戻る場所は、もうございません
閻婆惜でございます。
本日は、火計の後始末についてご報告いたします。
秦明様を焼くのではございません。
焼くのは、秦明様と兵の間でございます。
ただし、火は山道だけを焼くとは限りません。
人の帰る場所まで、焼いてしまうことがございます。
戻る場所がなくなった方には、次の行き先が必要です。
なお、綺麗事だけで済む段階は、すでに過ぎております。
黄信様が逃げた後、清風山に勝った空気はなかった。
山道には、倒れた兵の跡が残っていた。
矢を抜く者がいる。
血のついた土を踏まないように歩く者がいる。
劉高様が倒れた場所には、もう人が寄っていない。
火種は消えた。
だが、火は逃げた。
黄信様は、青州へ戻る。
おそらく、秦明様を連れて来る。
だから、休む暇はない。
「奥方」
燕順様が、低い声で言った。
「本当に、この山を使うのか」
「はい」
私は頷いた。
「秦明様を正面から受ければ、こちらが持ちません」
「霹靂火だからな」
「はい。ですが、秦明様を焼くのではございません」
燕順様が目を細める。
「では、何を焼く」
「秦明様と兵の間です」
少し、場が静かになった。
王英様が顔をしかめる。
「間を焼くって何だよ」
「距離を焼きます」
「分からねえよ」
「秦明様が前へ出る。兵が続く。その間に火を入れます。秦明様本人ではなく、後続を止める火です」
鄭天寿様が、静かに頷いた。
「秦明殿だけを前に出させるのですね」
「はい」
「孤立させる」
「はい」
王英様が腕を組んだ。
「で、俺は?」
「火から離れてください」
「また油かよ」
「今回は本当に火を使います」
王英様は黙った。
よろしい。
冗談で済む話ではないと、少しは伝わったらしい。
宋江様は、黙って私を見ていた。
「婆惜」
「はい」
「秦明殿を殺さぬのだな」
「殺しません」
「捕らえるのか」
「黄信様は捕らえます。秦明様は……おそらく、一度逃げます」
宋江様の顔が動いた。
「逃がすのか」
「逃がすというより、戻らせる形になるかと」
「なぜだ」
「青州が、秦明様をどう扱うかを見なければなりません」
我ながら、嫌な言い方だった。
だが、そこを見ないと、この先が決まらない。
黄信様は前回、兵を失って逃げた。
その黄信様が秦明様を連れて戻って来る。
そしてまた、兵を失う。
青州がそれを、ただの敗戦として見るとは思えなかった。
昼を過ぎる頃、見張りが戻った。
「来ました!」
燕順様が立つ。
「数は」
「前より多いです。先頭は秦明。黄信もいます」
空気が変わった。
秦明様――
名前だけで、場が沸き立つ。
まだ姿も見えないのに、山の空気が乾くようだった。
「配置へ」
私は言った。
自分の声が、思ったより冷たかった。
燕順様が手を上げる。
鄭天寿様が人を走らせる。
花栄様は弓を取った。
宋江様は、私の隣へ下がる。
王英様は、さらに奥へ下げられた。
「おい、俺だけ遠くねえか」
「火計ですので」
「もう分かったよ」
分かっていただけて、何よりである。
山の下から、怒声が近づく。
前回の黄信様とは違う。
声の量ではない。
圧が違う。
秦明様は、止まるために来ていない。
押し破るために来ている。
やがて、山道の向こうに赤い鎧姿が見えた。
大きな馬上の男。
こちらを見上げる目に、迷いがない。
その少し後ろに、黄信様がいた。
前回より顔が硬い。
自分が連れて来た火の大きさを、分かっている顔だった。
「宋江!」
秦明様の声が響いた。
「花栄! 山賊ども! 出て来い!」
王英様が奥で何か言いかけたが、手下に止められている。
よろしい。
秦明様の兵が、前へ、前へと山道に入ってくる。
「まだです」
私は、自分に確認するように言った。
花栄様の指が、弓にかかる。
燕順様は動かない。
鄭天寿様も、伏せ場を見ている。
秦明様がさらに前へ出た。
黄信様が声を上げる。
「秦明殿、前へ出すぎです!」
秦明様は止まらない。
その瞬間、火が上がった。
秦明様の後ろ。
兵の前。
山道の両脇。
乾いた枝に火が走る。
油を使った場所では、炎が一気に伸びる。
煙が巻き、兵の足が止まった。
秦明様本人には届かない。
届かせない。
焼くのは人ではない。
距離である。
「今です」
花栄様の矢が飛んだ。
秦明様の馬の前。
次に、横へ逃げようとした兵の足元。
燕順様の伏兵が出る。
鄭天寿様の手下が、黄信様の側へ回る。
兵は前へ出られない。
後ろも詰まる。
煙で合図が乱れる。
秦明様だけが、火の向こうへ出ていた。
「卑怯な!」
秦明様が吠えた。
その声は、本当に雷のようだった。
けれど、こちらへ届く前に煙が裂く。
秦明様は強い。
正面からなら、こちらが砕かれる。
だから正面に立たない。
私は手を握った。
指先が冷たい。
黄信様が下がろうとしたところを、燕順様の手下が囲んだ。
黄信様は剣を抜いたが、すぐに数で押さえられる。
逃げ道は、もう残していない。
前回とは違う。
今回は、黄信様を逃がさない。
一方、秦明様は炎の切れ目を見つけ、馬を返した。
一瞬、花栄様が弓を引く。
だが、撃たなかった。
秦明様は青州へ向かって走っていった。
誰も追わない。
追えない。
追うべきでもない。
火の中を追えば、こちらもタダでは済まない。
秦明様だけが戻る。
兵を失い、黄信様を失い、火計に敗れて……
青州が、その秦明様をどう見るか。
答えは、夕刻には出た。
青州の城門が見える場所まで、私たちは隠れて進んだ。
宋江様、花栄様、私。
燕順様たちは少し離れている。
捕らえた黄信様も、縄を受けたまま連れて来られていた。
黄信様は、黙っていた。
顔色が悪い。
秦明様が城門へ近づく。
「開けろ!」
声が響いた。
「俺だ! 秦明だ!」
城の上に、人影が出た。
返事はなかった。
しばらくして、城壁の上から何かが投げられた。
地面に落ちる音とともに、秦明様の動きが止まる。
私は、息を忘れた。
首だった。
秦明様の家の者たちの首。
誰も、すぐには動けなかった。
秦明様が馬から落ちるように降りた。
膝をつき、何かを叫んだ。
言葉になっていなかった。
黄信様が、縄を受けたまま震えていた。
「……早すぎる」
その声は、かすれていた。
「まだ、弁明も……」
そうだ。
早すぎる。
青州は、秦明様の帰りを待たなかった。
敗戦の理由を聞かなかった。
兵を失った責任を、本人の言葉より先に処理した。
家族を――
秦明様が顔を上げた。
その顔は、怒りでも悲しみでも足りなかった。
何かが壊れた顔だった。
「俺は……命を受けて出た」
秦明様の声が震えている。
「兵を失った。それは俺の責任だ。だが、妻子が何をした」
誰も答えなかった。
「弁明も聞かず、首を投げるのが朝廷か」
宋江様が、ゆっくり前へ出た。
「秦明殿」
「来るな!」
秦明様が吠えた。
花栄様も前へ出る。
顔が蒼白い。
「秦明殿、私が」
「黙れ!」
秦明様の怒りは、こちらにも向いている。
当然である。
こちらが秦明様を敗れさせた。
兵を失わせた。
青州へ戻らせた。
だが、首を投げたのは青州だ。
私は一歩前へ出た。
「秦明様」
秦明様の目がこちらへ向く。
殺されるかもしれない。
そう思った。
だが、ここで黙れば、秦明様は怒りの向きを見失う。
「私どもを恨むのは当然でございます」
宋江様がこちらを見た。
花栄様も止まる。
私は続けた。
「ですが、御家族を殺したのは、私どもではございません」
秦明様の顔が歪む。
「では、誰だ!」
「秦明様の弁明を待たず、責任を家族へ及ぼした者たちでございます」
風が冷たかった。
「兵を失った責めは、秦明様に問われるべきものでしょう。ですが、御家族は兵を率いておりません。戦場にも出ておりません」
秦明様の手が震えている。
「その怒りを、どこへ向けるべきかだけは、間違えないでください」
「俺に、どうしろと言う」
「戻る場所は、もうございません」
言った瞬間、秦明様の顔がさらに壊れた。
それでも、言うしかなかった。
「ですが、行き先は作れます」
花栄様が、苦しそうに口を開いた。
「秦明殿。私の妹を、貴殿へ嫁がせたい」
秦明様が花栄様を見る。
「何を……」
「失われたものの代わりになるとは思わぬ。だが、私なりに責めを負いたい」
花栄様の声は、震えていなかった。
だからこそ重かった。
私は、花栄様へ頭を下げた。
「花栄様の御提案は、秦明様を一人にしないためのものとして意味がございます」
そして、秦明様へ向き直る。
「ですが、それだけでは足りません」
宋江様が息を呑む。
「秦明様が失ったのは、御家族だけではございません。青州へ戻る道、官としての立場、明日から名乗る名分、そのすべてでございます」
秦明様は黙っている。
「必要なのは、慰めだけではございません。行き先と名分でございます」
私は黄信様を見る。
「黄信様」
黄信様が顔を上げる。
「あなた様にも、もう戻る場所はございません」
「……私もか」
「はい。黄信様は秦明様が最初から賊に通じていなかった証人です。同時に、青州が弁明を待たず処断した証人でもあります」
黄信様は目を閉じた。
「梁山泊へ」
私は言った。
「秦明様、黄信様、お二人とも梁山泊へ向かうべきです」
秦明様は動かない。
「死ぬ場所ではなく、生きて怒りを残す場所が必要です」
秦明様の手が、土を掴んだ。
「俺は、朝廷に仕えた」
「はい」
「その朝廷が、俺の家族を斬った」
「はい」
「俺は……どこへ戻ればいい」
「戻る場所ではなく、進む場所を選んでください」
沈黙が流れる。
宋江様が、低い声で言った。
「秦明殿。わしが受ける」
その声は、いつもの柔らかさだけではなかった。
責任を引き受ける声だった。
「梁山泊へ来られよ」
秦明様は、すぐには答えなかった。
当然である。
家族の首を前に、すぐ次の道など選べるはずがない。
それでも、秦明様はもう青州へ戻れない。
黄信様も、戻れない。
清風山も、もう戻れない。
火は、人の帰る場所を焼く。
私はそれを見ていた。
悪女になる暇がない。
だが、綺麗事だけで立っていられる場所も、もう少ない。
秦明様は、土の上で、低く声を漏らした。
泣き声にも、獣の唸りにも聞こえた。
その声を聞きながら、私は思った。
私は、先を読んでいるのではない。
燃えた後に、どこへ逃がすかを考えているだけである。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の処理結果は、以下の通りでございます。
秦明様と兵の間に火を入れました。
黄信様を捕縛いたしました。
秦明様は青州へ戻られました。
青州は、弁明を待ちませんでした。
以上でございます。
秦明様が失ったのは、御家族だけではございません。
戻る場所、官としての立場、明日から名乗る名分でございます。
花栄様の御提案は、慰めとして意味がございます。
ですが、それだけでは足りません。
必要なのは、行き先と名分でございます。
なお、私は先を読んでいるのではございません。
燃えた後に、どこへ逃がすかを考えているだけでございます。




