逃げ道は一つだけ残します
閻婆惜でございます。
本日は、逃げ道について確認いたします。
敵をすべて塞げば、勝てるとは限りません。
塞ぎきれば、火は別の形で大きくなることがございます。
黄信様は殺さない。
劉高様の火種は消す。
花栄様には、人を討つ弓ではなく止める弓をお願いいたします。
その上で、逃げ道は一つだけ残します。
なお、その先に秦明様がいることは、確認済みでございます。
山の麓から、兵の声が近づいてきた。
まだ姿は見えない。
けれど、一人二人の声ではなかった。
かなりの数がいる。
足音が重なり、鎧の擦れる音が混じる。
清風寨の屋敷へ来た使いとは違う。
これは、話し合いの音ではない。
燕順様が、前へ出た。
鄭天寿様も、その少し後ろに立つ。
二人とも、山賊の頭らしい顔になっていた。
さっきまでの火のそばの雰囲気とは違う。
ここが根城であり、相手が踏み込んで来るなら迎える、という顔である。
王英様は奥へ下げられている。
不満そうだったが、燕順様の手下が二人、横に立っていた。
よろしい。
油は火から離す。
これだけは徹底しなければならない。
宋江様は、私の横にいた。
花栄様はさらに少し後ろで、弓を手にしている。
矢を番え、いつでも引ける姿勢だった。
人を殺す弓ではなく、足を止める弓である。
私は自分に言い聞かせるように、そう考えた。
やがて、木々の向こうから兵が見えた。
およそ五十ほど。
先頭に立つ男は、背筋が伸び、役目を負った者の顔をしていた。
黄信様だろう。
その後ろ、少し守られるような位置に、劉高様の姿も見えた。
来た――
火種が、火の形の後ろに隠れている。
劉高様は、こちらを見上げていた。
勝ちを確かめるような目だった。
自分の疑いが、兵になり、名目になり、山へ向かっている。
そのことに、力を得ている顔である。
黄信様が馬を止め、兵も止まる。
お互いの距離はまだある。
だが、声は届く。
「清風山の者どもへ告げる」
よく通る声だった。
「清風寨の花栄、および宋江を匿っているとの訴えがある。両名を出せ。事情を聞く」
燕順様は、すぐには答えなかった。
間を置くだけで、相手の声が山の中へ吸われる。
「訴えねぇ?」
燕順様が声を張り上げる。
「誰の訴えだ」
黄信様の視線が、わずかに後ろへ動いた。
劉高様が一歩前に出かける。 だが、黄信様は手を上げて止めた。
「清風寨知寨、劉高殿よりの訴えだ」
やはり、そう来た。
宋江様の息が、少し動いた。 私が横目で見ると、出たそうな顔ではなかった。
よろしい。
本当に、かなり進歩している。
花栄様は、弓を握る手に力を入れていた。
黄信様の声を知っているのだろう。
顔も知っている。
その相手が、自分の名を呼び、出て来いと言う。
苦いはずである。
「花栄殿」
黄信様が続けた。
「そこにおられるなら、出て来られよ。そなたと私は、知らぬ仲ではあるまい」
花栄様の肩が、わずかに動いた。
私は小さく言った。
「花栄様」
「分かっています」
声は静かだった。
「前へは出ません」
よろしい。
とてもよろしい。
黄信様の声が、さらに鋭くなる。
「宋江殿もだ。身柄を確かめねばならぬ。出られよ」
宋江様は黙っていた。
だが、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
自分が出れば収まるかもしれない。
そう思う顔だった。
私は先に言う。
「宋江様」
「分かっておる」
「出てはいけません」
「分かっておる」
「本当に?」
「分かっておる」
よろしい。
三度確認しても、まだ出ない。
これは大きい。
燕順様が前で答えた。
「ここには、あんたらに渡す者はいねえ」
黄信様の眉が動いた。
「山賊が官の求めを拒むか」
「官だの何だの知らねえな。ここは清風山だ」
「ならば、力ずくで改める」
兵が動いた。
その瞬間、花栄様が矢を番えた。
音は小さかった。
けれど、私にははっきり聞こえた。
弦が張り、空気が細く締まる音。
矢が飛び、黄信様のすぐ前の地面へ突き立つ。
馬が驚いて足を乱した。
兵が一瞬止まる。
殺していない。
止めている。
よろしい。
「花栄!」
黄信様が叫んだ。
怒りというより、驚きが強い声だった。
知っている相手から矢を向けられ、驚いた声である。
花栄様は答えなかった。
二本目の矢を番える。
次は、踏み出した兵の足元へ落ちた。
兵が乱れる。
その時、横合いの藪が鳴った。
伏せていた者たちが、一斉に動いた。
左右から、上から、木々の間から矢が降り注ぐ。
黄信様の兵が声を上げた。
盾を持つ者が前へ出る。
だが、山道は狭く、五十の兵は広がれない。
前へ出ようとすれば、足元を狙われ、横へ逃げようとすれば、藪から矢が来る。
燕順様は、完全には塞いでいない。
逃げ道は一つだけ残してある。
そこだけは、矢が薄い。
見れば分かる。
分かるように残してある。
黄信様も、それに気づいたはずだ。
「退くな!」
黄信様が叫ぶ。
だが、兵はもう乱れていた。 名目を持って来た兵が、山の形に飲まれている。
平地ではなく、役所の庭でもない。
ここは清風山である。
劉高様の声が聞こえた。
「何をしている、進め! 宋江を、花栄を捕らえよ!」
その声は、高く、焦っていた。
先ほどまでの勝ちを確かめる顔は、もうなかった。
兵の後ろにいれば安全だと思っていた顔が、崩れている。
矢が飛んだ。
誰の矢かは分からない。
伏兵の一人が放ったのだろう。
それは、兵の間を抜け、劉高様の胸に当たった。
劉高様の声が止まる。
一瞬、何が起きたのか分からない顔をしていた。
自分が倒れる側に入っているとは思っていなかった顔だった。
手が胸へ行く。
指の間から血が滴り、膝から崩れ落ちる。
誰かが「劉知寨!」と叫んだ。
劉高様は、その声に答えなかった。
口だけが動いた。
何かを言おうとしている。
だが、声にはならなかった。
私は、それを見ていた。
討てとは言っていない。
だが、止めろとも言っていない。
劉高様は火種だった。
疑いを持ち、言葉を持ち、兵を呼んだ。
その火種は、自分が持ち込んだ形の中で消えた。
胸の奥が、冷えた。
よかった、とは思わない。
かわいそう、とも言えない。
ただ、ひとつの火種が消えた。
それだけだった。
だが、火は消えていない。
黄信様がいる。
黄信様は、劉高様が倒れたのを見た。
顔が変わる。
その変化は、怒りでは済まない。
責任と、衝撃と、判断が一度に来た顔だった。
「引け!」
黄信様が叫んだ。
兵が崩れ、残った者たちが、逃げ道へ向かう。
燕順様は追わなかった。
鄭天寿様も、そこを見て手下を止めている。
よろしい。
殺しきってはいけない。
塞ぎきってもいけない。
黄信様は、逃げ道へ馬を向けた。
その背へ、花栄様が矢を番える。
私は息を止めた。
花栄様の指が動き、弓が引かれる。
狙いは黄信様の背ではない。
馬の前、逃げ道の端。
矢が放たれる。
黄信様の馬が一瞬足を乱す。
黄信様は振り返った。
花栄様と目が合ったのだと思う。
遠すぎて、私にはその目までは見えない。
けれど、一瞬だけ黄信様の動きが止まった。
そして、逃げた。
残しておいた道を通って……
黄信様は殺さない。
逃げ道は、一つだけ残す。
確認事項通りである。
そのはずなのに、胸が重い。
黄信様が逃げた先には、秦明様がいる。
それが分かっているからだ。
山道に、倒れた兵が残った。
うめく声がある。
動かない者もいる。
劉高様は、もう動かない。
燕順様が戻ってきた。
顔に勝ちの色はない。
鄭天寿様も同じだった。
「奥方」
「はい」
「黄信は逃げた」
「はい」
「追わなくていいんだな」
「はい」
王英様が奥から声を上げた。
「何でだよ。逃がしたら、また来るだろ」
「来ます」
私は答えた。
王英様が黙った。
宋江様も、花栄様もこちらを見る。
「黄信様は、秦明様を連れて戻って来る可能性が高うございます」
火のそばではないのに、空気が熱くなった気がした。
燕順様が低く言う。
「分かって逃がしたのか」
「はい」
「なぜだ」
「黄信様をここで殺せば、火は別の形で大きくなります」
「逃がしても大きくなる」
「はい」
「どちらでも火は来るのか」
「はい」
私は頷いた。
「ですが、今ここで黄信様を殺す場面ではございません。劉高様の火種は消えました。兵の形も崩れました。今は、それで止めるしかございません」
花栄様が、弓を下ろした。
顔が白い。
黄信様を殺さなかったことに安堵しているようにも、逃がしたことを悔いているようにも見えた。
「奥方」
「はい」
「私は、黄信殿を逃がしました」
「はい」
「次は、秦明殿が来るのですね」
「おそらく」
花栄様は目を伏せた。
「では、私は火を呼んだことになりますか」
「違います」
私はすぐに言った。
「火を呼んだのは、劉高様です」
「しかし」
「花栄様は、黄信様を殺しませんでした」
花栄様がこちらを見る。
「それは、今後のために必要なことです」
本当にそうかは、分からない。
けれど、今はそう言うしかなかった。
宋江様が重い声で言った。
「婆惜」
「はい」
「この後、どうする」
来た。
ここである。
私は、山の麓を見る。
倒れた者たち、逃げた兵、消えた火種、残った火。
そして、この清風山。
今は水だった。
宋江様と私を逃がす水。
花栄様を捕縛から遠ざける水。
だが、次に来るのは大きな火である。
秦明様を相手にするなら、ただ隠れるだけでは足りない。
この山全体を使うしかない。
私は燕順様へ向き直った。
「燕順様、鄭天寿様」
「何だ」
「次に秦明様が来た場合、この山を使わせていただきます」
燕順様の目が細くなる。
「使う?」
「はい」
王英様が嫌な顔をした。
「おい、何だよ、その言い方」
私は続けた。
「伏兵だけでは足りません。道、木立、伏せ場、退路。清風山全体を火計の形にします」
王英様が立ち上がりかけた。
「山を燃やす気か」
「はい」
「はい、じゃねえだろ!」
「秦明様を止めるには、それしかございません」
燕順様は笑わなかった。
鄭天寿様も、静かにこちらを見ている。
「秦明を焼くのか」
「違います」
私は首を振った。
「秦明様を焼くのではございません。秦明様の周りを焼きます」
鄭天寿様が言った。
「兵と切り離すのですね」
「はい。秦明様は大火力です。正面から受ければ、こちらが焼かれます。ですが、周囲を火で囲えば、後続は寄れません」
「孤立させる」
「はい」
「そのために、山を使う」
「はい」
燕順様は、しばらく黙っていた。
清風山は、この人たちの根城である。
客として来た私が、燃やすと言っている。
まともな話ではない。
だが、ここを守ろうとすれば、秦明様に押し潰される。
ここを使い切れば、逃げ道が残る。
私は宋江様を見た。
「宋江様」
「うむ」
「秦明様を止めた後、清風山はしばらく使えません」
「……そうか」
「燕順様、王英様、鄭天寿様も、ここには残れなくなります」
宋江様の顔が重くなった。
「では、どこへ」
「梁山泊へ連れて行けばよろしいかと存じます」
その場が静かになった。
燕順様が、宋江様を見る。
鄭天寿様も。
王英様まで、黙っている。
宋江様は、私を見た。
「わしが、連れて行くのか」
「はい」
「清風山の者たちを」
「はい」
「それは、わしの一存で決めてよい話では」
「清風山を使うのであれば、その後の行き先も決めておくべきです」
私は言った。
「使った場所の後始末でございます」
宋江様は、すぐには答えなかった。
だが、拒まない顔だった。
火種は消えた。
黄信様は逃げた。
次は、秦明様が来る。
そして、その次には梁山泊が見えている。
悪女になる暇がない。
本当にない。
逃げ道は一つだけ残した。
黄信様のために。
だが、今度はこちらの逃げ道を作らなければならない。
清風山を使う。
秦明様を孤立させる。
その後、残った者を梁山泊へ連れて行く。
勝ったわけではない。
ただ、次の火に備える時間を得ただけである。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の処理結果は、以下の通りでございます。
黄信様の進軍を確認。
花栄様の前進を停止。
宋江様の自発的出頭を停止。
王英様の前進を停止。
劉高様の火種は、伏兵の矢により消失。
黄信様は、残した逃げ道より離脱。
以上でございます。
勝ったわけではございません。
火種は消えましたが、火は逃げました。
次に来るのは、秦明様でございます。
なお、清風山につきましては、次回以降、火計の盤面として使用予定でございます。




