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その言葉、聞き逃しませんでした

閻婆惜でございます。

本日は、扈三娘様と玉楼様を梁山泊へお連れいたします。

お二人は同じ檻です。

林冲様の隊ですので、護送そのものに不安はございません。

問題は、扈三娘様が不意に口にされた言葉です。

「完全に詰んでるんだけど」

聞き逃しませんでした。

やはり、あの方は――

いえ……

今はまだ、確かめません。

そして、もう一つ問題がございます。

宋江様が、私を心配して追ってきてくださいました。

大変ありがたいことです。

ただし、その結果……

前線には、秦明様と呉用様。

そして、安全装置を外された李逵様が残りました。

檻の中より、檻の外の方が不安です。

本日は、護送よりも前線が心配でございます。

「これ、完全に詰んでるんだけど」

檻の中から放たれた言葉に、私は息を止めた。

声は小さい。

荷車の軋みと馬蹄の音に紛れれば、聞き流してしまうほどだった。

「扈三娘様?」

隣にいる玉楼様が、怪訝そうに顔を向ける。

「……何でもない」

扈三娘様はすぐに言い直した。

いつもの言葉へ戻っている。

けれど、私は聞き逃しませんでした。

詰んでいる――

この時代の女傑が、檻の中で使う言葉ではございません。

やはり、そうなのですか。

扈三娘様――

あなたは、私の知っている後輩なのですか。

確かめたくなった。

馬車を寄せ、名前を呼び、こちらを見てほしくなった。

けれど、私は帳面を握ったまま動かなかった。

今の私は、扈三娘様を捕らえた側にいる。

暗がりと隊列に遮られ、あちらから私の姿は見えていない。

それでよいのです。

久しぶり……

私です……

元気でしたか……

檻越しに申し上げる内容ではございません。

荷車は独竜岡の夜道をゆっくり進んでいる。

雨の名残を含んだ土は柔らかく、ところどころ深く抉れている。

車輪が窪みに落ちるたび、軸が低く軋む。

林冲様は隊を急がせなかった。

「車を揺らすな。道を選べ」

短い命令が前へ送られた。

先導の兵が松明を低く掲げ、石や折れ枝を避けながら進路を探す。

荷車の左右にも兵がつき、余計な者を近づけない。

檻の中では、扈三娘様が格子へ背を預けている。

玉楼様はその隣に座り、いつでも前へ出られる位置を崩さない。

武器はない。

馬もない。

逃げ道もない。

それでも、玉楼様は護衛を続けている。

荷車が大きな石を避けて左へ曲がった。

玉楼様が片手を床につき、もう一方の腕で扈三娘様の肩を支える。

揺れが収まると、すぐに手を離した。

二人を同じ檻へ入れた判断は、間違っていません。

林冲様の隊では、誰も檻を覗き込まなかった。

からかう者もいない。

捕虜の女だからと、品定めするような目を向ける者もいなかった。

出立前、林冲様が全員へ告げていたからです。

「二人は武人として捕らえた。無礼を働く者は、俺が許さぬ」

それだけで、隊の空気が締まった。

皆様が最初から品行方正なのではありません。

林冲様に逆らえばどうなるかを、よく理解しているのです。

非常に優秀な内部統制です。

署名も捺印も必要ございません。

後方から、小さな不満が聞こえた。

「ええい、あの女、まだ睨みおるわ……」

王英様です。

そのすぐ横を進む李俊様が、無言で顔を向けた。

王英様は口を閉じる。

李俊様は穏やかな方ですが、今は監視役でもあります。

王英様を玉楼様から遠ざけ、檻へ近づく道を塞いでいる。

適材適所です。

ただし、扈三娘様と李俊様を今ここで引き合わせるつもりはありません。

捕虜と監視役として顔を合わせても、第一印象が良くなるとは思えない。

人間関係にも、導入の順序がございます。

攻略本には、そこまで書かれておりませんでした。

武将同士の相性を掲載するなら、初回接触時の条件も併記していただきたいものです。

しばらく進んだところで、林冲様が手を上げた。

「ここで休む」

道の脇に小さな林があり、その奥を細い水が流れている。

兵たちは音を立てずに散り、馬へ水を飲ませる。

檻を載せた荷車も、平らな場所へ移された。

林冲様は水筒を受け取ると、自ら格子の前へ運んだ。

「水だ」

玉楼様が立ち上がり、隙間から受け取る。

蓋を開けて匂いを確かめ、自分で一口含んでから、扈三娘様へ差し出した。

「扈三娘様」

扈三娘様は黙って受け取り、少しだけ飲んだ。

林冲様は返事を求めない。

背を向け、そのまま檻から離れた。

私は馬車を降りたものの、近づかなかった。

玉楼様が周囲を見渡す。

その視線は私の手前を通り、林の奥へ向かった。

松明の光が届く前に、私は荷車の陰へ下がる。

接触は不要です。

必要なのは、二人が無事に梁山泊へ着くこと。

その後の扱いを、誰にも勝手に決めさせないことです。

休息を終え、隊が再び動き始めた頃だった。

後方から馬蹄の音が迫ってきた。

一騎ではない。

数は少ないが、かなりの速さで近づいてくる。

林冲様の兵が武器へ手をかける。

「何者だ」

「我らだ!」

聞き覚えのある声が返った。

松明の中へ現れたのは、宋江様だった。

数人の従者を連れ、馬を汗で濡らしている。

「宋江殿」

林冲様が馬を寄せた。

「陣を離れてよいのか」

「秦明殿へ任せてきた。祝家荘の備えは崩れつつある。攻めを続けるに不足はない」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。

秦明様――

武勇について疑うところはございません。

正面から敵を押し潰すなら、これ以上ない方です。

ですが、花宝燕様との一件以来、秦明様は呉用様を深く信頼している。

策の目的や、その途中で誰が何を失うかまで疑う方ではありません。

前線の指揮権は秦明様。

そのそばに呉用様。

さらに、李逵様。

私は宋江様を見上げた。

「なぜ、こちらへ?」

宋江様は少し困ったように笑う。

「そなたが気掛かりでな」

「私が?」

「王英もおる。捕らえた二人も女子だ。林冲殿がいるとはいえ、そなた一人を戻すのは心許なくてな」

思いがけず、胸が温かくなった。

私を心配して、追ってきてくださった。

戦の最中に、わざわざ前線を離れて。

妻としては、喜ぶべきところなのでしょう。

宋江様の目が、私の向こうにある檻へ向く。

私は馬車の上から、その横顔を見た。

「お二人の扱いについては、林冲様の判断に従ってください」

「まだ何も申しておらぬぞ」

「ですから、先に申し上げました」

宋江様は目を瞬かせた。

扈三娘様と玉楼様は、敵将として捕らえられたばかりです。

今ここで今後の処遇を口にする必要はありません。

宋江様はお優しい方です。

けれど、その優しさゆえに、本人へ尋ねる前から、その者の幸せを決めてしまうことがございます。

「山へ戻ってから、まず事情を確認いたします」

「承知した。林冲殿へ任せよう」

素直に頷いてくださったので、私はそれ以上申しませんでした。

今は、まだ――

ただし、組織運営の立場では、もう一つ確認が必要です。

「李逵様も、前線へ残されたのですか」

「ああ。呉用先生もおる。秦明殿ならば、うまく指揮してくれよう」

宋江様は、本当に安心しておられる。

私は返事を忘れた。

李逵様を止められる方は、宋江様です……

命令系統ではありません。

李逵様の頭の中に存在する、唯一の安全装置という意味です。

秦明様が命じても、戦場で興奮した李逵様が素直に止まる保証はない。

呉用様は、止めるより使う側です。

つまり宋江様は、私を心配してこちらへ来るために、前線で自走式火薬樽を解放してきたことになります。

「婆惜?」

「宋江様」

「何だ」

「私を御心配くださったことには、深く感謝いたします」

「うむ」

「ですが、前線の安全確認はなさいましたか」

宋江様の笑みが、わずかに止まった。

「秦明殿がおる」

「秦明様は強い方です」

「呉用先生もおる」

「呉用様は頭の切れる方です」

「ならば、案ずることはあるまい」

ございます。

強い武将。

頭の切れる軍師。

止まらない李逵様。

戦力だけを見れば十分です。

制御という項目を除けば……

私は独竜岡の方角へ目を向けた。

木々の向こうに、戦場の火は見えない。

夜風だけが山の匂いを運んでくる。

攻略本では、祝家荘は三度の攻撃を経て陥落します。

ですが今回は、一度目です。

すでに筋書きから外れている。

攻略本に載っていないことは、私にも分かりません。

それでも一つだけ分かります。

李逵様へ「敵を討て」とだけ伝え、止める方を置かなければ、敵の範囲は本人が決めます。

「戻られますか」

私が尋ねると、宋江様は眉を寄せた。

「今からか?」

「はい」

「そなたたちを山へ届けてからでも遅くはあるまい。秦明殿を信じよ」

宋江様はそう言って、私の馬車のそばへ並んだ。

心配してくださったことは、本当です。

私を守ろうとしてくださっていることも分かります。

だから、強く責めきれませんでした。

これが宋江様の長所であり、最大の問題でもあります。

誰かを信じる。

誰かを助けようとする。

その善意で、別の場所に空白を作ってしまう。

隊は再び、梁山泊へ向けて動き出した。

前には林冲様。

中央には、扈三娘様と玉楼様を乗せた檻。

王英様は李俊様のそば。

そして私の隣には宋江様がいる。

護送については、もう心配ございません。

林冲様がいる。

宋江様も合流した。

二人の捕虜へ手を出す者はいない。

安全は、こちら側へ集まりすぎています。

私はもう一度、振り返った。

独竜岡は暗闇に沈んでいる。

何も見えない。

そのとき、遠くで乾いた音が一つ響いた。

鳥の群れが、黒い影となって木々の上へ飛び立つ。

続いて、地平の低いところが赤く明滅した。

「攻めが進んだのであろう」

宋江様はそう言った。

私は答えなかった。

前線には、秦明様。

呉用様。

そして、安全装置を外された李逵様。

檻の中よりも、いまはあちらの方が危険です。

もう一度、赤い光が夜空を染めた。

今度は、先ほどよりも広く。

本件、閻婆惜よりご報告いたします。

本日の確認事項は、以下の通りでございます。

配置を変える際は、移動先だけでなく、空いた場所も確認しましょう。

善意による離席であっても、引き継ぎは必要です。

制御できない方へ裁量を渡す場合は、先に停止手段をご用意ください。

遠くの空が赤い場合、順調に進んでいるとは限りません。

皆様も、持ち場を離れる際は、火の元と後任者を必ずご確認くださいませ。

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