潯陽楼には行きたくありません
閻婆惜でございます。
本日は、江州へ参ります。
呉用様から戴宗様への手紙。
李俊様から張順様への紹介状。
用件は二つです。
本来なら、それだけで済むはずでした。
ですが、江州には潯陽楼がございます。
宋江様と酒と壁。
この三つが揃う場所には、できれば近づきたくありません。
私は警戒しております。
かなり警戒しております。
それでも、事故は起きる時に起きます。
本日の予定は、手紙の受け渡しです。
炎上対応ではございません。
たぶん――
江州に着いた。
できれば、来たくなかった。
江州という地名だけなら、悪くない。
川があり、人が集まり、役所もあり、商いも動く。
だが、私の頭の中では別の文字が、赤く点滅していた。
潯陽楼――
やめてください。
そこは危険地点でございます。
「婆惜、どうした」
宋江様が、のんきに尋ねた。
「少々、地名に嫌な覚えがございます」
「江州にか?」
「江州そのものではございません」
「では、どこだ?」
「潯陽楼です」
「潯陽楼?」
「お酒を飲む場所でございます」
宋江様は首を傾げた。
分かっていない。
大変よく分かっていない。
私は袂の中を確認した。
呉用様から戴宗様への手紙。
李俊様から張順様への紹介状。
二通――
出発時は、一通だった。
増えている。
仕事は、増える時だけ足が速い。
まずは戴宗様である。
戴宗様は、思っていたより話の通じる方だった。
足が速い役人。
神行太保。
その名前だけ聞くと、もっとせわしない方を想像していた。
だが、実際に会ってみると、礼もあり、話も早い。
呉用様の手紙を渡すと、戴宗様はすぐに中を改め、表情を引き締めた。
「なるほど。呉用先生がそこまでお考えなら、こちらも力になりましょう」
「助かる」
宋江様が頭を下げる。
戴宗様は、宋江様を見る目も柔らかかった。
「宋公明殿の名は、江州にも届いております。まさか、このようにお会いできるとは」
宋江様は、いつもの困ったような笑みを浮かべた。
この名の通り方は、本当に便利である。
名刺としては強すぎる。
問題は、持ち主の危機管理が弱いことでございます。
次は張順様だった。
李俊様の紹介状を見せると、張順様はすぐに態度を改めた。
「李俊兄貴からなら、話は別です」
そう言って、笑った。
人当たりがよく、目は明るい。
身のこなしも軽い。
水辺の者らしく、立っているだけで川の方へ意識が向いている。
張横様とは違う。
張横様は川筋と舟を押さえる人。
張順様は、水中で働く人。
なるほど――
これは、配置を間違えてはいけない。
「奥方は、俺のことも知っておられたとか」
張順様が言った。
「水に強い方が江州にいらっしゃると聞いておりました」
便利な言葉である。
聞いておりました――
本当は攻略本でございます。
言いませんけど……
「それなら、腕を見せねばなりませんな」
「無理に見せていただかなくても」
「いや、水の上ならともかく、水の中では少しばかり自信がある」
少しばかり――
こう言う人ほど、本当に強い。
自慢が軽い。
評価欄には二重丸がつく。
採用です。
いや、まだです。
まだ水に入っていません。
現物確認前でございます。
戴宗様はそこで、ぽんと手を打った。
「せっかく江州まで来られたのだ。潯陽楼で一献、いかがでしょう」
来た――
来てしまった。
その名前を聞いた瞬間、私の中の危険表示が真っ赤になった。
潯陽楼――
宋江様。
酒と壁。
だめです。
非常にだめです。
「戴宗様」
「何でしょう」
「別の場所では駄目でしょうか」
「別の場所?」
「静かで、壁に何も書かなくて済む場所など」
戴宗様が不思議そうな顔をした。
宋江様も、張順様も、こちらを見ている。
しまった――
踏み込みすぎた。
「いえ、落ち着いた場所がよろしいかと」
「潯陽楼は眺めもよく、酒も悪くありません。江州へ来られたなら、一度は」
そういう観光案内みたいな勧め方をしないでください。
そこは名所ではなく、イベント発生地点でございます。
結局、断りきれなかった。
戴宗様と張順様は、いったん用を片づけてから来るという。
私と宋江様は、先に潯陽楼へ向かうことになった。
なぜ先に行くのですか。
なぜ二人だけなのですか。
なぜよりによってその楼なのですか。
問いは山ほどあったが、答えはなかった。
潯陽楼は、見晴らしのよい場所にあった。
潯陽江からの風が通り、気持ちがよい。
人の出入りもある。
普通に考えれば、よい店である。
だから困る。
危険な場所ほど、景色がよい。
私たちは席に通された。
「よい眺めだな」
宋江様が言った。
「はい」
「そなた、顔が硬いぞ」
「気のせいでございます」
「酒でも飲めば、少しは和らぐのではないか」
「私は控えます」
「また警戒か」
「はい」
即答した――
宋江様は苦笑したが、止めなかった。
先日の李立様の店で、少しは学んでくださったらしい。
だが、問題は毒ではなかった。
酒が運ばれる。
宋江様が飲む。
景色を見る。
また飲む。
まずい――
これは、薬ではない。
普通の酒である。
だからこそ止めにくい。
「宋江様、そろそろ……」
「婆惜、江州の風はよいな」
「はい。ですから、静かに眺めましょう」
「人の世は、ままならぬ」
出た――
酔った人が急に世を語り始める時の空気である。
非常に危ない。
「お気持ちは分かりますが、胸の内は……」
そこまで言って、私は口を閉じた。
紙に書けばよい、とは言えない。
内容によっては、紙でも駄目である。
それより、私自身に問題が起きた。
厠である――
なぜ今なのですか。
私は酒を控えていた。
水も控えめにしていた。
それでも、人間の身体には都合というものがある。
「宋江様」
「うむ」
「少し席を外します。すぐ戻りますので、こちらで静かにお待ちください」
「分かった。行ってきなさい」
返事は穏やかだった。
目も、そこまで危なくはないように見えた。
私は迷った。
迷ったが、限界管理にも限度がある。
席を離れた。
ほんの少しだった。
本当に、ほんの少しのつもりだった。
だが、戻ってきた時、私は足を止めた。
宋江様が立っている。
手には筆。
壁には墨。
私は、息をするのを忘れた。
やられた――
完全に、やられた。
「宋江様」
「婆惜、よい風だな」
「風ではなく、壁を見ております」
壁には、見覚えのある危険な文字が走っていた。
よりによって。
本当に、よりによって。
私が席を外した隙に。
なぜですか。
どうしてですか。
待っていてくださいと申し上げましたよね。
しかも、内容が悪い。
ただの風流では済まない。
役所の人間が読めば、反逆の匂いを嗅ぎ取る。
酔った勢いです、では処理できない。
事故報告書に書くなら、原因は明白である。
一、対象者の飲酒。
二、筆記具の放置。
三、監視者の一時離席。
三つ目が、非常に痛い。
「宋江様、筆を置いてください」
「まだ途中だ」
「途中で結構です。完成しない方が世のためです」
「婆惜は厳しいな」
「この件に関しては、もっと厳しくあるべきでした」
私は壁に近づいた。
消せるか。
隠せるか。
布を掛けるか。
駄目だ――
墨はもう乾き始めている。
店の壁である。
勝手に削るわけにもいかない。
いや、削った方がましなのでは?
一瞬、本気で考えた。
その時、視線を感じた。
少し離れたところに、一人の男が立っていた。
身なりは悪くない。
目つきは細かい。
ただ景色を見る客ではない。
壁の文字を見ている。
宋江様を見ている。
そして、私を見た。
嫌な目である。
黄文炳――
頭の中で名前が出た。
はい――
最悪の閲覧者でございます。
私はすぐに、宋江様の前へ半歩出た。
「宋江様、席へお戻りください」
「ん?」
「今すぐ」
声を低くした。
宋江様は、そこでようやく私の顔を見た。
少し酔いが引いたらしい。
遅いです。
黄文炳は、何も言わなかった。
だが、笑った。
通報します、という顔である。
本当にやめてください。
表情で業務連絡をしないでください。
私は壁と黄文炳様の位置を確認した。
出入口。
階段。
宋江様の足元。
逃げるなら、今か――
そう判断しかけた時、階下から賑やかな声がした。
「宋公明殿はどちらだ!」
戴宗様の声だった。
遅い――
今来た。
遅いです。
しかも、助かったとは思えなかった。
なぜなら、声が一つではなかったからだ。
もう一つ、太くて大きくて、嫌な勢いの声がした。
「酒だ酒だ! 宋江の兄貴に会えるってのは本当か!」
私は目を閉じた。
連れて来てしまった。
自走式火薬樽――
李逵様でございます。
戴宗様は、比較的よい方である。
張順様も、人当たりはよい。
江州の用件も、ここまでは処理できていた。
ただし、潯陽楼に入った時点で、予定表は燃え始めていた。
壁には、宋江様の危険な文字。
近くには、黄文炳様の不敵な笑み。
階下からは、李逵様の声。
そして、張順様はまだ来ていない。
水軍採用どころではない。
これは、火災対応でございます。
呉用様。
李俊様。
大変申し訳ございません。
江州の用件は、予定より早くも炎上しております。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
江州での用件は、無事に増えました。
呉用様から戴宗様への手紙。
李俊様から張順様への紹介状。
ここまでは、まだ予定内でございます。
問題は潯陽楼です。
宋江様と酒と壁。
この三点が揃った時点で、危険表示は真っ赤でした。
私は警戒しておりました。
かなり警戒しておりました。
ですが、厠までは我慢できません。
戻ってきたら、壁に文字がございました。
やられました。
しかも、黄文炳様に見られました。
さらに戴宗様が、李逵様を連れてきました。
自走式火薬樽、到着でございます。
次回、張順様も合流予定です。
水軍採用のはずが、潯陽楼はすでに炎上しております。




