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20/63

油は水に浮きます

閻婆惜でございます。

本日は、清風山の水について確認いたします。

清風山へ入れば、劉高様の手からは逃れやすくなります。

ですが、逃れやすいことと、安全であることは別でございます。

燕順様と鄭天寿様は水。

王英様は油。

水に入ったからといって、油が浮いていないとは限りません。

なお、王英様は褒めても接触禁止でございます。

清風山へ向かう裏道は、思ったより険しかった。

夕方の光が、木々の間で薄くなっている。

足元の土は乾いていたが、影の濃い場所だけ少し湿っている。

花栄様が先を行き、宋江様はその後ろ。

私は中央に置かれた。

守られている形である。

ありがたい。

ありがたいが、落ち着かない。

背後には、まだ清風寨がある。

劉高様の使い。

屋敷の前に置かれ始めた人の気配。

門と横道と裏手。

あのまま残っていれば、遅かれ早かれ囲まれていた。

だから出た。

それは正しい。

少なくとも、今できる中では一番マシだった。

だが、マシであることと、安心できることは別である。

花栄様が振り返らずに言った。

「もう少しです」

「はい」

私は短く答えた。

宋江様は黙っている。

たぶん、色々考えている。

自分が原因だとか、花栄様を巻き込んだとか、私まで危険に晒したとか。

考えそうなことは分かる。

だが、今は考えられても困る。

顔に出るからである。

「宋江様」

「うむ」

「今は歩いてください」

「まだ何も言っておらぬ」

「顔が謝り始めております」

宋江様は、少しだけ目を伏せた。

「顔まで先に動くのか」

「はい」

「厄介だな」

「宋江様の場合、かなり」

花栄様が、ほんの少しだけ肩を揺らした。

笑いかけたらしい。

だが、声にはしなかった。

よろしい。

山道の先で、鳥の声が変わった。

いや、鳥ではない。

人の合図だ。

花栄様が足を止める。

すぐに手を上げた。

木の影から、数人が姿を現した。

先頭にいたのは燕順様だった。

その後ろに、鄭天寿様。

さらに少し離れて、王英様の姿もある。

来た――

水が来た。

そして、油も来た。

燕順様は、こちらを見るなり姿勢を改めた。

「宋江殿。奥方。花栄殿。よくぞこちらへ」

「世話になる」

宋江様が答える。

花栄様も礼を返した。

「急なことになり、すまない」

「劉高が動いたのだろう」

燕順様は、話が早い。

そこは助かる。

鄭天寿様も静かに頷いた。

「こちらも支度を進めています。山へ入れば、ひとまずは追いにくくなるでしょう」

ひとまず――

その言葉が正しい。

安全ではない。

追いにくくなるだけである。

私は頭を下げた。

「受け入れていただき、ありがとうございます」

「奥方の文は、分かりやすかった」

燕順様が言った。

「ただ、一文だけ妙に強かったがな」

私は王英様を見た。

王英様もこちらを見ていた。

距離はまだある。

宋江様がいて、燕順様もいる。

鄭天寿様もいて、花栄様もいる。

この場で何かが起きるとは思わない。

思わない――

だが、思わないことと、危険を感じないことは別である。

王英様の視線は、少し長い。

言葉にするには足りない。

責めるにはまだ早い。

だが、身体の方が先に距離を測る。

この人は、近づけてはいけない。

そういうカードが、頭の中で赤く立っている。

王英様が、にやりと笑った。

「奥方は、近くで見れば見るほど、お綺麗ですね」

言葉だけなら、褒めている。

そう言い逃れできる程度の言葉だった。

だが――

近い。

近過ぎる。

いつの間にか、一歩分だけ距離が詰まっていた。

私は考えるより先に、一歩下がった。

宋江様は、見目のよい方ではない。

少なくとも、花栄様や鄭天寿様のように人目を引く方ではない。

けれど、私の夫である。

見た目で選んだわけではない。

そもそも、選べた結婚でもない。

それでも、この方は私を妻として扱い、私の言葉を聞き、言ってはならないことを覚えようとしている。

それは、顔立ちよりずっと正しい。

「王英様」

「何だ」

「近くで見ないでください」

王英様の顔が、少し止まった。

「褒めただけだろう」

「褒める距離ではございません」

燕順様が低く言った。

「王英、下がれ」

鄭天寿様も続ける。

「余計なことを言うな」

よろしい。

抑え役は機能している。

だが、抑え役が必要な時点で、安全ではない。

宋江様が、口を開きかけた。

「婆惜、王英も悪気は――」

私は見た。

宋江様は止まった。

「……言ってはならぬやつか」

「はい」

「そうか」

「はい」

王英様が、少し不満そうな顔をした。

しかし、燕順様の視線を受けて、それ以上は前に出なかった。

よろしい。

非常によろしい。

私は紙に書きたくなった。

だが、山道である。

ここで紙を広げるわけにはいかない。

頭の中だけで確認する。

清風山到着確認。

一、清風山へ入った時点で、劉高様の疑いは濃くなる。

二、ただし清風寨で押さえられるよりはまし。

三、燕順様は話が通じる。

四、鄭天寿様は抑え役に回れる。

五、王英様は油。

六、王英様は褒めても近づけない。

七、宋江様は王英様を庇う前に止まる。

八、花栄様は清風山側と衝突しない。

九、ここは避難先であって、安全地帯ではない。

十、劉高様は黄信様へ報せる可能性が高い。

やっぱり五は、赤で書きたい。

王英様は油。

油が水に浮いている。

それが今の清風山である。

燕順様が、山の奥へ目を向けた。

「まずは中へ。劉高の手の者が来る前に、姿を隠した方がいい」

「お願いします」

花栄様が答える。

「ただし、私が来たことで、そちらにも迷惑をかける」

燕順様は短く笑った。

「今さらだ。宋江殿が絡んだ時点で、静かな話では済まん」

宋江様が、少しだけ顔を曇らせた。

私は見た。

「宋江様」

「……分かっておる。顔だな」

「はい」

燕順様が不思議そうにこちらを見た。

「顔?」

「宋江様は、顔に出ます」

「なるほど」

納得が早い。

山賊にまで納得されている。

宋江様は、少しだけ気の毒な顔をした。

それもまた顔に出ている。

鄭天寿様が静かに言った。

「ここで長く話すのは危ない。移りましょう」

「そうだな」

燕順様が頷く。

王英様も歩き出そうとしたが、私の近くへ寄ろうとしたので、燕順様が腕を出した。

「お前は後ろだ」

「何でだよ」

「油だからだ」

私は燕順様を見た。

伝わっている。

非常によろしい。

王英様が顔をしかめる。

「誰が油だ」

鄭天寿様が、淡々と言った。

「火の近くへ置けぬ者だ」

かなりよろしい。

宋江様が、今度は完全に黙っていた。

学習している。

本当に進歩している。

山の中へ入ると、道はさらに険しくなる。

清風寨の整った道とは違う。

石が出て、木の根がある。

足元を見なければ危ない。

けれど、追われる身には悪くない。

追いにくい。

見つけにくい。

逃げ込みやすい。

それは同時に、ここが山賊の根城だということでもある。

清風山へ入った。

つまり、劉高様から見れば、逃げ込んだ先が山賊の山になった。

逃げてきた、という説明はさらに怪しくなる。

花栄様は、逃げてきた友を保護しただけでは済まなくなる。

宋江様は、山賊と通じたように見える。

私も、その妻として一緒に入ったことになる。

だが、それでも捕まるよりはましだった。

この考えを、もう何度も繰り返している。

繰り返しているのは、迷っているからではない。

迷わないためである。

しばらく歩くと、山中の開けた場所へ出た。

粗末だが、火のある場所。

見張りのいる場所。

人の声が流れている。

清風山の根城だった。

燕順様が振り返る。

「しばらくここで休め。追手が来るかは、こちらで見ておく」

「ありがとうございます」

私は頭を下げた。

「ただし、こちらに入ったことで、劉高様は黄信様へ報せる可能性が高うございます」

燕順様の顔が少し険しくなる。

「やはり、そう見るか」

「はい」

花栄様が低く言った。

「劉高殿は、私が宋江殿を逃がしたと見るでしょう」

「それだけでは済まないかと」

私は答えた。

「清風山へ入った以上、花栄様が清風山と通じた形に見えます」

花栄様は黙った。

宋江様も、口を閉じている。

言えることは、たぶんある。

言いたいこともある。

だが、今は言っても火に油を足すだけだ。

油は、もう一人いる。

王英様が、少し離れた場所で不満そうにしていた。

燕順様の指示で、私の近くには来ない。

それでも、視線だけは時々こちらへ来る。

私は見なかった。

見れば、確認事項が増える。

もう十分である。

鄭天寿様が、火のそばに座る場所を示した。

「奥方はこちらへ。宋江殿も」

「助かります」

宋江様が礼を言う。

花栄様は立ったままだった。

山の入口の方を見ている。

「花栄様」

私は声をかけた。

「はい」

「今は、清風山側と衝突しないでください」

「分かっています」

「顔が、まだ屋敷にあります」

花栄様は、少しだけ息を止めた。

「……そう見えますか」

「はい」

「失礼しました」

「お気持ちは分かります」

本当に分かる。

自分の屋敷を置いて来たのだ。

家の者も、家族も、まだ結果は分からない。

それでも、今は前を見るしかない。

燕順様が、使いを一人呼んだ。

「山の下を見ろ。清風寨の動きもだ」

「へい」

「王英は行くな」

王英様が不満そうにした。

「何で俺だけ」

「油だからだ」

「またそれかよ」

「またそれだ」

よろしい。

かなりよろしい。

私はようやく、少しだけ息を吐いた。

清風山へ入った。

水には辿り着いた。

だが、水に入れば安全というわけではない。

劉高様の火は、こちらが山へ入ったことでさらに大きくなる。

黄信様へ話が飛ぶだろう。

その先に秦明様の名もある。

そして、この水には油が混じっている。

悪女になる暇がない。

清風山へ逃げて、捕まらずには済んだ。

だが、疑いは濃くなった。

水に逃げたはずなのに、油が水に浮いていた。

安全な場所など、どこにもないのである。

本件、閻婆惜よりご報告いたします。

本日の確認事項は、以下の通りでございます。

清風山は避難先であって、安全地帯ではない。

油は水に浮きます。

褒め言葉でも、距離が近ければ接触案件である。

宋江様は、言ってはならぬことを言う前に止まりました。

以上でございます。

清風山へ入ったことで、捕まらずには済みました。

ですが、劉高様の疑いはさらに濃くなります。

なお、王英様は褒めたので、接触厳禁でございます。

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