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情だけでは、人は動きません

閻婆惜でございます。

本日は、情だけでは人は動かない件について確認いたします。

慰めは必要です。

ですが、行き先と役割が決まらなければ、その場で全員止まります。

秦明様には弔いを。

黄信様には証人の役目を。

宋江様には受け入れの責任を。

花栄様の婚姻案は保留でございます。

なお、王英様の婚姻案件は、そもそも議題に上がっておりません。

以上、元秘書による進行整理でございます。

情だけでは、人は動かない。

それは、前の会社で嫌というほど見てきた。

お気持ちは分かります。

大変でしたね。

ご無理なさらないでください。

どれも必要な言葉である。

けれど、それだけで会議室を出れば、翌朝には同じ問題が机の上へ戻ってくる。

誰が動くのか。

いつまでに動くのか。

責任を持つのは誰か。

失敗した場合、どこへ逃がすのか。

そこまで決めて、ようやく仕事になる。

今、目の前にいる秦明様へ、それをそのまま言えば殴られると思う。

たぶん、かなり痛い。

下手をすれば死ぬ。

女は殴らない人だと信じたい。

でも、言い方は慎重に選ばなければならない。

秦明様は、地面に膝をついたまま動かなかった。

青州の城門は閉じている。

城壁の上には、こちらを見下ろす兵の姿があった。

誰も門を開けようとはしない。

地面に落ちた首だけが、秦明様の帰りを迎えていた。

声をかける者はいなかった。

宋江様も、花栄様も、言葉を探している。

黄信様は縄を受けたまま、青い顔で秦明様を見ていた。

情だけなら、皆にある。

宋江様は秦明様を救いたい。

花栄様は自分の責任を取りたい。

黄信様は上官を一人にしたくない。

だが、それだけでは何も決まらない。

秦明様が立ち上がった。

ふらついていた。

それでも、青州の門へ向かおうとする。

私は前へ出た。

「秦明様」

「退け」

低い声だった。

怒鳴られるより怖い。

「退きません」

秦明様がこちらを見る。

目が赤い。

泣いたからではない。

怒りと、まだ信じきれない気持ちが混ざっていた。

「俺は城へ戻る」

「門は開きません」

「開かせる」

「お一人で?」

秦明様の手が動いた。

殴られるかと思った。

だが、拳は上がらなかった。

「兵は失った。黄信も捕らえられた。だから何だ。俺は青州の総司令だ」

「先ほどまでは、そうでございました」

秦明様の顔が歪んだ。

言い方が悪いのは分かっている。

けれど、ここを曖昧にすると、この方は門の前で死ぬ。

「今の青州は、秦明様を総司令として扱っておりません」

「黙れ」

「黙りません」

宋江様が、わずかに動いた。

止めようとしたのかもしれない。

私は手で制した。

今は宋江様の情が入ると、話が柔らかくなりすぎる。

柔らかくしてよい場面ではない。

「秦明様が城へ近づけば、矢を射られます」

「ならば、城門を破る」

「それをすれば、敗軍の責任では済まなくなります」

秦明様が止まった。

「何だと」

「青州側は、兵を失った責任を秦明様へ負わせました。御家族まで処刑した以上、今さら処分が重すぎたとは認めません」

風が吹いた。

血の匂いがした。

「ここで秦明様が城門を攻めれば、今度こそ反逆として処理されます」

「俺は、賊ではない」

「はい」

「命令を受けて討伐へ出た」

「はい」

「兵を失った責任は俺にある。だが、家族は違う」

「おっしゃる通りです」

「ならば!」

「だからこそ、青州へ攻め入ってはいけません」

秦明様の口が止まった。

私は黄信様を見た。

「黄信様」

「……何でしょう」

「秦明様が青州から討伐命令を受け、出陣されたことを証言できますね」

「できます」

「敗れた後も、青州へ戻ろうとなさったことも」

「もちろんです」

「では、黄信様は敗軍の将である前に、証人でございます」

黄信様が、少しだけ目を見開いた。

自分が何者なのか分からなくなっていた顔に、ひとつ役割が戻った。

「証人……」

「はい。秦明様お一人で処分の不当を訴えても、敗軍の将の言い訳として退けられます」

秦明様の眉が動く。

「黄信様お一人なら、上官を庇うための弁明と見られるでしょう」

黄信様が黙った。

「ですが、お二人が同じ経緯を話せば、記録になります」

「記録?」

秦明様が吐き捨てるように言った。

「家族が死んだのだぞ。紙に書けば戻るのか」

「戻りません」

私は答えた。

「だからこそ、消されない形にします」

秦明様の拳が震えていた。

「青州が秦明様の弁明を待たなかったこと。兵を失った責任を御家族にまで及ぼしたこと。黄信様がその処分を知らされていなかったこと。すべて残します」

「誰が読む」

「梁山泊にいる者が読みます」

「賊の山ではないか」

「今の青州より、話は聞くかと存じます」

宋江様が、少しだけ困った顔をした。

そこは困るところではない。

本当のことである。

花栄様が一歩前へ出た。

「秦明殿」

秦明様の目が向く。

「先ほど申し上げたことは、本気です」

「妹の話か」

「はい」

「妻子の首を見た直後に、別の女を寄越すと言うのか」

花栄様の顔が白くなった。

当然の反応だった。

花栄様の提案に悪意はない。

むしろ、情としては重い。

自分の妹を差し出してでも、秦明様を一人にしないつもりなのだろう。

だが、順番が悪い。

今は結婚の話ではない。

「花栄様」

「はい」

「御提案は、いったん保留にしてください」

花栄様がこちらを見る。

「保留?」

「秦明様は、今、妻を選ぶ状況ではございません」

秦明様が鼻で息を吐いた。

「よく分かっているではないか」

「ですが、花栄様の御提案そのものを断る必要もございません」

「どちらだ」

「後で決めます」

秦明様の目が止まった。

「後で?」

「はい。今決めると、慰めと責任が混ざります。混ざったまま進めると、後で全員が困ります」

「俺の婚姻を、仕事の段取りのように言うな」

「仕事より重いので、なおさら段取りが必要です」

黄信様が、ほんの少しだけ顔を伏せた。

笑ったのかもしれない。

この状況で笑うのは不謹慎だが、少し息が戻ったなら、それでいい。

後ろから王英様の声がした。

「俺の嫁の話は?」

全員が黙る。

なぜ今、それを言う。

私は、わざと振り返らなかった。

「議題にございません」

「ずっとねえじゃねえか」

「今後もございません」

「即答かよ!」

後ろで、燕順様が王英様の後頭部を叩く音がした。

少しだけ、空気が緩む。

秦明様は笑わなかった。

だが、今すぐ城門へ突っ込む顔ではなくなっていた。

私は続けた。

「決めるべきことは三つです」

「勝手に決めるな」

「決めるのは秦明様です。私は並べるだけでございます」

秦明様は黙った。

「一つ目、今夜はどこで身を守るか」

「清風山ではないのか」

「火計でかなり麓を焼きました。長く留まれる状態ではございません」

燕順様が、後ろで唸った。

自分の山を使い潰されたのだから、面白いはずがない。

「二つ目、誰と行動するか」

私は黄信様を見る。

「黄信様には、秦明様と行動していただく必要がございます」

「必要?」

「はい。証人を別々にすると、片方が消えた時点で経緯が崩れます」

黄信様の顔が強張った。

「消えるとは」

「捕まる。殺される。口を塞がれる。どれでも同じです」

秦明様が黄信様を見た。

初めて、上官としてではなく、同じ場所を失った者を見る目になった。

「三つ目、梁山泊へ入る際の名分です」

宋江様が口を開いた。

「わしが二人を迎える」

「それだけでは足りません」

宋江様が止まる。

「また足りぬのか」

「はい」

「厳しいな」

「今回、情だけでは通りません」

私ははっきり言った。

「秦明様と黄信様は、敗れて梁山泊へ逃げ込むのではございません。青州が敗戦の弁明を待たず、御家族にまで責任を及ぼしたため、経緯を残せる場所へ移るのです」

黄信様が、ゆっくり顔を上げた。

「それが名分になると?」

「少なくとも、何となく山賊になるよりはましです」

王英様が後ろで何か言った。

今度は燕順様が口を塞いだらしい。

くぐもった声だけが聞こえた。

よろしい。

燕順様は、よく分かっていらっしゃる。

「梁山泊へ着いたら、秦明様には討伐の経緯を話していただきます」

「誰にだ」

「晁蓋様、呉用様、必要であれば、公孫勝様にも」

宋江様が少しだけ顔を動かした。

「わしでは駄目か」

「宋江様は当事者です」

「そうか」

「はい。かなり当事者です」

「そこまで言うか」

「言います」

秦明様が、ため息を漏らした。

怒りは消えていない。

消えるはずもない。

ただ、怒りの向こうに、次の手順が見え始めている。

それでいい。

今、必要なのは納得ではない。

今すぐ動ける手筈である。

「秦明様」

「何だ」

「今すぐ私どもを許す必要はございません」

秦明様の目が細くなる。

「許すと思うか」

「思いません」

「ならば、なぜ梁山泊へ行けと言う」

「恨んだままでも、生きられるからです」

風が止まった。

「青州へ戻れば、秦明様は死にます。ここで城門を攻めれば、敗軍の将ではなく反逆者として処理されます。ですが、梁山泊へ行けば、少なくとも御自分の言葉を残せます」

「賊になってか」

「今の青州は、秦明様を切り捨てる側に回っております」

秦明様の顔が歪んだ。

「違いは、秦明様が次の行き先を選ぶか、青州に死に方まで決められるかでございます」

長い沈黙があった。

やがて、秦明様は地面に落ちた首を見て、膝をつき直した。

「……弔いたい」

「はい」

「まず、家族を弔わせてくれ」

「承知しました」

「その後だ」

「はい」

「黄信」

「はっ」

黄信様が、縄を受けたまま姿勢を正した。

秦明様は、その縄を見た。

「外してやってくれないか」

燕順様が私を見る。

私は頷いた。

「外してください」

縄が解かれる。

黄信様は手首を押さえたあと、秦明様の隣へ膝をついた。

二人とも、まだ梁山泊へ行くとは言っていない。

けれど、別々にはならなかった。

それで十分だった。

宋江様が、静かに言った。

「弔いが済むまで待とう」

秦明様は返事をしなかった。

花栄様も、妹の話を蒸し返さなかった。

よろしい。

少しだけ、順番を覚えていただけたらしい。

私は頭の中で確認する。

秦明様と黄信様は同道。

青州へは戻らない。

弔いを優先。

梁山泊では、宋江様以外の者も交えて経緯を確認。

花栄様の妹君の件は保留。

王英様の婚姻案件は永久に議題外。

最後だけは、紙に書かなくても忘れない。

そこだけ情け無用。

それでも、情は必要である。

情がなければ、人は助けようと思わない。

だが、情だけでは、助けた後に立つ場所がない。

秦明様には怒る理由がある。

黄信様には付き添う理由がある。

花栄様には償いたい気持ちがある。

宋江様には受け入れる覚悟がある。

私は、それらがぶつからないように並べる。

それだけである。

軍師ではない。

偉くもない。

ただの秘書だった。

けれど、誰かが予定を組まなければ、悲しみはいつまでも会議室から出ていかないのである。

本件、閻婆惜よりご報告いたします。

本日の処理結果は、以下の通りでございます。

秦明様は、まず御家族を弔うことになりました。

黄信様には、証人として同行していただきます。

梁山泊へ向かう件は、弔いの後に確認いたします。

花栄様の婚姻提案は保留。

王英様の婚姻案件は、引き続き存在しません。

以上でございます。

情は必要ですが、順番を間違えると話がややこしくなります。

まずは弔い、その次に移動。

婚姻は、その後でございます。

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