちらが誠を見せねば、心までは来ぬ」

呉用様は反論しませんでした。

しかし、これで終わりではありません。

謝罪は必要です。

ですが、謝罪は再発防止ではございません。

前世の会社でも、謝罪文だけで事故が減るなら、内部監査部はあれほど胃薬を消費していません。

私は懐から白紙を取り出し、卓へ置きました。

「今後、後戻りできない策を行う場合、事前に書面で提出していただきます」

「書面?」

呉用様の声が低くなりました。

「戦の最中に、いちいち紙を書けと?」

「急を要する時は、口頭で結構です。ただし、事後報告は必須です。平時に行う策であれば、目的、手段、対象者、想定される損失、受入れ担当、撤退条件を明記してください」

「手間が増える……」

「家を焼くよりは軽いです」

晁蓋様が少しだけ咳払いをしました。

宋江様は笑わず、真剣な顔で白紙を見ています。

「対象はどこまでだ?」

呉用様が尋ねました。

「人家への放火、家財の接収、本人の同意を得ない移送、婚姻、人質、役職の強制、帰る場所を奪う策。人の人生を大きく変えるものです」

「策の自由が縛られる」

「縛ります」

はっきり申し上げました。

「梁山泊のためという言葉で、誰かの人生を勝手に固定することを、今後は認めません」

呉用様が私を見ました。

怖い顔ではありません。

むしろ、静かです。

この方は、ようやく理解されたのだと思います。

私は策を嫌っているのではありません。

策が成功した後に残る、人と責任を見ている。

そして、見たものを帳面へ載せる。

それが分かったからこそ、呉用様は黙っているのでしょう。

「名は?」

宋江様が尋ねました。

「その書面の名は、何と申す?」

私は筆を取り、白紙の上へ二文字を書きました。

稟議――

「稟議書でございます」

呉用様の羽扇が、また止まりました。

今度は驚きではありません。

警戒です。

その紙が、軍師の独断を縛るものだと理解した顔でした。

「呉用様」

私は白紙を一枚、呉用様の前へ差し出しました。

「まずは李家荘の件から、御記入ください」

「すでに終わった策だ」

「終わっておりません」

即座に返しました。

「李応様は、まだ選んでおられません。白秀英様も、李家の方々も、ようやく座る場所を得ただけです。家を焼かれた方々の生活は、これから始まります」

呉用様は、差し出された紙を見下ろしました。

小部屋の外で、誰かが廊下を走る音がします。

一人ではありません。

何か急な報せでしょうか。

私は顔を上げました。

扉の向こうで、息を切らした声がしました。

「宋江様、晁蓋様! 聚義庁にて、李応殿を迎える宴の支度が整ったとのことにございます!」

宴――

この状況で……

私は筆を置きました。

呉用様への稟議書は、まだ白紙のままです。

ですが、次の案件が、もう扉の外で待っております。

「……歓迎の宴、ですか」

胃の奥が重くなりました。

李家荘を焼いた当日に、李応様を歓迎する。

どなたが、どのような顔で笑うつもりなのでしょう。

私は白紙を呉用様の前へ置いたまま、扉へ目を向けました。

「では、確認いたしましょう」

今度は、宴の主催者に――

本件、閻婆惜よりご報告いたします。

本日の確認事項は、以下の通りでございます。

目的が組織のためであっても、手段まで自動的に正当化されるわけではございません。

後戻りできない判断を行う際は、事前に責任者へ共有しましょう。

人を動かす場合は、移動先だけでなく、到着後の担当者も決めておく必要がございます。

謝罪は大切ですが、同じ失敗を防ぐ仕組みがなければ、次の被害を止められません。

急ぎの案件ほど、目的、手段、損失、撤退条件を短く整理してください。

皆様も、「よかれと思って」の前に、まず承認印の置き場所をご確認くださいませ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ