火が形を持って来ます
閻婆惜でございます。
本日は、形を持って来る火について確認いたします。
劉高様の疑いは、ただの疑いでは終わりません。
黄信様が来れば、兵と名目を伴います。
つまり、火が具体的な形を持って来るのでございます。
花栄様は前に出さない。
宋江様も前に出さない。
王英様はもっと前に出さない。
黄信様を殺す場面ではございません。
捕まらず、殺さず、時間を稼ぐ場面でございます。
なお、これは軍師ではなく炎上対応でございます。
清風山へ入っても、落ち着く暇はなかった。
火のそばに座る場所は用意された。
湯も出され、見張りも置かれた。
燕順様も、鄭天寿様も、こちらを客として扱ってくれている。
だが、ここは客間ではない。
山賊の根城である。
粗末な木組み。
踏み固められた土。
武器を持った男たち。
低く流れる声と火の匂い。
清風寨の屋敷とは、何もかも違う。
私は湯の椀を両手で持つ。
温かかった。
だが、指先はまだ少し冷えていた。
宋江様は、火の向こうで黙っている。
花栄様は、腰を下ろしただけだった。
顔はまだ山の下を向いている。
屋敷に家族、置いてきたものが多すぎる顔だった。
王英様は、少し離れたところに置かれている。
燕順様がそうした。
鄭天寿様も異論を挟まなかった。
よろしい。
水の中に油が浮いている場合、まず距離を取る。
これは大事である。
そこへ、見張りが一人戻ってきた。
息を切らし、慌てている顔だった。
燕順様が立つ。
「どうした」
見張りは膝をついた。
「清風寨より兵が出ました」
火の音が、少し大きく聞こえた。
宋江様が顔を上げ、花栄様も立ちかけた。
私は見た――
花栄様は止まった。
よろしい。
かなり進歩している。
燕順様が聞いた。
「数は?」
「五十ほど」
「率いるのは?」
「黄信殿とのことです」
黄信様――
名前は、すでに紙に出ていた。
劉高様の使いが残した用件にあった名である。
黄信様へ報告。
必要あれば秦明様へ。
火は、もう火種ではなくなった。
形を持って来た。
花栄様が低く言った。
「黄信殿が……」
声に、苦さがあった。
面識があるのだろう。
清風寨の中で、官側のつながりがある相手。
話せば分かるかもしれない相手。
だから危ない。
私は椀を置いた。
「花栄様」
「はい」
「前に出ないでください」
花栄様は、こちらを見た。
「まだ何も言っていません」
「言う顔でした」
宋江様が小さく息を吐いた。
自分だけではなくなった、という顔である。
花栄様は、静かに言った。
「黄信殿とは面識があります。私が話せば」
「だから不可です」
「なぜです」
「捕らえられやすいからです」
花栄様の顔が止まった。
私は続けた。
「面識がある。話せる。誠意を見せたい。そう思う相手ほど、近づいた時に押さえられます」
「黄信殿が、そのような」
「黄信様が悪人かどうかの話ではございません」
花栄様は黙った。
そこが大事である。
悪人なら分かりやすい。
欲で動く者なら避けやすい。
だが、職務で来る者は止めにくい。
黄信様は、劉高様の火を具体的な形で持ってくる。
兵を連れ、名目を持ち、こちらを脅かす理由を持って来る。
だから厄介なのだ。
宋江様が口を開いた。
「婆惜」
「はい」
「わしが出れば」
「不可です」
「またか」
「またです」
「わしの身柄の話だ」
「だから不可です」
宋江様は黙った。
止まるまでが早い。
よろしい。
王英様が、少し離れた場所から声を上げた。
「なら、俺が行くか」
「不可です」
「何で俺まで」
「油だからです」
「まだ油かよ」
「今は火が来ています」
王英様は口を閉じた。
燕順様が、小さく笑った。
「それは分かりやすい」
鄭天寿様も頷いた。
「油を火の前に出すのは危ない」
「お前らまで言うなよ」
王英様が不満そうにしたが、それ以上は出てこなかった。
よろしい。
非常によろしい。
燕順様が私を見る。
「奥方、どう見る」
山賊の頭に、意見を求められている。
妙な気分だった。
私は軍師ではない。
戦をしたいわけでもない。
人を動かして楽しいわけでもない。
ただ、燃え広がる前に押さえたいだけである。
「黄信様は、こちらを討ちに来るというより、まず形を取りに来るはずです」
「形?」
燕順様が聞き返す。
「はい。宋江様の身柄確認。花栄様への事情聴取。清風山との関係確認。名目はいくらでもございます」
花栄様が眉を寄せた。
「私を捕らえると?」
「可能性は高いです」
「黄信殿が?」
「はい」
「……そうか」
花栄様の声が小さくなった。
私はすぐに続けた。
「ですので、花栄様は前に出せません」
「では、私は何を」
「後ろで弓を構えてください」
花栄様の目が、少しだけ変わった。
「牽制ですか」
「はい。撃つためではなく、近づかせないためです」
「殺さない?」
「殺しません」
私ははっきり言った。
「黄信様を殺す場面ではございません。黄信様に捕まらず、黄信様を殺さず、時間を稼ぐ場面でございます」
火のそばが静かになった。
燕順様が、少しだけ目を細めた。
「奥方、まるで軍師だな」
「違います」
「では、何だ」
「炎上対応でございます」
燕順様は一瞬止まり、それから短く笑った。
「炎上対応か」
「はい」
「聞いたことはないが、今の状況には合うな」
「合ってほしくはありません」
本当に、合ってほしくはなかった。
私は頭の中で確認事項を並べる。
黄信様対応確認。
一、黄信様は劉高様の報告で動く。
二、火を具体的な形で持ってくる。
三、花栄様は前に出ない。
四、宋江様も出ない。
五、王英様はもっと出ない。
六、燕順様と鄭天寿様を前に出す。
七、花栄様は後方で弓を構える。
八、黄信様は殺さない。
九、捕まらず、殺しすぎず、時間を稼ぐ。
十、後ろに秦明様がいる前提で見る。
十が重い。
秦明様――
まだ来ていない。
だが、名はすでに見えている。
黄信様で火を止められなければ、その先にもっと大きな火が来る。
それだけは分かる。
私は燕順様へ向き直った。
「燕順様、鄭天寿様」
「何だ」
「黄信様への対応は、お二人にお願いします」
王英様が何か言いかけた。
私は見た。
「王英様は不可です」
「まだ言ってねえだろ」
「言う顔でした」
宋江様が、少しだけ気の毒そうな顔をした。
自分と同じ扱いだと思ったのかもしれない。
違う――
宋江様は火種を背負う方で、王英様は油である。
分類が違う。
鄭天寿様が静かに言った。
「我らが前へ出て、黄信を引き受ける。花栄殿は後ろから弓。宋江殿と奥方はさらに奥へ」
「はい」
「王英は」
「奥へ」
「何でだよ」
「油だからです」
「もう聞き飽きた」
「覚えていただけて何よりでございます」
王英様が顔をしかめた。
だが、燕順様が睨むと黙った。
よろしい。
本当に、よろしい。
花栄様が、弓を手に取った。
「奥方」
「はい」
「もし、黄信殿が本当に私を捕らえに来たなら」
「はい」
「私は、弓を引けるでしょうか」
その声は、静かだった。
けれど、重い。
私は少しだけ黙った。
花栄様にとって、黄信様はただの敵ではない。
清風寨側の官軍。
同じ土地にいた相手。
おそらく、顔も声も知っている。
そこへ弓を向ける。
簡単なはずがない。
「花栄様」
「はい」
「黄信様を射殺す必要はございません」
「はい」
「ですが、黄信様に近づかれれば、花栄様が捕らえられます」
花栄様は何も言わない。
「花栄様が捕らえられれば、宋江様も危うくなります。清風山も動かざるを得ません。劉高様の報告は、さらに強くなります」
「分かっています」
「ならば、足を止めてください」
花栄様の目が、こちらを向いた。
「足?」
「はい。殺す弓ではなく、止める弓です」
花栄様は、少しだけ息を吸った。
「それなら」
「はい」
「できます」
よろしい。
とてもよろしい。
弓の名手である花栄様が、殺すためではなく止めるために構える。
これで少しだけ火が小さくなる。
宋江様が低く言った。
「婆惜」
「はい」
「そなたは、本当に軍師ではないのか」
「違います」
「では、やはり」
「炎上対応です」
「そうか」
「はい」
宋江様は、それ以上言わなかった。
本当に学習している。
この進歩は、かなり大きい。
燕順様が、手下へ指示を出し始めた。
「正面に人数を出せ。正面作戦に見せろ」
「へい」
「横道に伏せろ。ただし、逃げ道は一つ残せ」
私は思わず顔を上げた。
燕順様がこちらを見る。
「これでいいか」
「はい」
「完全に塞ぐと、黄信殿が本気になる」
「その通りです」
「奥方の言い方が移ったな」
「よろしい傾向です」
燕順様が笑った。
鄭天寿様は、冷静に周囲を見ている。
「王英は奥に置く。宋江殿と奥方の近くには寄せない」
「おい」
「油は奥だ」
「だから誰が油だ」
「お前だ」
よろしい。
清風山側もかなり理解してきた。
その時、別の見張りが走って来た。
「黄信の兵、山の下へ入りました」
空気が締まった。
火が来た。
いや、火そのものではない。
劉高様の疑いが、具体的な形を持って来た。
五十の兵。
黄信様の名。
捕らえる名目。
青州へ送る道筋。
ここから先は、一つ間違えれば燃える。
花栄様が弓を手に、静かに立つ。
宋江様は奥へ下がった。
私はその横にいる。
王英様は、さらに離されている。
燕順様と鄭天寿様が前へ出る。
配置はできた。
軍師ではない。
本当に違う。
だが、今この場で誰が前に出て、誰が下がるかを決めなければ、すぐに火が広がる。
私は小さく息を吐いた。
「宋江様」
「うむ」
「今から何があっても、前へ出ないでください」
「分かっておる」
「花栄様が呼ばれても」
「分かっておる」
「黄信様が怒っても」
「分かっておる」
「王英様が余計なことを言っても」
「そこは、分からぬ」
「では、止めます」
「うむ」
よろしい。
王英様は信用されていない。
正しい判断である。
山の下から、兵の声が聞こえ始めた。
まだ遠い。
だが、さっきの劉高様の使いとは違う。
数がいて、武器がある。
火が、形になって近づいてくる。
悪女になる暇がない。
黄信様が来る。
劉高様の疑いが、具体的な形を持ってこちらへ来る。
花栄様を渡さない。
宋江様を渡さない。
王英様を前に出さない。
勝つためではない。
黄信様を殺さず、こちらも捕まらず、少しでも火を大きくしないために。
今は、時間を稼ぐのである。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の処理結果は、以下の通りでございます。
黄信様の接近を確認。
花栄様の前進を停止。
宋江様の自発的出頭を停止。
王英様の前進を停止。
以上でございます。
黄信様は悪人と断じる相手ではございません。
ですが、兵を連れて来られる以上、近づけるわけにはまいりません。
花栄様には、討つ弓ではなく止める弓をお願いしました。
なお、今回の配置につきましては、軍師業務ではなく炎上対応でございます。




