緊急避難でございます
閻婆惜でございます。
本日は、潯陽楼からの緊急避難です。
攻略本知識はあります。
危険地点も分かっています。
黄文炳様の名前も、李逵様の危険度も、張順様の水中性能も把握しております。
ですが、知識だけでは足りません。
宋江様は壁に書く。
黄文炳様は通報する。
李逵様は自走式火薬樽。
張順様は水に入ると別人。
李俊様たちは、嫌な予感で駆けつけてしまう。
周りが皆、導火線でございます。
もう私の仕事は、火種を消すことではありません。
爆発した後、誰をどこへ逃がすかです。
採用試験は中止。
ここから先は、緊急避難でございます。
「ここから先は、緊急避難でございます」
私がそう言った直後、階段の下から足音が増えた。
一人や二人ではない。
複数……
しかも、ばらばらではなく、ある程度そろっている。
取り手である……
採用試験は終わりました。
水軍評価も終わりました。
李逵様と張順様の担当区域確認も、もう十分です。
今、必要なのは逃走である。
「宋江様、壁から離れてください」
「婆惜」
「壁はもう諦めます」
本当は諦めたくない。
削れるなら削りたい。
燃やせるなら燃やしたい。
だが、店ごと燃やすわけにはいかない。
今守るべきは、宋江様の身柄である。
次に、ここにいる者たち。
その次に、逃走経路。
優先順位――
大事でございます。
階段を上がってきた男たちが、広間の入口で止まった。
「宋江はいるか」
先頭の男が言う。
後ろには縄を持った者もいる。
はい……
完全に取り手でございます。
戴宗様が前へ出た。
「何事だ。ここは酒楼だぞ」
声は落ち着いている。
さすが役人。
一瞬だけ、場の空気を抑えた。
だが、その後ろから嫌な声がした。
「その男だ」
黄文炳様だった。
やはり来た――
早い。
動きが早すぎます。
黄文炳様は階段の途中から、こちらを見上げている。
壁の文字を見て、宋江様を見て、薄く笑った。
非常に嫌な笑みである。
「壁に不穏な詩がある。酔った戯れでは済まぬ」
済みませんよね……
存じております……
だから、どうにかしたかったのです。
厠に行っている間に書かれました。
事故原因の三番目が、まだ胸に刺さっております。
「宋江殿」
戴宗様が低く言った。
「ここは逃げた方がよい」
「逃げる?」
宋江様はまだ迷っている。
迷っている場合ではありません。
黄文炳様が連れてきた時点で、話し合いの余地はほぼ消えました。
「宋江様」
私は言った。
「ここで弁明しても、壁は消えません」
宋江様の顔がこわばる。
「それは……そうだな」
ようやく伝わった。
遅いです。
ですが、間に合えばよろしい。
間に合えば、ですが……
「捕らえろ!」
取り手の一人が声を上げた。
その瞬間、李逵様が動いた。
「誰を捕らえるって?」
ドスの効いた低い声だった。
先ほどまでの騒がしさとは違う。
本気で怒った声である。
「李逵様、待ってください」
「待たねえ」
ですよね。
李逵様は、もう机を越えていた。
動きが速い。
一撃が重い。
そして、まったく止まらない。
一人目の取り手が吹き飛ぶ。
二人目が縄を落とす。
三人目が悲鳴を上げる。
自走式火薬樽、稼働開始。
「だめです、店内です!」
叫んだところで、聞くはずもない。
張順様も立ち上がっていた。
こちらは李逵様ほど乱暴ではない。
だが、目が静かに変わっている。
「奥方、川側へ出られますか」
「川側?」
「裏から降りれば、船着きに近い」
大変よろしい。
避難経路を見ている。
水中戦力、案内役として有用。
「戴宗様」
私は声を低くした。
「裏口は?」
「ある。だが下にも人がいる」
「では、そちらは張順様に任せます。宋江様は私の後ろへ」
「婆惜、そなたが前に出るのか」
「私が前ではありません。私が進行管理をします」
「進行……」
今、説明している暇はありません。
李逵様が取り手を押し返している。
張順様が席を蹴って、窓際へ回る。
戴宗様は階段側を見ている。
そして宋江様は、まだ壁を一度見た。
見ないでください。
気持ちは分かりますが、見ても消えません。
その時、下から別の声が響いた。
「宋公明殿!」
聞き覚えのある声だった。
李俊様である。
私は思わず顔を上げた。
階段の下、取り手たちの背後に、李俊様がいた。
その横に穆弘様。
少し後ろに穆春様。
張横様もいる。
さらに、居心地の悪そうな顔の李立様までいた。
来た――
来てくださった。
しかも、全員で。
「李俊様!」
私が呼ぶと、李俊様は一瞬こちらを見た。
「嫌な予感がして、後を追っておりました」
嫌な予感――
大変よろしい。
報告前に動ける人材。
採用です。
正式通知を出したい。
今すぐ出したい。
ただし、現場は乱戦中でございます。
「宋公明殿を下へ!」
李俊様が叫ぶ。
張横様が取り手の一人を押さえ、穆弘様が別の男を壁際へ叩きつける。
穆春様は逃げ道を開けるように人を動かしている。
李立様は、いつの間にか縄を持った男の手元へ入り込み、刃物を抜かせる前に腕を押さえていた。
危険――
しかし、有用。
本日何度目か分かりませんが、評価欄に丸が増えます。
「奥方、こちらへ!」
穆春様が叫んだ。
「宋江様、行きます」
「うむ」
宋江様がようやく動いた。
私は袖を押さえた。
もう預かり物はない。
呉用様の手紙は戴宗様へ。
李俊様の紹介状は張順様へ。
どちらも渡した。
だが、渡した相手ごと失えば、意味がない。
人も、縁も、失えない。
この状況でそこまで考えている自分が嫌になるが、考えないよりはよい。
階段へ向かおうとした時、黄文炳様が声を上げた。
「逃がすな! 宋江を逃がすな!」
その声に、李逵様が反応した。
まずい――
「李逵様!」
止めようとした。
間に合わなかった。
李逵様は、取り手を押しのけて階段の方へ飛び出した。
黄文炳様が目を見開き、逃げようとした。
だが、遅い。
李逵様の腕が振り下ろされた。
鈍い音がした。
黄文炳様の声が止まる。
広間が、一瞬だけ静かになった。
私は息を呑んだ。
殺した――
殺してしまった。
黄文炳様は厄介だった。
危険だった。
放っておけば、宋江様は確実に捕らえられた。
それでも、人が一人死んだ事実は変わらない。
採用試験。
事故対応。
緊急避難。
そんな言葉では収まらないところへ、事態が落ちた。
「李逵殿!」
宋江様が叫んだ。
李逵様は肩で息をしていた。
「兄貴を捕らえるって言った」
それだけだった。
宋江様は何か言いかけ、言葉を失った。
私は、すぐに判断を切り替えた。
黄文炳様が死んだ。
取り手が見ている。
潯陽楼には、もういられない。
江州にもいられない。
結論は一つである。
「全員、ここを離れます」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「奥方の言う通りだ」
李俊様が言った。
「もう江州には留まれぬ。穆弘殿の屋敷へ」
穆弘様が頷いた。
「裏道を使う。人を散らすぞ」
穆春様がすぐに走った。
「船着きへ回る者は張横に従え。怪我人を置くな!」
指示が早い。
本当に早い。
穆春様、現場対応だけでなく緊急時も可。
評価を上げます。
こんな時に評価している場合ではありませんが、上げます。
張順様が宋江様の横へ来た。
「水路を使えば追いにくい。奥方、足元に気をつけて」
「ありがとうございます」
「李逵殿は?」
見ると、李逵様はまだ黄文炳様の方を見ていた。
まずい――
ゼンマイのネジが止まっている。
「李逵様」
私は声をかけた。
「今は離れます」
「俺は悪い奴を――」
「宋江様を守るのでしょう」
その言葉で、李逵様の目が動いた。
「宋公明殿を?」
「はい。ここに残ることは、宋江様を危険に置くことです」
李逵様は宋江様を見た。
宋江様は苦い顔をしていた。
だが、逃げなければならないことは理解している。
「李逵殿」
宋江様が言った。
「共に来てくれ」
その一言で、李逵様は頷いた。
「分かった」
早い。
本当に早い。
制御装置の効果が高すぎます。
私たちは潯陽楼を出た。
外はもう騒ぎになっていた。
誰かが叫び、誰かが走る。
取り手の一部はまだ追おうとしている。
だが、李俊様たちは動きが早かった。
張横様が川沿いへ人を流す。
張順様が水辺の者へ声をかける。
穆弘様が堂々と道をふさぎ、穆春様が横道へ誘導する。
李立様は、いつの間にか追っ手の足元へ何かを転がしていた。
何をしたのですか。
聞きたくありません。
今は聞きません。
江州の夜風が、さきほどより冷たく感じた。
「奥方、大丈夫か」
李俊様が並んで声をかけた。
「大丈夫ではございません」
正直に答えた。
李俊様が少し笑った。
「それでも走れている」
「走らなければ、捕まりますので」
「違いない」
この状況で笑える。
強い方である。
いや、違う。
笑っている場合ではない。
でも、少しだけ安心した。
穆弘様の屋敷へ着いた時には、夜が深くなっていた。
門が開き、私たちが入ると、すぐに閉まった。
屋敷の者たちは驚いていたが、穆春様が短く指示を出すと動き始めた。
怪我人を奥へ。
水を出す。
濡れた李逵様へ替えの衣。
宋江様を奥の部屋へ。
早い――
本当に、こういう屋敷は強い。
だが、もう長くは使えない。
私は門の内側で、初めて大きく息を吐いた。
宋江様は無事。
戴宗様もいる。
李俊様、張横様、張順様、穆兄弟、李立様も揃っている。
李逵様は濡れているが元気である。
黄文炳様は死んだ。
江州には戻れない。
取り手は追ってくる。
役所は動く。
つまり――
「婆惜」
宋江様が私を見た。
「これから、どうなる」
私は少しだけ目を閉じた。
答えは、もう見えていた。
「宋江様」
「うむ」
「採用予定者一同、梁山泊行きでございます」
広間が静まった。
誰も否定しなかった。
予定より早い。
手続きも雑。
事故報告書は厚くなる。
後始末は山ほどある。
だが、水軍衆は揃った。
潯陽楼で炎上し、黄文炳様が死に、穆弘様の屋敷へ逃げ込んだ。
ここから先は、もう採用ではない。
合流である。
閻婆惜でございます。
本件、潯陽楼からの緊急避難についてご報告いたします。
宋江様の壁の文字は、消せませんでした。
黄文炳様は、想定より早く動きました。
李逵様は、自走式火薬樽として稼働しました。
結果、採用試験は中止。
黄文炳様は死亡。
江州滞在は不可能となりました。
李俊様たちは、嫌な予感で駆けつけてくださいました。
大変ありがたいです。
ただし、状況はさらに悪化しました。
呉用様の手紙は戴宗様へ。
李俊様の紹介状は張順様へ。
書類は役目を終えましたが、今度は受け取った方々ごと逃がす必要がございます。
穆弘様の屋敷へ逃げ込みましたが、ここも長くは使えません。
水軍衆は揃いました。
手続きは雑です。
事故報告書は厚くなります。
次回、採用予定者一同、梁山泊へ向かいます。




