宋江様、まず現状を確認いたします
閻婆惜でございます。
目が覚めたら、知らない部屋におりました。
しかも、知らない殿方から「婆惜」と呼ばれました。
この時点で、確認事項が多すぎます。
水滸伝。
宋江様。
閻婆惜。
そして、死亡フラグ。
まずは落ち着いて、関係者と現状を整理いたしましょう。
なお、悲鳴では状況が改善しないため、今回は省略いたします。
目を開けた時、最初に思ったのは、天井が低い、ということだった。
見慣れた自宅の天井ではない。
会社の仮眠室でもない。
もちろん、社長室でもない。
木の梁。
薄い布。
どこか乾いた匂い。
そして、布団の硬さ。
私は、ゆっくり瞬きをした。
頭が重い。
喉が少し乾いている。
体もだるい。
さっきまで社長室へ向かっていたはずだった。
社長案件。
資料なし。
口頭説明。
まず走り出したい。
撤退条件なし。
危険な言葉の見本市だった。
私は社長室の扉をノックした。
そこまでは覚えている。
その後がない。
寝落ちしたのだろうか。
倒れたのだろうか。
それとも、ついに社長案件に物理的な攻撃力が発生したのだろうか。
考えながら、身を起こそうとした。
その時だった。
「婆惜」
男の声がした。
私は止まった。
部屋の中に、男がいる。
知らない部屋。
知らない布団。
知らない男。
かなり悪い。
仕事なら、この時点で関係者確認が必要である。
私は、できるだけ表情を動かさず、声の方を見た。
男は三十代半ばほどに見えた。
整った顔立ちではない。
だが、人当たりの良さそうな目をしている。
穏やかで、弱い者に優しそうで、困った人間を放っておけなさそうな顔。
私は、そういう顔を会社で何度も見てきた。
たいてい、その後に書類が増える。
男は心配そうにこちらを見ていた。
「気がついたか。顔色が悪いぞ」
私は布団の上で、静かに息を整えた。
悲鳴を上げるべき場面かもしれない。
だが、悲鳴で状況が改善した例を、私はあまり知らない。
まず確認である。
「……失礼ですが、アナタはどなたかしら?」
男が目を丸くした。
「婆惜、何を言っている」
その呼び方が、また引っかかった。
婆惜……
聞き慣れないはずなのに、どこかで見たことがある。
男は少し困ったように笑った。
「わしだ。宋江だ」
その瞬間、頭の奥で何かが止まった。
宋江――
私は、その名前を知っている。
父が昔、居間で遊んでいたゲーム。
テレビ画面に並んでいた、妙に濃い顔の男たち。
隣に置かれていた攻略本。
能力値。
相性。
登場場所。
イベント。
子供の頃の私は、意味も分からず、その攻略本をめくっていた。
宋江。
人望が高い。
義に厚い。
やたら仲間が増える。
たぶん主人公格。
そして、だいたい面倒なことになる人。
その宋江が、目の前にいる。
しかも、私を婆惜と呼んでいる。
婆惜。
閻婆惜。
攻略本の端に、そんな名前があった気がする。
主要人物ではなかった。
能力値も高くなかったと思う。
少なくとも、長生きして大活躍する女ではなかった。
私は、寝台の上で、静かに膝の上の布団を握った。
状況は最悪。
情報は不足。
関係者は宋江。
自分はおそらく閻婆惜。
死亡フラグという言葉が、会社のリスク管理表よりも鮮やかに浮かんだ。
「宋江様」
「なんだ。急に改まって」
「まず、現状を確認させてください」
「現状?」
「私は今、どの段階で死にかけておりますか?」
宋江は黙った。
部屋の空気も黙った。
外で鳥の鳴く声がした。
のどかだった。
こちらは全くのどかではない。
宋江は、ゆっくり口を開いた。
「……死にかけてはおらぬと思うが」
「そうですか」
「なぜ、そのようなことを」
「確認です」
「確認」
「はい。命に関わることですので」
宋江は困った顔をした。
その顔で、私は少し嫌な予感がした。
この男は、きっと悪人ではない。
それは分かる。
だが、悪人ではない男が安全とは限らない。
会社にもいた。
善意で案件を炎上させる人。
情で例外を作る人。
誰かを助けるために、別の誰かへ仕事を回す人。
本人は本気で良いことをしている。
だからこそ、止めるのが面倒になる。
宋江は、まさにその顔をしていた。
「婆惜。何か、怖い夢でも見たのか」
「夢であれば、まだ助かります」
「助かる?」
「いえ。こちらの話です」
私は周囲を見た。
古い部屋。
木の机。
化粧道具らしきもの。
見覚えのない衣服。
現代の物はない。
スマートフォンもない。
腕時計もない。
バッグもない。
身につけている衣服も、どう見ても会社帰りのスーツではなかった。
私は、自分の手を見る。
指が少し細い。
爪の形も違う。
肌の色も、記憶よりわずかに違う。
なるほど――
案件としては、かなり悪い。
「婆惜、本当に大丈夫か」
「大丈夫ではありません」
宋江が心配そうに身を乗り出した。
「医者を呼ぶか」
「その前に、質問にお答えください」
「う、うむ」
「ここは、どこですか」
「鄆城県だ」
鄆城県。
宋江の地元。
たしか、役所勤め。
押司。
攻略本にそんな文字があった。
「アナタは、宋江様で間違いありませんか」
「間違いない」
「字は、公明」
「そうだ」
「呼保義」
「……なぜそれを」
宋江の顔が少し変わった。
私は失敗に気づいた。
しまった。
知識の出し方を誤った。
社内会議なら、事前情報を持っていることは強みになる。
だが、ここでは不審者になる。
私は表情を整えた。
「以前、どなたかから伺った気がいたします」
「そうか」
宋江はまだ不思議そうだったが、深く追及しなかった。
助かった。
この男は人を疑うのが得意ではなさそうだ。
ありがたい。
同時に、組織運営上は不安である。
「では、私は」
そこまで言って、少しだけ喉が詰まった。
聞きたくない。
だが、聞かないと始まらない。
私は続けた。
「私は、閻婆惜で間違いありませんか」
宋江は、ますます困った顔をした。
「何を言っている。そなたは婆惜ではないか」
確定した。
私は閻婆惜だった。
父の攻略本に載っていた、あの閻婆惜。
宋江に関わり、よい結末を迎えない女。
悪女扱いされがちな女。
正直、もっと他にあったのではないかと思う。
せめて、役所の書記官。
あるいは商家の帳簿係。
百歩譲って、梁山泊の会計担当。
よりによって、宋江の妻。
案件の中心に近すぎる。
「婆惜?」
「少々、情報量が多くて」
「情報量」
「いえ、こちらの話です」
私は息を吸った。
取り乱しても仕方ない。
今必要なのは、現状把握。
関係者。
場所。
時期。
リスク。
逃げ道。
いつも通りである。
会議室が古い部屋に変わっただけだ。
資料がないのはいつものことだ。
責任者が曖昧なのも、まあ、よくある。
問題は、失敗時の損失が命であることだった。
「宋江様」
「うむ」
「今、私はアナタとどのような関係でしょうか」
宋江は一瞬、固まった。
「どのような、とは」
「確認です」
「そなたは、わしの妻であろう」
妻――
私は心の中で、稟議書に赤字を入れた。
重要項目。
既婚。
相手、宋江。
危険度、高。
「そうですか」
「そうですか、とは」
「理解しました」
「本当に大丈夫か」
「大丈夫ではありませんが、今は大丈夫という扱いで進めます」
「進める?」
宋江は完全に困っていた。
申し訳ないとは思う。
だが、こちらも突然、人生の契約書を差し替えられたような状態である。
説明なし。
同意なし。
引継ぎなし。
人事異動としては最悪だ。
「宋江様」
「なんだ」
「私は、昨日までどのような様子でしたか」
「昨日?」
「はい。発熱、転倒、記憶混濁、変わった言動などは」
「そなたは少し疲れているようではあったが……急に倒れたのだ。皆、驚いた」
「なるほど」
倒れた。
その隙に私が入った。
細かい仕組みは分からない。
分からないものを今考えても、答えは出ない。
まずは、この体の持ち主が置かれていた状況を知るべきだった。
「金銭関係は」
「金銭?」
「私が誰かに借金をしている、または誰かへ金品を要求している事実はありますか」
宋江が、わずかに目を泳がせた。
ある。
これはある顔だ。
私は頭痛を覚えた。
「宋江様」
「うむ」
「目を逸らさずにお願いいたします」
「いや、その」
「金銭関係ですね」
宋江は小さく咳払いをした。
「婆惜は、少々、暮らし向きのことで不満を漏らしておった」
少々。
便利な言葉である。
会社でも、「少々」のトラブルは大抵かなり燃えている。
「具体的には」
「その、衣や飾り物などを」
「要求していた」
「まあ、そう言えなくもない」
言えなくもない、は言っているのと同じである。
私は額を押さえた。
閻婆惜。
悪女扱い。
金にうるさい女。
宋江との揉め事。
攻略本のぼんやりした記憶が、少しずつ嫌な形を作っていく。
「宋江様」
「うむ」
「私は、アナタに不利な何かを握っていますか」
宋江の顔が、今度こそはっきり変わった。
ある。
これは完全にある。
私は、布団の上で姿勢を正した。
「宋江様」
「婆惜、それは」
「隠さずお話しください。隠したまま進めると、たいてい事故になります」
宋江は黙った。
この沈黙は重い。
会社で言えば、会議後に個別で相談したいと言われる重さだった。
「まだ、そなたには話しておらぬ」
「では、話す予定のある案件ですね」
「案件というほどでは」
「宋江様」
「……うむ」
「人が隠そうとするものは、大抵、案件です」
宋江は困り果てた顔をした。
その顔を見て、私は確信した。
この人は、すでに何かを抱えている。
そして、それを善意か義侠心か何かで処理しようとしている。
最悪だ。
私は現代で、何度も同じ種類の顔を見た。
先方とは話がついている。
今さら止められない。
悪いようにはしない。
自分が責任を取る。
その後、責任を取れた人間を、私はあまり見ていない。
「宋江様」
「なんだ」
「今後、私へ何かを渡す予定がある場合、必ず内容を先に確認させてください」
「渡す?」
「書状、金品、証拠物、印、鍵、その他、後で揉めそうなもの全般です」
宋江は目を瞬かせた。
「そなたは、本当に婆惜か」
来た。
当然の疑問だった。
私もそう思う。
だが、ここで違いますと言っても仕方ない。
別人です。
現代日本から来ました。
父がゲームをしていました。
攻略本でアナタを見ました。
アナタはだいたい面倒なことになります。
そんな説明が通るとは思えない。
私は、静かに答えた。
「昨日までの私と違うところがあるなら、病み上がりということにしてください」
「病み上がり」
「はい」
「そなた、病み上がりでそのように話しておるのか」
「むしろ、病み上がりだからこそ、確認が必要です」
宋江は何か言いかけて、やめた。
よい判断である。
「水をもらえますか」
「あ、ああ」
宋江が立ち上がり、水を持ってくる。
その間に、私はもう一度、部屋を見回した。
逃げられるか。
分からない。
そもそも、どこへ逃げるのか。
金はあるのか。
味方はいるのか。
閻婆惜の評判はどうか。
宋江との関係は修復可能か。
死亡イベントまで、あとどれくらいあるのか。
必要な情報が多すぎる。
私は、水を受け取った。
器は重く、手触りが現代のものと違う。
水は少しぬるかった。
それでも喉にはありがたい。
一口飲んで、私は言った。
「宋江様」
「今度は何だ」
声に少し疲れが出ていた。
申し訳ない。
だが、こちらの方が疲れている。
「紙と筆を用意していただけますか」
「紙と筆?」
「はい」
「何を書く」
私は、少し考えた。
死亡回避計画。
宋江関連リスク一覧。
閻婆惜現状確認表。
どれもそのまま書くには危ない。
なので、無難な言葉を選んだ。
「今後の確認事項です」
宋江は眉を寄せた。
「確認事項」
「はい。まずは、私と宋江様の間で認識を合わせます」
「夫婦で、そのようなものが必要か」
「必要です」
即答した。
宋江が黙った。
私は器を置き、はっきり言った。
「口頭の合意は、合意ではなく記憶です」
宋江は、完全に意味が分からない顔をした。
当然である。
水滸伝の世界に、現代企業の会議室を持ち込んでいるのだから。
だが、私は本気だった。
ここで曖昧に笑って流せば、たぶん死ぬ。
悪女になるか、殺されるか、その両方か――
どれも避けたい。
私は悪女になりたいわけではない。
宋江を脅したいわけでもない。
天下を取りたいわけでもない。
ただ、生きたい。
できれば、まともに……
そのためには、まず書面である。
宋江は、深いため息をついた。
「婆惜。そなた、倒れてから少し変わったな」
「そうでしょうか」
「変わった」
「では、良い方向に変わったということでお願いいたします」
「良い方向かどうかは、まだ分からぬ」
「そこは今後の運用次第です」
宋江は、また黙った。
私は思った。
この人、黙る回数が多い。
悪人ではない。
だが、返答に困ると黙る。
黙っている間に情で動く。
そして、おそらく問題を抱え込む。
危険である――
宋江は、ようやく苦笑した。
「分かった。紙と筆を持ってこよう」
「ありがとうございます」
宋江が部屋を出ていく。
扉が閉まる。
一人になった瞬間、私は肩の力を抜いた。
怖くないわけではない。
むしろ、かなり怖い。
知らない時代。
知らない体。
宋江の妻。
閻婆惜。
死亡フラグ。
普通なら泣いてもいい。
叫んでもいい。
布団を被って現実逃避してもいい。
だが、泣いている間に案件は進む。
案件は、こちらの感情を待ってくれない。
私は膝の上で手を握った。
父の攻略本を、もっと真面目に読んでおけばよかった。
能力値だけで笑っている場合ではなかった。
せめて閻婆惜の欄に付箋を貼っておくべきだった。
いや、子供の頃の私にそこまで求めるのは酷である。
それに、今さら言っても仕方ない。
私は息を吐いた。
まず、宋江を怒らせない。
金で揉めない。
証拠を握らない。
握ってしまった場合は、保管場所と開示条件を決める。
晁蓋、呉用、李逵には注意。
招安は危険。
方臘はもっと危険。
頭の中に、雑なリスク表ができていく。
しばらくして、宋江が紙と筆を持って戻ってきた。
「これでよいか」
「十分です」
私は紙を受け取った。
墨の匂いがする。
キーボードはない。
変換もない。
コピーもできない。
不便だった。
だが、紙がある。
なら、始められる。
私は筆を持ち、最初の一行を書いた。
確認事項。
少し考えて、その下に続ける。
一、私は閻婆惜である。
二、夫は宋江である。
三、死亡リスクが高い。
四、原因はおそらく情報不足と感情的判断である。
五、まず関係者の整理を行う。
宋江が横からのぞき込んだ。
「婆惜」
「はい」
「三と四は、何だ」
「重要事項です」
「消してくれ」
「確認が取れるまでは消せません」
宋江は頭を抱えた。
私は筆を置き、穏やかに告げた。
「宋江様」
「なんだ」
「本日より、危ないことをなさる前に、私へご相談ください」
「危ないことなど」
「今、その顔をしました」
「どの顔だ」
「相談せずに進める方の顔です」
宋江は黙った。
やはり、黙った。
私は紙を見下ろした。
水滸伝。
梁山泊。
百八星。
義侠。
戦。
招安。
方臘。
どれも、私の人生には関係ないはずだった。
だが、関係者欄に名前が載ってしまった以上、無視はできない。
私は、筆を持ち直した。
まずは夫の管理から。
梁山泊どころではない。
この案件、初手から燃えている。
本件、閻婆惜よりご報告いたします。
本日の確認事項は、以下の通りでございます。
私は閻婆惜である。
夫は宋江様である。
死亡リスクは高い。
以上、どれも見なかったことにはできません。
まずは夫婦関係の整理から始めます。
梁山泊の皆様には、もう少し後でお越しいただきたく存じます。




